第十一章 死
家令は、フェオドールが爵位を継いでから新たに雇われたらしい。他の召使い達も同じような時期に屋敷へ来たとかで、フェオドールの兄達を直接知る者は皆無だった。
晴れない不安を抱えたままで、ミシェールはまっさらの画布に向かい合っていた。
詮索はしない方がいいのかもしれない。フェオドールが知れば、きっと制裁が下される。
それに、過去の瞬間を絵にすることができたとしても、そのあとどうするのか明確な考えがあるわけではない。何をしたいのかすら、わからない。
溜息をつき、彼は絵の具や木炭に目を移す。
時を描き出す力。少し前まで、あんなに嫌悪して怯えていた自分が信じられない。
描きたいと思っている。
それは。
「……嘘だ。あんなのは」
フェオドールを、信じたいからだ。
アラゴン伯爵の言葉に揺れ続ける心を、収めたいからだ。
東屋で抱きしめられたとき。
彼が震えていたと思ったのは、錯覚ではない気がする。
扉を叩く音。顔をそちらへ向け返事をすると、ルイーズが入ってきた。
「お夕食の時間ですわ。旦那様もお待ちです」
「うん……すぐ行く」
彼女に案内され、ぼんやりと廊下を進む。
彼女の母親が生きていて、屋敷にいてくれれば。それでなくても、せめて肖像のようなものが残っていれば。
ふと思い出す。シャルルのために絵を描いたときのあの香が、まだ少し残っていたはずだ。
「ルイーズ」
「はい?」
「お母さんの肖像画とか……顔のわかるものを持っていない?」
歩きながら振り向いた彼女は、怪訝な表情をしていた。
「ございませんわ。どうしてそのようなことを?」
「いや、ごめん。……それなら、いいんだ」
自分の顔を絵にさせることができるのは王族や貴族などの裕福な階層、あるいは身近に絵を得意とする者がいる場合だ。少し考えればわかったことなのにと、ミシェールは赤面する。
このまま、忘れてしまった方がいいのだろうか。フェオドールのくれる居場所と優しい手だけを見て、何も考えず過ごしていけばいいのだろうか。
彼に言われるままに、絵を描いて。
ぎくりと、足が止まる。
唇を噛んで、ミシェールはきつく目を閉じた。
強引にここへ連れてきて、脅迫まがいに知識と教養を身につけさせ、長い間見ないふりをしていたものを暴き立てた人。彼自身の過去への干渉を、殺意で押しつぶそうとした人。
守ると言って、抱きしめてくれた人。
ミシェールのために、あんなに取り乱してくれた人。
駄目だ。
やはり、このままでは。
「ミシェール様?」
食堂への扉の前で、ルイーズが待っている。
ふらつく足を踏み出し、彼女が開けてくれた扉をくぐった。
不思議の力による、明るい光。品のいい銀器。
すがめた視界の先に、黒衣の青年がいた。
「遅かったな」
「……申し訳ありません」
「早く座れ」
ミシェールは従者なのだから、本来は同じ部屋で一緒に食事をする必要はない。けれどフェオドールの帰りが遅くなるときや、ミシェールが絵に没頭しているとき以外は、なぜかこうするのが当たり前になっている。
喉が詰まったような感覚に、つい泣きたくなった。
フェオドールのことが知りたい。アラゴン伯爵の言っていたことなど、取るに足らない邪推なのだと証明したい。昨日のあの恫喝すら、無視できるような確たる何かがほしい。
でも。
どうすれば。
刹那、脳裏に月がよぎった気がした。
扉が閉まる音がする。ルイーズが退出していったのだ。
ミシェールは、息を呑んで虚空を見つめた。
ルイーズの母は、彼女を身籠もっているときに公爵家長男ダヴィットの事件を経験したのだと言っていた。次男ジブリルのことも知っていたらしい。
ルイーズもまた、いたのではないか。
