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第九章 疑惑

 穏やかで、風もない暖かい日だった。

 中庭の東屋からは、庭をすべて見渡せる。時折そちらに目をやりながら、ミシェールはゆっくりと膝の上の本をめくっていた。

 夏の花もそろそろ終わりかけている。涼やかな青が寂しげな茶色へと変わっていくのと同時に、葉の緑は生き生きと世界を謳歌している。無意識に傍らに手を伸ばして、パステルも木炭も紙も持ってきていなかったことを思い出し、苦笑した。

 次は本ではなく、絵を描くための道具を持って来よう。

「ミシェール?」

 声をかけられて、はっと顔をそちらへ向ける。フェオドールが、怪訝そうな顔で東屋を覗いていた。

「あ……フェオドール様」

「何をしている?」

「今日は天気がいいので、ここで本を読もうと思って……」

 返事はなく、ただじっと見つめられる。

 何か用事があるのかと思ったが、フェオドールはつかつかと近づいてきた。そのままミシェールの向かいのベンチを軽く払い、ゆったりと腰を下ろした。

「何だ?」

「い、いえ」

 意外な成り行きで、どう対応していいかわからなかった。

 最近のフェオドールは、ますますわからない。

 一つだけ言えるとしたら、出会ったときに比べてずっと雰囲気が柔らかくなったということだ。

「……退屈ではないか?」

「え?」

 唐突な問いかけよりも驚いたのは、フェオドールの顔に浮かんだ揺らぎだった。

 躊躇いと、それから――およそ信じられない感情。

「この屋敷から出たいとは……」

 彼らしくない。

 こんな風に、言いよどむなんて。

 ミシェールは呆気にとられたが、すぐに表情を和らげた。

「ここへ来たばかりの時は、正直何が起きているかわからなくて」

 怖かったのも事実だ。けれど逃げ出す勇気もなくて、ただ従っていた。

 でも、今は。

「国王陛下の絵を描いて、あんな風に喜んでくださったのを、とても嬉しく思いました」

 本を閉じ、その上に置かれている自分の手を見下ろす。

「初めて、この力を自分で受け入れることができたような、そんな気がします」

 フェオドールは何もいわない。どんな顔をしているのかも、わからない。

「あなたがここへ連れてきてくださらなかったら、強引にでも僕に絵を描かせなかったら、僕はこんなに静かな気持ちになれなかったと思います」

 これだけは、確かな事実。

「……私を……」

 空気が揺らぐ。視線をあげるより先に、温もりに包まれていた。

「憎んで、いないのか?」

 唐突な問い。

 自然に身体を預け、ミシェールは首を振る。

「本当に?」

「はい」

 抱擁が、強まる。

「フェオドール様?」

 回された腕に、ミシェールはそっと触れる。

 なぜだろう。彼が泣いている気がした。

「私が何を求めているのか、何を欲しているのかを知ったあとも」

 耳朶に、弱い問いかけが触れる。

 幻のような、ほとんど吐息のような。

「お前は、私を受け入れるか……?」

 彼の言葉だと信じられなかったのは、そのあまりの弱々しさのせいだ。

 戸惑いが、ミシェールの声を封じる。

 そして逡巡の間に、あっけなく彼は離れていく。

「日の陰らない内に戻れ」

 声をかける暇もなかった。

 まるで逃げるように、フェオドールはミシェールを残して日の光の中へ飛び出していった。



 アラゴン伯爵のもとから、令嬢のために肖像画を描いてほしい旨の申し入れと、翌日の晩餐への招待状が届いたのはその夜のことだった。



 従者用のお仕着せである、大きな襟の付いた上着は未だに身体に馴染んでくれない。

「ミシェール様、そんなにお袖を引っ張らないでくださいな」

 お茶を持ってきてくれたルイーズにたしなめられ、あわてて袖をいじっていた指を引っ込める。ずっと世話をしてもらっているおかげでかなり親しくなったのだが、四つも年下なのに彼女はずっとしっかりしていて、姉のように気を配ってくれる。

「もっと大きなパーティーにも、お出になったんでしょう?」

「そうだけど、苦手で……」

 今夜は、アラゴン伯爵からの内々の招待ということだった。だが緊張することに変わりはなく、しかも令嬢の肖像画を描いてくれないかと打診されてしまった。落ち着かなくて、つい浮き足立ってしまう。

 ルイーズはあやすように微笑んで、着崩れてしまった上着を直してくれた。

「よくお似合いですわ。お衣装が黒だから、ミシェール様の水色の御髪が映えておりますもの」

「……うん」

 励ますように、彼女は笑いかけた。

「旦那様がお待ちですわ。いってらっしゃいませ」

「うん……いってきます」

 フェオドールをあまり待たせると怒られる。

 早足で応接間へ行くと、紺色の丈の長い襟付き上着のフェオドールが、顔をミシェールに向けた。

「行くぞ」

「はい」

 促されて、廊下に出た彼の後ろを歩調を合わせてついていく。彼は歩くのが速いので、遅れないようにするのがなかなか大変だ。腕を引かれていたころも、何度も転びそうになったものだ。

