第十二章 暴かれるもの
朝になると、真っ青な顔の家令がルイーズを運び出していった。おびただしい血のあとが入り口の扉まで点々と続いていたのが、明るい日の下でまざまざとミシェールの目に焼き付いた。
彼が部屋の隅でうずくまっている間に、やはり顔色の悪い使用人の少女達が、震えながらも手早く床の血痕を掃除していった。
それでも、完全に死の痕跡を消すことはかなわなかった。
目が、腕が、覚えていた。
叫びだしそうになる。自分を強く抱きしめ、彼はこみ上げるものを飲み下そうと必死だった。
ルイーズ。
余計なことをしなければ。考えなければ。あの娘は。
「いつまでそうしているつもりだ?」
かつ、と床が鳴った。
顔を上げ、そこに黒衣の青年を見つけ肌が泡立つ。
思わず身体が後ろへ下がるが、壁に阻まれて動くことができない。
近づいてくる。フェオドールが。
「飲め」
顎を掴まれ、口を開かされた。間髪入れずゴブレットから何かを流し込まれ、激しく咳き込んだ。
「吐き出すなよ。特製の薬だ。これから一仕事してもらう」
倒れたミシェールを乱暴に引き起こし、フェオドールは愉悦の笑みを浮かべる。
きっとこんな顔で、あの娘を手にかけたのだ。
「オラニエ男爵の子供の片割れ。その行方を知りたい」
おかしい。ひどく眠い。言葉が頭の中でわんわんと反響している。
「私のために時を描け。ミシェール・ブラン」
手足の感覚が痺れたようだ。目の前もぼんやりと霞んで、よく見えない。 それなのに身体が動き、イーゼルに新しいキャンバスを立てかけるのは感じられた。
今飲まされたのは、あの香と同じくブランの力を思い通りにするための薬なのだろうか。
筆が、動く。
描き出される軌跡は――。
産まれた子供は、双子だった。
顔立ちがどことなく違う二人の男の赤ん坊。オラニエ男爵は自分と同じ榛の瞳の子供を抱き上げ、歓喜に快哉を叫んだ。
その二日後に、この国で最も重要で貴い地位にある赤子が生まれ、直後に身罷ってしまったことを聞かされた。子供の母親は悲しみで半狂乱となり、父親はやはり哀しんではいたものの、最も必要だと思われる措置を講じた。
無事に赤子が生まれ、それは男だったのだと国の内外に知らしめること。あのころ国内の情勢は決してよいとは言えず、加えて王妃の最初の子供は死産だった。
王妃が世継ぎを産めないという理由だけで、戦が起きても不思議ではなかった。
だから、王太子の存在を示すことが必要だった。さらに最悪の場合は、身代わりの子供を至尊の地位に――王位につけることも、国王夫妻は決断していた。
血筋という点では、幸か不幸か問題はなかったのだ。オラニエ男爵の妻の母親は、もともと王家の娘だったのだから。男爵も主君の言葉とあれば否を唱えることはできず、子供の一人を王の使者に手渡した。
榛色の無垢な瞳が、何の疑いもなく自分を映し込んでいる様を直視することはできなかった。
忘れてしまった方が楽なのか。それともそれは罪なのか。
あれから二十年、苦悩から逃れることはとうとうできなかった。
力強い熱と光を増し始めた朝陽の中、目の前の絵を男爵はじっと見つめていた。
オーランシュ公爵によって再び鮮やかに暴かれた、あの日の光景。本当に嬉しかった。妻に感謝し、神に感謝し、子供達に感謝した。
「父上」
息子が扉を叩く。男爵は絵を布で覆い隠した。
「アラゴン伯爵閣下がお見えです」
「そうか」
黒い髪は自分に、濃い青の瞳と面差しは妻によく似た息子。自分に兄がいたことを、生涯知らずに過ごすのだろう。不憫に思ったこともしばしばあった。
「近頃、あの方はよくいらっしゃいますね。父上もお訪ねになっていらっしゃいますし」
「ああ。急を要することがあってな」
「また辺境の治安が悪化しているのですか?」
「そうではない」
微笑み、彼は息子の肩を軽く叩いた。
「何か飲み物を頼む。すまないが先に仕事を始めていてくれ」
「はい」
いつの間にか、彼より上背が高くなっていた後ろ姿を見送り、溜息をついた。
榛の目の子供も、とうに彼の背を追い越している。
ブランの青年が王の私室へ招かれ、絵を望まれたと聞いていても立ってもいられなくなった。フェオドールが企んでいることがわからず、ただそれが 悪い方向へ作用することが恐ろしかった。
だからあの青年をフェオドールから引き離してしまいたかった。
