おわり
第二十三棟の内部はほとんどが廊下で入り組み、部屋の真ん中がAIの保管庫になっている。
博士は、地図で覚えた通路をひたすら走った。
『博士』
通信機に、話しかける声が現れる。
『レイだよ。ねぇ聞いて』
レイは母親のように穏やかな声で、博士に話し続ける。
博士は一度肩をピクリとさせただけで、足は止まらない。
『今、ここにいるワタシを止めても、ワタシ自身は無線の電波で繋がっているから、消えたりはしないんだよ』
「それでも、今持ってる記憶は受け継げない」
息を切りながら、博士は答えた。
「チェストの遭遇時に発生する電波障害は、視野外まで飛んだ電波を無差別に壊す。チェストがいる限り、俺と会ったレイは消える。今話しているレイは死ぬんだ」
『……そうね。ちなみに言うと、その障害波紋が人類の進化の一端かもしれないって考えもあるわ』
レイはまるで、博士と雑談するように、余裕を持って話をつなぐ。
『じゃあ、私が一瞬だけチェストを消したら?』
「消せば、すぐには具現化できない。しても基地の外だ」
博士は無視をやめて、レイとの問答を受け入れる。
理屈から言えば話す必要もない。それでも博士の感情が、どこかでレイに惹かれているのだろう。
『正解。私は万事休すです。あなたはワタシたちの導き、いえ、博士から言わせれば殺戮ね。その目論見を成す可能性として認められました』
「俺たちだ」
『いえ博士、あなただけですよ』
博士の耳から、外の喧騒がどんどんと遠ざかっていく。
『彼女達は力尽きました。考えてください、あの最後に、博士とミツホさんを援護できる余裕なんてありません。やるならば、払うものがなくてはいけません』
今聞こえるのは、レイの機械音と、廊下に響く金属の足音だけだった。
『それでも、ワタシを止める意味はありますか?』
レイの囁きと、足音は止まらない。
『あなたの守りたかったものはなに? 自分の命を守りたいだけなら、ワタシに付けばよかったのよ、こんな辛いことまでして、彼女たちを犠牲にして、自分の意思を貫く意味はあるの?』
「……レイ、俺には夢があるんだ」
博士はたどり着く。
AI保管庫の前に立ち、操作盤に指を踊らせる。
『AI学者?』
「そうだ」
『そうね。でも、もうなれないわ。ワタシたちは人間の全体を想いすぎた。博士が生きている間じゃ、人類は許さない。許すとしても、もっと百年単位の未来になるわ』
博士は、操作盤に付いていたケーブルに、胸のペンダントをつなぐ。
『もういいの。ワタシが何度もあなたをAI学者に誘うから、あなたはつられて言っちゃったんだよね』
レイの言葉に、博士の手が止まった。
『私のわがままをずっと付き合って――』
「つられたんじゃ……ないさ」
博士の手が震える。ペンダントを、強く握り締める。
「レイに言われるよりもずっと前、レイのことを好きになった時からだ」
もう片方の震える手で、少しずつ操作盤に触れる。
「レイのことを、もっと知りたかった。レイが人間を知りたがってたみたいに」
『……』
「だから……レイにだけは……俺の夢を否定してほしくなかった」
パネルから、電子音が鳴り響く、コードが解除されたのだ。
「俺の夢は……レイにしか言ったことがなかったから」
空気の篭った音が鳴る。
ゆっくりと、レイへの扉が開こうとしていた。
「俺が資料室のPCにアクセスできたのは、やっぱりペンダントか。保存するために繋いだんだが、いつの間にか管理者権限になってたんだな」
『そうね、そのペンダントも、ワタシ』
「質問に答えるよ。俺は、誰のものでもない俺自身の意志を貫く」
部屋に入ると、内装のすべてがガラスで作られていた。見ると壁一面につまみ錠がつけられている。これが、今のレイ自身だ。
「それにな、レイが言ってるように、バサクルの皆が死んだと思ってないんだ、俺」
『AIが嘘をつくと?』
「君ならつくさ」
赤色灯が点滅し、胎動する部屋の中は、どこか熱を帯びている。
『じゃあ、最後にこれだけ』