 強要されてもいないのに目の前の背中を追いかけるのが、いつの間にか当たり前のように思えてしまっている。


 ――私が何を求めているのか、何を欲しているのかを知ったあとも――

 ――お前は、私を受け入れるか……?――


 あれは、どんな意味だったのだろう。

「どうした?」

 声をかけられ、はっとしたが急に止まれなかった。

 少しだけ背の高い彼の肩にぶつかり、ミシェールはあわてて謝罪した。

「そう固くならなくていい。ごく少数の集まりだ」

「はい……」

「お前は正式な招待客ではないから、食事中伯爵達と言葉を交わす心配もない」

 その点についてだけは、もとより懸念はしていなかった。従者が晩餐の席に着くことはできない。以前のオラニエ男爵のパーティーのような場では、主の身の回りの世話と毒味などのために同じ場所にいることは許されているが。

 ふと、頬に温かいものが触れる。彼の手だとすぐに気づき、ミシェールは目を瞠った。

「大丈夫だ」

 髪をかすめて、魔法のようなささやきが耳朶へ滑る。

 どうしてこの人の言葉は、こんなにも胸に満ちるのだろう。

 馬車に乗り込み、ミシェールは小さな窓の外を見るとはなしに眺める。

 がたんと大きな揺れが来て、隣に座るフェオドールと腕が触れ合った。

 じわじわと浸みてくる仄かな温もり。

 視線を合わせることも、会話もなかったが、どちらも身体を動かすこともしなかった。


 フェオドールの屋敷と同じくらい大きく古く、けれど内装はずっときらびやかなアラゴン伯爵の館のホールで、着飾った人々がにこやかに言葉を交わしていた。

「ミシェール」

 フェオドールとオラニエ男爵への挨拶を済ませたアントワネットが、人なつこく微笑んで近づいてきた。ホールの隅から、品よく飾られていた有名画家の作品に目を奪われていたミシェールはあわてて会釈する。

 アントワネットは未婚の淑女らしく肌の露出が少ない、それでいて若い魅力を損なわない程度にレースやフリルのあしらわれた淡い緑のドレスを纏っていた。輝くばかりに美しい彼女に、彼はどぎまぎと目を伏せる。