結局、それは阻まれてしまったが。
応接室の扉を、男爵は軽く二度叩く。
心地よくしつらえられた室内に、重鎮が待っていた。
「お待たせいたしました」
「こちらこそ、朝早くにすまなかったな」
アラゴン伯爵が穏やかに言う。
「何か動きは?」
「今のところは……。いや、不審な荷物が朝早くに運び出されたらしい」
「荷物?」
「大きな木箱だったそうだ。運び出す使用人達の様子も何かに怯えているようだったと」
オラニエ男爵は、眉をひそめる。
取るに足らないことかもしれない。しかし、そう判断する決定的な材料もない。
「オーランシュ公爵は、しばらく宮廷には顔を出さないらしい」
アラゴン伯爵も思案顔で、しきりに肉の付いた顎を撫でている。
「引き続き監視は続けさせる。当分急ぎの政務はない。私は屋敷で待機していよう」
「しかし閣下」
「外務卿はお忙しいはずだ。君は出仕しなければまずいだろう」
オラニエ男爵は外務卿の部下で、アラゴン伯爵は法務卿の補佐をしている。確かにどちらも今は何かと多忙なのだが、経験や立場から見れば断然伯爵の存在のほうが重要なはずだ。
「君は、なるべく陛下のおそばにいた方がいい」
だが続けられた言葉の厳かさが、男爵を打った。
「陛下は聡明な方だ。おそらく気づいておられるのではないかな」
唇がわなないた。そんなはずはない。彼の周りにいるすべての者が、力を尽くして隠し通してきたことなのだから。
「理屈ではなく、わかるものだろう。そういうことは」
「まさか……」
「だから齢二十歳となられても、ご結婚に積極的ではいらっしゃらないのではないかと思うが」
そうなのかもしれない。違うのかもしれない。
「数年後にルイ殿下がお生まれになり、前王陛下も王太后陛下も大層苦悩されたのだ。早まらず時期を待てば、むごい定めを君達に課すことはなかったのではないかと」
一度は確かに抱きしめた温もり。二度とは触れることの叶わぬ存在。
あの日が訪れなければ、まったく違った今があったのだろう。
けれど。
「そのお言葉を聞けただけで、私には十分です。主従ではありますが、会うこともできる。助けとなることもできる。それに何より、お二人とも取り上げずにおいてくださったものがあります」
二人の子供の名は、彼が付けたのだ。
最初に抱き上げた赤子の名は。
「シャルル陛下と、今でもお呼びすることができるのです。不幸なはずがありましょうか」
「そうか……」
伯爵は、深くうなずいた。
「余計な話をしてすまなかったな」
「いいえ。ありがとうございました」
男爵は微笑んだが、すぐに表情を引き締めた。
「では申し訳ありませんが、閣下。公爵家の件は」
「ああ。そちらも頼むぞ」
「はい」
「何かあったら連絡を」
何かが起きるかもしれない。起きないかもしれない。
本当にわからない。あの青年は、ブランの力をどう使うつもりなのか。目的は、何なのだろう。
「陛下をお守りしなければ」
アラゴン伯爵は、額の汗をハンカチで拭った。
「ええ。何としてでも、陛下は」
男爵もうなずき、扉の外の従僕に公用馬車を用立てるよう命じた。
「お屋敷までお送りします。朝早くにお気遣いいただいて、感謝いたします」
「いやいや。こちらこそ助かるよ」
男爵家の馬は、とてもよく訓練された駿馬揃いなのだ。馬車もすばらしく乗り心地がいい。
やがて用意ができた馬車に乗り込み、二人は出発した。
手記
私の愛しい方。
ここまで読んでくださったのであれば、もうおわかりかと思います。
オーランシュ公爵のこと。私達の力のこと。
私が何を見て、何を恐れているか。
私が守りたい人のこと。
私の願いすらも、きっとあなたならばお気づきくださったことと信じております。
どうか、お願いします。
結果的に、私はあなたから逃げることになりました。あなたの想いを裏切った形となりました。
でも、私のあのときの気持ちは決して偽りではありません。だからこそ、あなたを救うことのできた私の力を誇りに思い、また嬉しくも思っています。
この力を、今度はあの人のために使いたいのです。
けれど残念ながら、私にはそのための時間が残されていないのです。
私の愛しいあなた。
あなたもまた、私に同じ想いを抱いてくださっていたのなら、どうかその心を、私の守りたいあの人のためにも向けて差し上げてください。
あの人――いいえ、あの子のために。