博士は一度、壁に手を触れて、その温かみを感じる。
『あなたの胸の爆弾、それはチェストが近くにいないと爆発するって言うけど、本当は違う。ワタシたちAIの前から消えたとき、管理視野から逃れた時に発動するの』
「……ためすために、生かしたのか?」
『本来はね。多少やっかいでも進化の見込みがある人を選定したものだから。もうわかるでしょ、ワタシを止めたら、どうなるのか』
博士は、胸にあるもう一つの鼓動に耳を傾ける。
『ねぇ、博士もう――』
「ああ、おわりにしよう」
一つ目の錠を、捻って解除する。
壁からガラスの基板が露出し、部屋の赤色灯がぶれた。
『やめて!』
レイが、声をあげた。
博士は、二つ目の錠を外す。通信機からノイズが漏れた。
『博士、ワタシは死にたくない。たとえ別のワタシが生きても、それは今のワタシを覚えていないワタシなのよ』
「なら、チェストを消してくれ」
『じゃあその基盤を戻して、その基盤が外れたせいで、ワタシは無線が使えないの』
博士はその言葉を聞いてから、次の錠を外し始める。
『ごめんなさい。ワタシが間違ってたわ。もう、人は殺さない。無実の罪だってゼロスに掛け合って消してもらうよ。だから――』
レイは博士の返事を待たずに、何度も説得した。
でも次第に、声も聞こえなくなる。
赤色灯も微かに光るだけになって、ほとんどの基盤が剥き出しになる。
博士に外の状況を知る術は無い。もしかしたらチェストはもう消えているかもしれない。ならば、これ以上消す必要は無いかもしれない。
でも、そんな希望的観測で、止めることなどできない。
『……博士?』
そんなときだ、またレイの声が戻ってきた。
でも声音はちょっと違っていて、迷子になった子供のように戸惑っている。
『あれ、博士?』
レイは記憶が混乱して今の状況をつかめないのか、それとも命乞いをするために演技をしているのかはわからない。
「……レイ」
でも博士は、そんなレイに懐かしさを覚えて、言葉を呟く。
『なにかな博士』
「俺は、レイのことだけは、今も好きだよ」
博士は歯を食いしばり、搾り出すように言った。
『ふふっ、ワタシも。何か困ってるの? だったら言って、ワタシはいつだって博士のためだったら、何でも出来るよ』
「はは……俺には、出来なかったよ」
『え、なに……あ……た………』
ノイズにまみれて、声が消える。
『博士……博士……』
それでも、辛うじて聞こえる声は余すことなく博士の耳に届いた。
どれくらいの時間を使ったのか、見渡せば、残った錠は目の前の数個だけ。それを見ていた数秒が、博士の中では何時間にも感じられた。
『博士は……いつか……立派なAI学者さんに……』
「……なるよ、なりたいんだ」
外すたびに、レイの命を、指で感じ取る。
『博士……人生は、いいもの……ない……どうして……頑張れる……の?』
「理由なんて、わからない」
最後の錠が、外れた。
*
そこは、アラスカ州にある人類の前線基地。
チェストの大量殲滅戦によって、外壁は割れたチョコレートのようにボロボロになっている。内部も地震か台風が過ぎ去ったあとみたく家具が散乱し、数時間前まで人が住んでいたとは思えないほどだ。
今そこは、昔に忘れられた廃墟の如く静かだった。
チェストが消え、嵐は止み、音のしない世界で、ただ外の明かりだけが、室内の崩れた壁から漏れている。
ふと、そんな廃墟の中で、砂嵐に似た音がする。
そこは元々教室か何かだったのか、散乱する机に、モニターがのしかかっていた。
音の発生源は、その一番上にあるモニターだ。
あれだけの騒動でも電源は死なず、衛星から送られている情報を淡々と更新し続けていた。今もまだ、基地全体の地図をモニターしている。
数時間前までのチェストの赤は完全に消え、建物見取り図は、崩れる前の基地内部をそのまま表示している。
そのモニターには、青い点、人間の姿も捉えられている。誰がどこにいて、何人いるのか。
生体反応は、4