第8話 稀血と守護者
ルーベルの旅路の跡――光の遺構。
それは、各地に点在し、魔霊を寄せ付けない白光は、今でも旅人達の助けになっていた。
それを辿るように、次の安息場を目指して四人は進んでいた。
街道から森の奥へ進むほど、空気が徐々に重く、暗く変質していく。
アゼルが、ふと歩みを止めた。
「ここを抜けよう」
ウィルが即座に眉をひそめる。
「その先は魔霊の密度が高い。遠回りしたほうが安全だ」
「分かってるさ。だから"あえて"なんだよ」
アゼルは朗らかに笑う。けれどその瞳には、好奇心の深い底が、刃の光を宿していた。冷たいほどに。
ナギが訝しげに眉を寄せる。
「アゼル、何しようとして――」
言い終わる前にそれは現れた。森の奥が、脈打つように揺れた。枝のあいだから黒い霧が這い出し、いくつもの影がこちらへ向かってくる。
――知性の兆しを持つ、魔霊の群れ。
「来るぞ」
ウィルが双剣を構える。
イシルはその後方で、剣も抜かずに気配を読んでいた。
魔霊の濃さも、アゼルの"意図"も。
(わざと、か)
アゼルはすっと前に一歩踏み出した。
「さて。ちょっとした実験だ」
声だけは軽快。目は、とうに遊びを捨てていた。
アゼルは魔法陣をあえて不安定に歪ませ、魔霊の生存本能を逆撫でするような、不快な魔力の波を放った。
それは、かつて彼が"獲物を追い込むために"磨いた、最も効率的な挑発だった。
(見せてみろよ、真実を――)
ウィルが低く唸る。
「アゼル。やめろ」
自らを囮にする、危険な行為。
「心配性だなぁ。ほら」
その瞬間、魔霊たちが一斉に跳ねた。
黒い影が弾丸のように飛び出してくる。
「アゼル! 危ねぇだろ!」
ナギが叫ぶ。その声に魔霊の一部が軌道を変え、ナギへ一直線に迫る。
(――三体。角度が悪い)
魔法を撃てば確実に巻き込む。
アゼルは迷わなかった。足を返し、滑り込むようにナギの前へ出る。
「っと――!」
魔力を纏う蹴りで一体を弾き飛ばす。だが反対側から迫った爪が、アゼルの背に深く刻まれた。
「っ……!」
苦痛に息が漏れる。
「無茶すんな! ちょっとは任せろ!」
全身に闘気を漲らせる。鍛えられた拳の一撃で、アゼルに攻撃した一体を吹き飛ばすナギ。
眼前に迫るもう一体を、ウィルが一閃した。
(危なっかしい。でもあいつ、ナギを迷わず庇った)
奥から更に魔霊の群れが襲い来る。
アゼルが魔力を編み、炎の矢で一陣を焼き払うが、相手は知性の兆しがある魔霊――焼かれた魔霊を盾にして突進してくる。
イシルはすべてを見ていた。
数。速度。剣で守れば取り零す。
ひとりの時より、使わざるを得なくなる。
(――あの人なら、一振り……)
白銀が瞳を染める。
短く鋭い閃き――"白銀"の最小出力。
最低限だけを削ぎ落とす、緻密で息の短い浄化。
剣に理の光を乗せ、鋭い一閃。白銀の奔流が、薙ぐ。
ほんの数瞬。魔霊の影は、すべて光の粒子となって消えた。
静寂が落ちた。イシルはアゼルに歩み寄り、躊躇いも前置きもなく袖を掴んだ。
「ちょっ、何――」
言わせず、その身体を手前へ乱雑に引き寄せる。
守るためではない。倒れかかった身体を支えるためでもない。
――背中を出せ。そう無言で告げる、容赦のない仕草。
裂けた布の下、黒ずんだ血が滲んでいた。
イシルが静かに問う。
「試したのか」
アゼルは苦笑を浮かべた。痛みより、見抜かれた照れのほうが勝っている顔。
「君なら、守ると思った。力を持つ者が、いざという時、何を選ぶのか……知りたかった」
爪痕は思ったよりも深く、息が続かない。
「少し、黙れ」
低く落としたイシルの声に、怒りや呆れの色はなかった。
アゼルの背中の傷を指先で確かめ、そっと掌を当てる。
イシルの瞳は白銀に染まらない。
温度のない赤い瞳のまま。
――淡く揺らぐ光。"稀血"の癒し。
温かい。痛みが引いていく。
アゼルは息を呑んだ。
("白銀"じゃない。魔力、でもない)
イシルの手が僅かに震え、深い吐息を落とす。
(もっと、深いところを削って使っている負荷だ。こんなの、俺の傷に使う力じゃない)
アゼルは堪えきれず呟いた。
「……君さ。馬鹿だろ」
イシルは表情を変えない。
