私は自死を観察した
目の前で人が死んだ。
自死であった。
単刀直入すぎると思われるかもしれないが、昨今のエンタメは序盤がクライマックスだろう。そうでなければブラウザバックされて終わり。人と同じように、作品もあっけなく死ぬのだ。これが記録という体裁をとる以上、読まれないという末路は避けさせて欲しい。
とはいえ、死は案外静かだった。爆発も絶叫もない。金属がきしむような乾いた音と、空気の抜けるような息の音。残りは重力が仕事をしただけだった。
ここは駅前の雑居ビルの屋上だ。私の働く商社も含め、いくつかの会社がひしめき合っている。そのせいだろう、三階にある喫煙所では、灰皿はいつも混んでいる。私は人混みが嫌いで、鍵のかかっていない非常階段を見つけてから、しばしばここに上がるようになった。立入禁止の札は、雨に滲んで文字が崩れている。「気付きませんでした」と言えば叱られまい。
そうして、私はいつも通り戸を開けた。すると、スーツ姿の男が錆びた柵の向こうに立っていたのだ。あの小さな背中からでも、虚ろな瞳は容易に想像できた。私は数メートル離れた給水塔の影から、なぜか動けずにそれを見ていた。
「止めなかったのか」と問われれば、「止められなかった」と答えるしかない。理由はいくつもある。彼の背中があまりにも決意に満ちていたこと。私が彼の名前すら知らなかったこと。あるいは、死を見たいという醜い好奇心が、足を床に縫い付けていたこと。
彼は振り返らなかった。振り返らないことが、最後の礼儀であるかのように。
落下は一瞬だった。その一瞬がやけに長く感じられた。靴底が柵を越え、体が前に傾き、空白が生まれる。無音──次の瞬間、鈍い衝撃音が路地に響いた。
私は屋上の縁まで歩いた。恐怖よりも先に、観察欲が勝っていた。下をそっと覗くと、彼はアスファルトの上に横たわり、ありえない角度で腕を曲げていた。頭部の下に、黒く濡れた染みが広がっている。それは赤ではなかった。夕方の影と混ざって、ほとんど黒だった。血は思ったよりも地味らしい。おそらく「鮮血」という言葉は、スプラッタ映画のために作られたのだろう。
エレベーターを待つ時間がもどかしく、私は階段を駆け下りた。膝が震えているのは運動不足のせいだと言い聞かせる。路地に出ると、数人が遠巻きに集まり始めていた。一人も近づこうとはしていなかった。誰かが通報しているらしく、震える声が時折漏れ出てきた。
私は人垣をすり抜け、彼の傍らにしゃがみ込んだ。
彼は本当に死んだのか。
それを確かめたかった。
まず、目。半開きで、焦点はどこにも合っていない。瞳孔は開いているが、光を失ったガラス玉のようだった。次に、口。わずかに開き、歯の間に血が滲んでいる。息はない。胸は上下運動一つしていない。それは至極当たり前のことだった、何しろ、どう見ても自死は成功したのだから。
ふと手のひらを見ると、擦過傷がある。落下の途中で壁に触れたのかもしれない。爪の間には灰色の粉塵があるが、屋上の床の欠片だろうか。靴は両足とも履いたままだった。真っ白いスニーカーの靴紐はきちんと結ばれている。几帳面な人間だったのだろう。
私は冷静を装いながら、彼の体温を確かめた。まだ温かい。温かいという事実が、ひどく不愉快だった。温かさは生の領分だ。死がそこに居座るのは理不尽に思えた。
「触らないでください!」
甲高い声に振り向く。制服姿の若い警官が、息を切らしてこちらに駆け寄ってきた。私は素直に両手を上げる。かえって犯罪者のようだと気づいたのは、上げた直後のことだった。
担架が運ばれ、彼は白いシートで覆われた。布越しでも、頭部の不自然な膨らみは隠せない。救急車のサイレンが遅れて到着し、赤色灯が路地を染める。だが、誰も急いでいるようには見えなかった。
その後、警察の増援が来た。彼らによる事情聴取を受けながら、私は正直に答えた。たまたま屋上にいたこと、彼が柵を越えるのを見たこと、止められなかったこと。
「知り合いですか」
「いいえ」
本当に知らない。だが、赤の他人とも思えなかった。
ポケットから、彼のスマートフォンが見つかったらしい。警官の一人が画面を覗き込み、眉をひそめる。
「遺書のようなメモがあります」
その言葉に、私の背筋が冷えた。
後日、私は参考人として署に呼び出された。監視カメラから、やはり雑居ビルの屋上にいたことが割れたらしい。遺書は短いものだったという。特定の個人を非難する文言はなく、曖昧な絶望が綴られていただけだったが、最後の一行が問題だった。
――観察されることに耐えられない。
その一文を聞いたとき、私は思わず笑ってしまった。警官は怪訝な顔をしたが、くしゃみに紛らせ、上手くごまかした。
観察。
私は確かに観察した。屋上で、彼の落下を、彼の死体を。ただ見ていただけだ、と言えばその通りだ。私は声をかけず、手も伸ばさなかった。給水塔の影に立ち、風に押される背中を眺めていた。
彼は気づいていたのだろうか。柵の向こうへ踏み出す直前、わずかに肩が止まった気がした。あれが風のせいでなければ、私の視線の重みだったのかもしれない。気のせいなのか、自己洗脳なのか、今となってはもう分からない。だからこそ「完璧な」自死だったと、どうしても言い切れない。
数日後、ニュースサイトに小さな記事が載った。「駅前ビルで男性転落死、自殺か」。写真もなく、数行で終わるだけの代物だった。人の死は、データになるとさらに軽いらしい。画面をスクロールすると、すぐに別の記事が現れる。芸能人の不倫、値上げの知らせ、どこかの国の衝突。彼の死は、その隙間に挟まれていた。指先ひとつで消える程度の重さだった。
記事には私のことは書かれていなかった。
当然だ。屋上の影にいた人間など、出来事には含まれない。
だが私は知っている。半開きの目。まだ温かかった手のひら。アスファルトに広がった黒い染みの匂い。知っているという事実だけが、私の内側に残っている。
あれから、私は気づくと人を観察している。駅のホームで白線の内側に立つ会社員。コンビニの前で煙草を吸う若者。交差点で信号を待つ女。肩の傾きや、足の向きが、ふと柵の向こう側を思わせる瞬間がある。自分の視線が彼らの背中を押すのではないか……そう思って、目を逸らす。でもまた、視線が向いてしまう。
目の前で人が死んだ。
自死であった。
そう記せば、記録としては正確だろう。動機も、遺書も、警察の見解も、その言葉に収まる。
それでも、時々考えるのだ。
屋上に、私がいなかったなら。
あの背中の後ろに、誰の視線もなかったなら。
答えは出ないまま、私は今日も屋上に立つ。柵の前には行かない。少し離れた影の中にいる。風が吹くと、金属のきしむ音がする。あの日と同じ音だ。決して下を覗くことはしないが、背中に何かが触れる気がして、ふと振り向く。
誰もいない。
それでも視線だけが、そこにある。
――観察されることに耐えられない。
その一文を思い出すたび、屋上の空気が少し重くなる。
今になって、その意味が分かる気がする。




