第十章 秘密
夜警が石畳を歩く足音が、夜の静寂の中ではことさらよく響いてきた。
眠れない。
変に冴えた頭をもたげて、ミシェールは寝台を降りた。柔らかな毛織物の部屋履きに素足を入れ、窓に歩み寄り重いカーテンを開く。
思わず目をすがめる。藍色の空の一番高いところに、大きなイーリアの鏡があった。
ぞくぞくと肌が泡立つ。自分を包み込むような満月の光は、氷を思わせた。
月光を部屋に招き入れたまま、彼は窓辺を離れる。
ふと、書き物机に起きっぱなしだった、小さな本が目に留まる。図書室で、リュンヌに渡されたものだ。最初の数ページだけ、彼はざっと目を通していた。
書かれていたのは、ブランの一族に関する記録だった。なぜあの少女がこんなものを持っていたのかはわからない。
ここ以外のどこかでこの本をおぼろげに見た記憶もあるのに、思い出せない。
けれど。
彼は本に手を伸ばし、ゆっくりと月明かりの下でページをめくっていった。
「……時を視る力……」
やがて目と指先が辿りついた項目を、自然と唇が音に紡いでいた。
「視たい時を自在に操るための方法」
ブランは、一族の中で力の使い方を教え、学ぶのだと最初のページに記されていた。自分と同じ血を持つ誰かが、ここにその知識を書き記していたのだ。
指先が痺れる。喉が干上がり息苦しく、何度も唾を呑んだ。
震えておぼつかない手で木炭を掴みだし、彼は紙の上に線を走らせようとする。
本にあった通りに気持ちを集中させ、描き出したい人を思い浮かべる。過去あるいは未来の、その人物の姿を想像する。
魔術を使うときと同じように、目を閉じて外からの情報を断ち切り大きく深呼吸をした。
人を起点に、時の流れを探る。
オーランシュ家の長男が死んだのは、フェオドールが七歳の頃の話だと聞いた。今よりもずっと幼く、背も低かっただろう。あの黒い瞳は、今と同じように強く自信に溢れていたのだろうか。
どのように、兄達を見つめていたのだろうか。
頭の中に、白い霧が立ちこめたようになる。手足から伝わってくるものが曖昧になる。時を描くときの、あの感覚がやってくる。
霧の向こうに何かがあるようだ。ミシェールは心の中で目をこらし、足を動かした。纏い付くような白を振り払い、見え隠れする影を追いかける。
帳がわずかに薄くなる。あと少し。
手を、伸ばす。
だが、次の瞬間。
「――! ぐ……っ!」
目から稲妻が突き抜けた。
彼は現実の世界で大きく目を見開き、頭と喉を押さえて声も出せずに床を転げ回った。
息が出来ない。
目が痛くて、こぼれそうだ。
「ぁ――ああ……!」
やっと声が出せるようになった頃には、窓からの空が藍色を薔薇色に塗り替えようとしていた。
今のは、何だったのだろう。
じわじわと、冷たい石の床が身体の温もりを奪っていく。しかし身動きもできずに彼は意識を落とした。
額に心地よい冷たさを感じ、目を開ける。
何度か瞬きするうち、愛らしいそばかすの散った娘の顔が視界に入った。
「ミシェール様」
ルイーズはほっとしたように微笑み、額の布を直してくれた。
「驚きましたわ。床に倒れていらっしゃるんですもの。寝台から落ちられたのにしてはお呼びしてもお目を醒まされませんし、お熱がありましたし」
話しながら、彼女はミシェールの唇を乳を浸した布で拭ってくれた。
「お熱が下がったら、スープか何かをお持ちしますわ。一日眠っていらしたんですのよ」
一日。
重い頭を何とかずらし、窓の方を仰ぎ見る。気を失う直前には確かに朝焼けだったのに、今は濃藍の闇だ。
「旦那様もご心配なさっていました。お目を醒まされたこと、ご報告して参りますね」
すぐに戻ると言い置いて、ルイーズは静かに出て行った。
ミシェールは目を閉じて、少しまどろんだ。
再び意識が戻ったときは昼で、部屋には誰もいなかった。ベッド脇のテーブルに飲み物の入った水差しとグラスが置いてあり、彼は思うようにならない手でゆっくりと水差しを傾け、柑橘の薫りのする水をそろそろと口に流し込んだ。
扉を叩く音がした。
返事をすると、フェオドールが入ってくる。居住まいを正そうとするのを制し、彼はミシェールのそばまで歩み寄ってきた。