「自分が倒れそうなほど消耗する力を、なんで他人に使うんだよ。そんな危険な優しさ、普通なら……とっくに壊れてる」
癒しが終わったころ、イシルは静かに言った。
「本来、お前の怪我はなかった。俺が躊躇った」
アゼルが目を瞬く。
「力を見たかったんだろ。――満足か」
ほんの微かに、イシルは目を伏せた。
「悪かったな。巻き込んで」
アゼルは妙に素直に呟いた。
イシルは責める訳でもなく、息を吐くように告げる。
「あまり使わせるな。余計なものを呼ぶ」
アゼルは胸がざわついた。
さっきまで軽い興味で浮ついていた心が、重く深いところへ沈んでいく。
(こんなの……放っとけるわけ、ないだろ)
ただの知的好奇心で試していい相手じゃなかった。
はっきりと、そう思い知らされた。
――万物を癒やす、不老をもたらす稀血の伝説。
その淡い光が消えた瞬間、イシルの身体がふっと揺れた。
指先にかろうじて残った光脈だけが、限界を越えて力を使った証のように弱く脈打っている。
ナギが慌てて駆け寄った。
「イシル……!」
呼びかけに返事をしようとしたイシルの喉が、わずかに空気を逃す。その顔色の悪さは、距離越しでも分かるほどだった。
ナギは手を伸ばし、ふらついた体を支えた。
「肩、貸すよ」
「平気だ」
「ふらついてる奴が言うことか?」
半ば無理矢理、肩を貸すナギ。
少し離れた場所で、アゼルがその光景を見ていた。
彼の胸の奥をさっき締めつけたものは、今や別の形になっている。
("自分より他者"な奴、なんだな)
自分が試したせいで自ら負った傷を、自分よりも深く削る治癒で癒し、結果として自分の足がふらつくまで消耗して。
(試すなんて……笑えない。本気で、二度とやらねぇ)
アゼルは無意識のうちに、ゆっくりイシルとの距離を詰めていく。
刹那。
その変化に、最初に気づいたのはウィルだった。
("余計なものを呼ぶ"って、イシルは言った。この圧、まさか)
風が、一度、止まった。音が遅れる。空気がわずかに屈折する。気配ではない。魔力でもない。
"存在そのもの"が、世界の密度を変えて近づいてくる。
ウィルは血の気が引くのを止められなかった。
――スカーレットロードの守護者。
傍らに立つことを許されるのは、ただ一人。
"ソラリアの剣聖"。
(僕は……戒律を破ってる。イシルの隣にいられる資格なんて、本当はない。)
救い出したのも、導いてきたのも、その人だ。
自分じゃない。
それでも――イシルを孤独にしたくなかった。
勝てない相手。絶対に届かない背中。
否が応でも、対峙する時が来る。
(俺の"勝手な願い"と、あの人の"正しい使命"が)
その時、ナギが周囲を見回しながら呟く。
「なんだよこれ。空気、気持ち悪いくらい静かだ」
アゼルの背筋が凍る。説明のつかない圧。どの種にも属さないような、澄んだ強さ。世界がその存在に道を開けていくような気配。
ただ一人、イシルだけが静かに目を伏せた。
諦めにも似た呼吸で。
「来た」
ナギがぎょっとする。
「来たって、誰が!? 何が来る!?」
イシルの声は掠れていた。
「……キリル」
その名が落ちた瞬間、空気が刃のように引き締まる。
ウィルは理解している"重さ"。
アゼルは理解できない圧の"異質さ"。
ナギは本能で察する"危険"。
三者三様の強張りが、一斉にそこに生まれる。
森の奥から足音が響いた。小さな規則正しい音。なのに世界そのものが、その足音に合わせて震えているようだった。
やがて木漏れ日が揺れる。
灰色から淡い金に溶ける髪が、光を受けて煌めく。
青玻璃の瞳が真っすぐこちらを射抜く。
ソラリアの剣聖――キリル・ブラント。
スカーレットロードの守護者。
翼なき超人、ソラリアの頂点。
凍えるような光の内に影を宿した、冬の美麗さを纏う男――キリルは歩み寄り、何の感情も乗せず、淡々と言った。
「……随分と遠くまで行ったな、イシル」
その声音は穏やかで、柔らかいのに――逃げ場がない。視線が触れた瞬間、世界の温度がひとつ落ちた。
ナギの腕に体を預けたイシルの肩が、僅かに震える。
それが"恐怖"なのか、"諦観"なのか。
まだ、誰にも分からなかった。