「来てくださって嬉しいわ。あなたの絵を見ましたのよ」

「えっ?」

「お父様が、タイーナの画商に手紙をやって、一つ買い取りましたの。小さい方の応接間に飾ってあるのよ。すばらしい作品だわ」

「ありがとうございます……」

 面と向かって、作品を賞賛された経験はあまりない。耳まで赤く染めてもごもごと礼を言っていると、アラゴン家の給仕が晩餐の支度が整ったことを知らせに来た。

「お食事はあちらに用意してあるから、ゆっくり召し上がっていらしてね」

 アントワネットは小走りに優しげな青年の下へ駆け寄り、腕に掴まって扉を出て行った。婚約者だというオラニエ男爵の息子なのだろうか。

 彼は髪の色は父と同じ黒だったが瞳は濃い青で、面差しも一度描いたことのある男爵の奥方によく似ていた。

 ふと、ミシェールは不思議な感覚を覚える。去っていく彼の横顔が、一瞬誰かを彷彿とさせたのだ。

 誰だろう。

「こちらへ」

 別の給仕が、後ろから声をかけてきた。つながりかけていた連想が断ち切られ、しかたなくミシェールは給仕の後ろについて行った。



 夕食は質素だったが、とびきり味のいいものだった。

 一人での食事を終え、フェオドールが戻るまでどうすればいいのかと思っていたミシェールだが、家令らしき初老の男が控えめに言づてをよこしてきた。

 伝言の主は、アラゴン伯爵だった。

「ご用件は……?」

「承っておりません」

 丁寧だが素っ気なく家令は答え、ミシェールをある一室へ案内した。

 中に入って、まず目に飛び込んできたのは、鮮やかな青空と目に柔らかな草原の中に一本の木が小さく描かれた、見覚えのある一幅の絵だった。

 自分が画家になって間もない頃の作品だ。当時は気づかなかった技術の拙さが今はありありとわかり、いたたまれなくてうつむきかける。

「他にもいくつか見せてもらったが、これが一番気に入ったのでね。飾らせてもらっているよ」

 抑揚のない、低い声。

 どっしりした暖炉のすぐ上に掛けられている絵を眺めるような位置にソファーとテーブルがしつらえられており、老人はその一つに深々と身を沈めてミシェールを見ていた。

 アラゴン伯爵だ。

 面識はなかったが、やや肉厚の身体から漂う威厳からそう直感した。ぎこちなく向き直り礼を取ると、彼は軽くうなずいてミシェールを自分の正面に手招いた。

「……ミシェールと申します……伯爵閣下」

「ブランとは名乗らないのか?」

 何気なく問われ、顔が強ばった。伯爵は無表情に続ける。

「私は君の母親をおそらく知っている。アンヌ・ブランだろう?」

 同じ問いを、ずっと前にされたことを思い出す。すべてそこから始まったのだった。

「申し訳ないが、君の生まれ育った村に使いをやって、調べさせてもらった。君のご母堂は間違いなく、私達の知っている女性だった」

 私達。

 他にも、アンヌを知る者がいるのだろうか。母はいったい、ここではどんな存在だったのだろう。

「アンヌは、ブランの名を隠していたらしいな。それも無理はなかろうが……。君は何も知らず、オーランシュ公爵に連れてこられたのか?」

「……そうです」

「アンヌが二十五年前に、どんな事件に関わったのかは?」

「少しだけ。記録を読みました」

 伯爵はしばらく何かを考えるように沈黙していたが、やがてゆっくりと再び口を開いた。

「当時私が見聞きしたことを、なるべく客観的に話そう。君の知る事実と多少異なっているだろうが」

 そしてミシェールは初めて、事件の前後とその背景を知ることができたのだった。

 伯爵の話は簡潔で要領を得ていて、短い時間で多くの情報が得られた。ナイフを持っていた男の目的が不明なまま事件が風化していったこと、オーランシュの先代公爵の末路、そして残されたフェオドール達のこと。

 一つだけ、わからないままだったのは。

「伯爵閣下。ブランは長く公爵家に仕えてきた一族だと聞きました。なぜ、母は先代の公爵閣下を裏切るようなことをしたのでしょうか?」

 フェオドールの言葉からも、無味乾燥な記述からも、それは読みとれなかった。

「それについては、私にも推測することしかできない。噂が少し流れていただけだからな」

「噂?」

「アンヌとジレ侯爵の息子が……恋仲だったらしいという話だ」

 ミシェールは、そっと自分の胸元に触れた。

 優しい母だった。自分と父を心から愛していた。

 家族が安らかに暮らせるよう、いつも気を配る人だった。

 粗末だったが身につけると太陽の匂いがする服と、質素でも口に入れると幸せな気持ちになれる食事。

 そんな、母ならば。

「……理解できます」

 伯爵は何も返してこなかったが、少しだけ瞳の印象が和らいだ気がした。

「彼女のおかげで一人の怪我人も出ずに済んだ。公式な形で黒幕がわからずじまいだったのは口惜しかったが、致し方ない。しかしそのあと、人々の目が前オーランシュ公爵を死に追いやることになってしまった。最も疑わしいと目されていたのだ」

 あとを追うように奥方も亡くなり、残された三人の子供は遠い公爵領へ行くことになった。

 公然と罪に問われたわけではないのだから、長男が相応しい年齢になれば公爵の位を継ぎ、また宮廷に戻ることも可能なはずだった。

 しかし、長子ダヴィットが成年に達する直前、原因不明の高熱でこの世を去ったのに続き、次男ジブリルも狩りの途中で落馬したのが元で死んでしまったのだ。

 一人残ったフェオドールはその当時十五歳。他の相続権を持つ親族達を遠ざけ、成人を迎えるとすぐ公爵位を継いだ。

「今の公爵は、年齢に似合わず手腕がある。陛下とも幼馴染みで信頼されているし、このまま順調にいけば政治の面でもそれなりの地位につけるだろう」

 ミシェールにその方面のことはよくわからなかったが、伯爵が皮肉や世辞で言っているのではないのは感じられた。

「しかし、人間として信頼でき、国を動かしていく同志として足る人物かと言えば、まだわからないのだ。二人の兄の死についても、未だ悪い噂が消えてない」

「え?」

 伯爵の声は淡々と、それだけに彼の胸を容赦なく突き刺した。

「フェオドールが自分の兄達を殺したのではないかと、信じている者が多いのだ」



     手記



 魔力が宿るのは、血。

 それを媒体にすれば、今の私の力でもどうやら使える術がみつかった。時間がかかってしまったが、それは問題にならない。

 けれど万が一、この術が彼に見つかって阻まれてしまったときのために、この手記を誰かに託しておいた方がいいかもしれない。

 私がやろうとしていること。

 私が恐れている彼のこと。

 それらを記したこの手記を読んで万が一の時のために力を貸してくれる、信頼できる人。

 あの方しかいない。

 あの方なら、彼……オーランシュ公爵に、きっと対抗できる。

 きっと、私達を助けてくれるに違いない。


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