「もういいのか?」
「ご迷惑を……」
「迷惑など被ってない。心配はしたが」
彼の手が、ミシェールの乱れた髪をそっと梳いてくれる。手の感触が心地よく、同時に安堵する。
「何があった?」
囁かれる言葉に促され、ミシェールの唇は動いていた。
「フェオドール様を描こうとして……」
徒に水色の髪をまさぐっていた指が、止まる。
「そうしたら、急に……ひどい痛みが」
フェオドールは、息を呑んだようだった。指の感触も言葉も与えられず、不安になって顔を上げる。
彼は、どんな表情も浮かべていなかった。
「ブランの力は、オーランシュの者には効かない」
耳朶を声がくすぐり、ミシェールは首をすくめた。
「生まれてすぐ、公爵家の子供は術を施される。これだ」
髪に触れているのと逆の手が、目の前に差し出される。腕の裏側、掌の付け根に、本当に気をつけなければわからないような藍色の紋様が薄く描かれていた。
「ブランの力も魔術と似たようなものだ。干渉を防ぐ術も当然編み出されていた。一族以外には秘されているが」
ついと顎を持ち上げられる。黒い瞳が、視界を覆い尽くす。
声を上げずにいられたのが不思議だった。
闇。
背筋に氷が押しつけられたように、身体が震えだす。
「どんな好奇心を抱いたのかは知らんが、命を落としかねないぞ。二度と私の時を暴こうなどとは思うな」
低い、声。
冷たい指が首に触れ、じわじわと締め上げられる。
再びこみ上げた叫びも封じられた。
身体中の血がすべて、音を立てて引いていく。頭の内側で、恐怖と混乱が暴れて痛みを引き起こした。
頭が痛い。目の前がちかちかして、暗くなっていく。息が出来ない。
「もう少し休め。いり用な物があればその紐を引け」
空気が変わる。ルイーズの部屋に通じているであろう呼び鈴の紐を示し、フェオドールはミシェールの身体をゆっくりと寝台に横たえた。先ほどの声音が嘘のように、向けられる笑みは優しげだ。
「熱は下がったな」
いたわりに満ちたその手。
本当のこの人は、どこにいるのだろう。
じくじく痛むこめかみと未だ冷え切ったままの部分を体内に感じながら、ミシェールは瞼を閉じて目眩を堪え、彼の手の感触を追う。
この人を知りたい。
けれど、近づいたと思うほど遠ざかる。
「ミシェール様、まだお加減がお悪いのですか?」
着替えを持ってきてくれたルイーズが、気遣わしげに顔をのぞき込んでくる。曖昧に笑って見せたが、彼女の表情は晴れなかった。
「何かよくないご病気かも……。お医者様に診てもらった方が」
「大丈夫だよ。身体はもう元に戻ってるんだから」
体調よりも、気持ちの問題なのだ。
三日前、アラゴン伯爵に植え付けられた疑惑が、どんどん大きくなっている。
「何か精がつくもの、料理長に頼んできますね。お母さんもよく作ってくれた料理で、美味しくて身体にいいのを知ってるんです」
気遣ってくれる声がそう続ける。
「旦那様の二番目のお兄様も、お小さい頃はよくそれを召し上がっていらしたそうですよ」
「え?」
どくん、と鼓動が跳ねる。
フェオドールの兄。
ルイーズの母が、彼らの存命中からここに仕えていたのだとしたら。
乾いた唇を湿らせ、不自然にならないように努めてさりげなく口を開く。
「君のお母さんは、今は……?」
「二年前に亡くなりました。流行病で……。私が小さいときダヴィット様のことがあって、それでひどく体調を崩して以来、時々熱を出したり発作があったりで……。何でも、目の前でジブリル様の事故を見たそうなんです」
母は公爵家で働けることを誇りに思っていたのです、と彼女は締めくくる。ミシェールは、彼女をじっと見つめた。
「ごめんね。辛いことを話させて」
「いいんです。さ、お召し替えをなさってください。お食事を運んで参りますから」
彼女を見送りながら、頭は勝手に考えを巡らせていく。
フェオドールを描くことができないのならば、彼の周囲で働いていた者達ならばどうだろう。今この家の召使い達のうち、誰かはそのときに居合わせたのではないか。




