第9話 青玻璃と黎明
砂の匂いが淡く流れた。
その場にいた三人──ウィル、ナギ、アゼルの背筋を、理由の分からない寒気が撫でていく。
イシルは三人に囁くように呟いた。
「戦うな」
低く漏れたその声は、忠告だった。
一歩。
ただ砂を踏むだけの、ごく普通の足取り。
それなのに、その音は"逃げ場を消す合図"のように背筋へ刺さった。
イシルの視線だけが、わずかに揺れる。
「イシル。分かっているはずだ」
「分かってる、俺が悪い。だから――」
青玻璃の瞳が、何の温度も持たない光のように三人を滑っていった。ソラリアの子、霊峰の番人。ルーナの青年。そして――イシルの銀鎖をつける人間。
(誰の願いを抱えたか――君か)
――対話は不要。
ウィルの胸に、陰るような波が走る。
次の瞬間、意識が微かに歪んだ。
——守れ。
——正しい場所へ戻せ。
——刃を向ける理由を与える。
命令ではない。
"自分でそう思った"かのような、どこまでも自然な発想として落ちてくる声。
(イシルを、止めなきゃ)
剣が静かに抜かれた。
「ウィル……? 何を――」
「戒律を破った罰だよ」
イシルの問いが終わる前に、ウィルが砂を蹴った。
速い。本来の彼の身体能力に、影に蝕まれて生じた"不自然な必然"が重なる。
正確無比なウィルの剣は、いつもの"双"ではなかった。まるで、片方で足りると言いたいのか。
或いは――抵抗の痕跡か。
イシルはナギの体を後方に押しやり、前に出る。
積み重なった疲労。癒しの反動。思った以上に体が動かない。反射的に身体を捻り、急所だけは外す位置へ滑り込んだ。
刃が肩口を深く貫く。
「っ……!」
血が弾け、イシルの足元が揺らぐ。
それでも彼は逃げず、ウィルの手首を掴み返す。
(何で平気な顔してるんだよ、馬鹿!!)
意図を察してアゼルは唇を噛んだ。
体から剣を抜かせない。
(捕まえた、干渉を解く――)
白銀が瞳に灯る。
"在るべき状態へ導く理"──銀の理。
「ウィル、戻れ」
その瞬間、乾いた音が響いた。ウィルの腕が明確な敵意をもって振り払われた。
「っ!」
その力が作用する前に断たれ、白銀の光が散る。剣を引き抜かれ、貫かれた肩口から血が溢れる。
「選ぶと思ったよ」
逃げもしない。抗いもしない。その選択を、青玻璃の主は、誰にも聞こえない声で囁いた。
"誰にも縋らない"選択だけは、昔から変わらない。
ウィルは既に二撃目の構えに入っていた。紫水晶の瞳には、いつもの柔らかな光がなかった。
あるのはただ、標的を見据える暗く澄んだ眼光。
「イシル!!」
ナギは、気づけば叫んでいた。
イシルは一度も、こちらを振り返っていない。
助けを求める視線すら、最初からなかった。
ウィルの剣が閃き、落ちる。
その"刹那"に、別の気配が割り込んだ。
金属が弾かれる乾いた音。
淡い金色の光が奔った。
「遅い」
その声は、ウィルの剣を弾いた直後、イシルのすぐ前で響いた。
まるで、闇に潜んでいた光。黎明に染まる長い髪。柔らかな微笑が余裕を語る。
その男は、最初からそこにいたような自然さでイシルを抱き寄せる。
その腕が、傷口に触れぬよう絶妙に添えられていた。
「動かないで。痛いでしょ」
その声を聞いた瞬間、アゼルはようやく何が起こったのかを理解した。
「転移魔法!? あの相、まさか――」
金色の魔力。淡金の虹彩。圧倒的な美貌。
ありえないほど洗練された魔力の質。量。精度。
――歩く魔法体系。稀代のルーナ。
アゼルの喉が震えた。
「始祖の影、レイ・アルシェ……?」
レイは片手を僅かに動かす。
キリルへ踏み込ませぬよう、足元へ転移陣を展開した。
"その瞬間"。
キリルは鞘から剣すら抜かず、ただ虚空を払うように腕を振った。
空気が割れ、光が砕けた。
転移陣が、魔法そのものが、粉砕される。
アゼルの目が見開かれる。
「嘘、だろ……魔法を、砕いた?」
残った静寂の中心で、キリルの瞳がレイを射抜いた。感情が一滴だけ沈んだ、冷たい敵意。
レイはほんの僅か、唇を歪める。
苦く、懐かしさの滲む笑み。
「粗くなったね。昔より」
キリルの目が細くなる。
「お前こそ。隠しても、手癖でばれる。」
次の瞬間、レイは二重の結界を展開する。
外側──蒼の層。
内側──金の層。
アゼルの息が止まった。魔法を砕かれても動揺するどころか、即座に二つの魔法を操る精神と集中力。
そして、性質の異なる層を重ねる機転と器用さ。
(精度も密度も、これまで見たことのない類)
キリルが黒剣を軽く振る。
ガリンッ!!
外層が砕け散る。光が砂のように飛び散る。
「随分、簡単そうにやってくれるじゃないか、キリル」
言葉の軽さとは裏腹に、レイは思考と魔力を回す。
「レイ……邪魔するな」
黒剣の切っ先はすでに二層目へ迫っていた。
レイはイシルを抱き寄せ、金色の魔力を奔らせる。
「――間に合え」
内側の結界に亀裂が走り、光が捻れる。
同時、空間が折れ曲がり、光が弾ける。
レイの広範囲転移陣が爆ぜた。
ナギも、ウィルも、アゼルも──すべてを包む。
この場に置いてはいけない全員を。
転移の直前。最後に見えたのは──二重結界の内側すらも砕いた、キリルの黒剣。
(相変わらず、桁外れだね)
砂塵の中、キリルだけが静かに残った。
「――逃げ足は、昔のままだな」
残響のように、結界が光を散らして消えていった。