あのとき、あの場所に。
鼓動が早くなる。手が震えて食器が音を立てないよう、細心の注意を払わなければならなかった。
ぎこちなく食事を終え、ミシェールは自室へ駆け戻った。チェストを漁り、いつかの香を取り出して急いで火をつけ、香炉に置く。
煙がくゆり始める。イーゼルの前に座り、木炭を拾い上げた。
ルイーズを思い浮かべる。今よりも少しずつ若い姿を想像し、時を遡らせる。
閉じた瞼の裏に、幼子が見える。鼻孔から身体中に染みこんでくるような、独特の薫りを感じる。
白い霧。手を伸ばし、その向こうの影を追いかけていくのだ。
影を。
そして意識は、遠のいた。
馬は敏感だ。
特にジブリルの愛馬は神経質で、ちょっとしたことでもすぐに興奮する。落馬の危険をいつも忠告されていたのに、飼い主はまったく意に介そうとしなかった。
毎朝遠乗りに出かけるのが、彼の日課だった。馬を連れ出し、思い切り朝靄の中を駆けさせる。通る道はその日の気分によって変えていたが、それほど変化に富んでいるわけではなかった。
木立の中の一本道。光女神メシアナがその力を空と大地に満たし、少しずつ温かくなっていくのを肌で感じながら、風を切る。
蹄の音と馬の呼吸、自分のかけ声だけしか聞こえない。どんどん後ろへ流れていく木々が心地よかった。そうして彼は、領地にある村の近くへさしかかった。
突然だった。
馬が突然いななく。彼の視界が青く染まる。何が起きたのか、と考えるより先に、手は手綱を握りしめていた。
身体を起こす。膝と腿でしっかりと馬の背にしがみつく。
【彼女】は、たまたまそれを目撃していた。村で野菜を調達して、帰ろうとしていたところだった。
悲鳴を上げて、【彼女】は手にしていた野菜籠を放り投げて、走り出していた。なんとかしなければ、そう考えていたのかもしれない。それとも突然のことで気が動転して、ただ身体が動いただけだったのだろうか。
いずれにしても、【彼女】は間に合わなかった。
棒立ちになった馬は、めちゃくちゃに暴れ回っていた。そして、大きく身体を跳ねさせた瞬間、背中の主は勢いよく地面へ叩きつけられていた。
再び【彼女】は絶叫した。だが、周囲には誰もいない。どうしていいかわからず、おろおろとあちこちを見回していた。
黒いものが視界の端を横切る。
はっと目をやると、幻のようにそれは消えた。
火がついたような泣き声が上がる。伴ってきた小さい娘が、驚いて泣き出したのだ。
一瞬茫然としていたが、【彼女】は身を翻して、すぐに娘の手を引いて元来た村の方へ駆け戻っていった。今は怪我人を助けることが第一だ。
幻だったに違いないのだ。
オーランシュ家の末息子が、今の時間にこんな所にいるわけがない。
木炭が止まる。ミシェールの心も、幻視の過去から今へと戻ってくる。
画布の中の世界は、空の上から眺めたようだった。森の近くの村はずれ。倒れている青年の足。必死の形相で村へ走っていく女とその子供の姿と。
――森の中へ姿をくらました、人影。
ミシェールは、細かく痙攣する指をその姿の上に這わせた。
黒い髪の少年。
直接描かれてはいない。だが木炭の大まかな軌跡でもわかる。何より、あの瞬間を自分は確かに心の中で見たではないか。
「フェオドール様……っ!」
彼は、あの場にいた。
【彼女】は……ルイーズの母親は気づくことはなかっただろう。死んだジブリル本人すら、知らないままだったかもしれない。
なぜ馬が突然暴れ出したのか。
未だ煙を漂わせる香炉を、彼は震えながら凝視した。
確かに効果は絶大だ。絵の中に描かれていないことすら、視せてくれるのだから。
「忠告はしたはずだな?」
何の、気配もしなかった。
