あおぞら
仄暗い雲を突き抜ければ、そこには無限の青空が広がっていた。
視界に収まらないほどの青と、その下を縁取りする緑色の大地。
そんな、どこまでも羽ばたいていけそうな景色の中に、彼はいた。意識を朦朧とさせたまま、空中を漂っている。
体は衰弱しきり、目を開いても今の状況を理解していない。
ただ、彼を落下の重力から救っている存在を、背中から感じていた。
誰かが彼を抱きかかえ、青空の中を飛翔していたのだ。
「……誰?」
彼は、かすれた声で言う。
しかし、誰かの返事よりも先に、視界がいくつもの黒い物体で覆われた。
それは彼等の横を弾丸のように素早く突き抜ける。空気を震わせ、複数の物体が回り込み、彼等を囲んだ。
物体は大量の、巨大なブーメランの形をした金属だった。先端にある赤い光で、彼と誰かを睨みつける。鈍く光を放ち、ゆらゆらと宙に浮かぶ。
「……敵」
彼が呟く。
すぐに背中の誰かは動いた。
一瞬だけ、体を持ち上げてゆっくりと上昇し、はじけるように急降下をする。敵に囲まれていなかった僅かな隙間をすり抜けていった。
彼はこの速度に、目を開けていることすら出来なかった。
だが、敵の物体は彼等の動きを簡単に真似る。下降し、物体の駆動音が、だんだん近づいてくる。
誰かはすぐに対応して、今度は素早く旋回。彼が吐きそうなほど体を揺らし、右へ逃げる。
敵の追撃はなお衰えない。物体は先端から赤い光を発し、彼と誰かを中心にして螺旋状の赤線を引きながら飛び荒ぶ。
敵が攻撃を仕掛けてきた。互いの高音のノイズを合図にして、まるで自動車が横ばいで他の車とぶつかるみたいに、敵が一斉に彼等への衝突を試みる。
彼の体が、衝撃と共に前へつんのめる。衝突したのではなく、急停止をしたのだ。止まった彼等を置いて、敵は遥か前方にまで飛んでいってしまった。
でもすぐに敵は気づいて、自ら出した光線をなぞるようにして戻ってきた。
敵は機械の如く正確に、幾らでも彼等を追いかけてくる。
逃げている誰かから、息切れが聞こえる。
迫る。無尽蔵の体力を持ったたくさんの敵が、彼等を追い詰める。
「……だめだ」
目の前に迫る敵を前にして、彼は弱音を吐く。
「いくらやっても、追いつかれる」
誰かも、そのことには気づいている。
だから更に上へ、大空へと昇った。
もう誰かは、複雑な動きも、避けることもしなかった。
ただ上へ。
何者にも追いつかれないほど、何人も手が届かないほど上へ。
でも、どこまでも続くような空は彼等には広すぎて。やがて、誰かの滑空は、不意に止まった。
無限に見えた空には、人の限界があった。
誰かの手が、届かぬ太陽を掴むように、手を伸ばした。
だが滑空はない。重力に負けて、彼等は落ちていく。
目の前に、待ち構えていた敵のブーメランが顔を出して――
*
彼が次に目を開けたとき、彼は落下していた。
青空に足を向け、まっさかさまに緑色の地面へと向かっている。
「あの色は……森かな」
彼が力なく呟いた。
空中では手足を満足に動かすことも出来ず、衰弱しきっていた彼の体はまた眠りに付こうとしていた。
「落ちてる……落ちたら痛いだろうな……」
呆然と、ただ今の状況を把握しきれていなかった。
でも、このまま落ちたら死ぬということくらいは、理解していた。
「こんな、ものなのかな」
彼はすでに、そのほとんどを諦めて、目を閉じる寸前だった。
何故こうなったのかも解らない。ただ落ちていく彼はぼんやりと、そんな事を呟くことくらいしかできない。
彼は、空を飛べない。
だから、彼は仕方ないと思った。
「――っ!」
その時だった、掛声と共に、彼の全身を覆う影が現れた。
影は人型。空から落ちる彼を見下ろして、二つともう一つ、合計三つの大きな翼で彼の体を太陽から遮っていた。
「天使?」
彼は自分で言ってすぐに、天使ではないと解った。
携えていた翼が、鋼鉄で出来ていたからだ。それは爆音を吹き鳴らしながら、中心にいる人間、女の子を空中で振り回していた。
天使でない、その女の子。
背中に二つ、片腕に一つ、合計三つの翼をはためかせ、翼と鎧を着飾った彼女。彼女の髪は燃えるように赤く、長いストレートヘアー。同じくルビーのような朱色の大きな瞳が輝き、目つきは怒ったかのようにきつい印象を覚える。彼女の容姿からは純粋な美しさよりも、鋭い刃物じみた美貌を彼の目に焼き付けた。
気の強そうな、燃える彼女の瞳を、彼はただ眺めていた。
「馬鹿野郎!」
そんな彼に、彼女は叫ぶ。
彼女の声は、彼に一陣の風を叩きつけるように、彼の目を覚まさせた。
我に返って、彼が苦笑いをする。
「そうだよな……こんなままじゃ、終われない」
彼は衰弱した体に鞭打ち、目を開いた。彼女を視界から放さない。
彼女は三枚の鋼鉄の羽根を広げて、彼の近くを不器用に飛び回る。
不慣れな旋回を何度も繰り返して、彼女は必死に彼に近づこうとしていた。
彼自身は、自分が何故ここにいるかもわからない。どうして空を運ばれ、落ちてしまったのかもわからない。
でも、そんな彼にも、彼女が手を差し伸べていたのは、わかった。
彼も、彼女へ手を差し伸べる。
その手は繋がるかもわからない。もしかしたら、彼は落ちてしまうかもしれない。
「美人に見取られて落ちるなら、それもいいかもな」
彼はそんな状況を吹き飛ばすように、冗談を言った。