椅子を跳ねとばし、ミシェールは声のした方を振り返った。そして声を上げる。
「フェオドール様……!」
「私の時を暴くなと、言い置いたはずだ」
声に抑揚はなく、その手には何の武器もない。
しかし、二つの漆黒に睨みつけられて、ミシェールは動くことすらできなくなった。
「それほど知りたいのか? 私が兄達を手にかけたのかどうかを」
一歩、フェオドールが近づく。
息を呑む自分の声が、悲鳴のようだった。
「この絵……ジブリル兄上のときだな。そうか、そういえばあの場にジャネット達がいた」
ルイーズの母親の名前だろうか。フェオドールはしばらく絵を眺め、目を細めた。
「兄上は、たいていこの道を走っていた。何日か待っていたが、いつかは必ず機会が来ると踏んでいた」
疾駆する駿馬。木立の様子は馬上からは窺えない。
何より、あそこに彼がいることなど、誰も予想だにしなかったに違いない。
「あのころは今ほど魔術を扱えなかった。兄上達よりうまかったというだけだな。だがそれで十分だった」
簡単だったはずだ。彼には、力があった。
ほんの少しの雷。それでいとも簡単に、馬は驚いて大暴れする。
「お前に入れ知恵をしたのは誰だ? アラゴンか?」
ゆっくりと、彼はミシェールに視線を転じる。
黒の双眸には、何の感情も浮かんでいない。
驚きも、悲しみも、怒りも、悔恨も。……温もりを感じさせる何かも。
「知りたいのならば教えてやる。私は兄達を殺した。一人は毒で、一人は……このように」
膝が折れる。
半ば倒れるように床にくずおれ、ミシェールはほとばしりそうな叫びを手で抑え込んだ。
ほんの少しだけれど、見せてくれた笑み。受け入れると言ってくれたこと。守るという言葉。手の温もり。
信じたかった。
ばたばたと、目から涙がこぼれ落ちた。指の隙間から嗚咽が漏れ、熱を失った身体の震えが止まらなかった。
「お前が望んだことだ。今更何を泣く?」
彼は思わず呻いた。前髪を乱暴に掴まれ、顔を引き上げられる。
「だが、一つは褒めてやろう。かなり自在に力を使えるようになっているな。魔術を教え込んだ甲斐があるというもの」
目の前の唇が、笑みの形になる。
愉悦と残虐さが、瞳に浮かぶ。
「それでこそ、お前は初めて役に立つ」
涙を浮かべたまま、ミシェールは目を見開いた。
自分の目は、本当に何も見えていなかった。
なぜ、ああも彼に心を重ねたいと思ったのか。思ってしまったのか。
「ルイーズは、ジャネットの娘だったな」
全身から力が抜けていく。時を描いたあとの虚脱感が、今になって襲いかかってきた。
「今は使い物にならんか……」
舌打ちと共に、床に放り捨てられる。そのまま彼は気を失った。
目が覚めたのは真夜中で、少し欠けた月が室内を照らしていた。のろのろと身を起こしかけ、硬直する。
見慣れた召使いの服を纏った娘が倒れていた。目を閉じて、そばかすの散った顔を彼の方へ向けている。
「ルイーズ……ルイーズ!」
声をかけ、まだ思うようにならない身体を引きずり、抱き起こそうとして。
腕にかかる重さが妙に軽々としていた。
その直後に、彼は、気づいてしまった。
月明かりの中に黒く広がるそれが、影ではないこと。
床に残ったままの、彼女の。
頭。
少女の身体を投げ出すようにして後ずさりながら、彼は叫んでいた。
ほとばしる恐怖が喉を灼き、息ができない。
身体中からすべての空気がなくなっても、彼は声を出そうとして喘いだ。
さっき。
彼女と話したのに。
石の床に、強く爪を突き立てる。
フェオドールは、彼女の母親のことを知っていた。あの絵を、見ていた。
風に流された黒い雲が、弱々しく漂う月を呑み込んでいく。
自分のせいだ。
叫びが、慟哭となった。




