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第6話 危うい旅の仲間

 名乗らなかった青年が扉が閉じた瞬間、部屋の空気が重く沈んだ。


 誰も何も言わない。


 赤い瞳の青年――イシルは、扉の方を見ていない。

 けれど、"あの言葉"だけは確かに胸のどこかに残っていた。深くは波立たない。ただ、沈みきらずにそこに留まる感覚。


 スカーレットロード。


 その名を口にされた瞬間の、避けようのない微かな揺らぎ。それは否応なしに抑圧された記憶を呼ぶ。

 ウィルは腕を組んだまま大きく息を吐く。


「何なんだあいつ。わざとだよな、絶対」


 焦りというより、苛立ちに似た音。けれどそれが向けられているのは、あの男ではなく――イシルの僅かな変化に気づいてしまった自分自身への戸惑いだった。


 ナギは指輪を握りしめたまま、二人の顔を交互に見る。

 その瞳は不思議そうに細められていた。


「赤ってさ、全部同じじゃないんだな」


 ウィルが目を向ける。


「なんだよ、急に」

「いや……イシルの赤と、さっきの"あいつ"の赤。同じ色のはずなのに、全然違った」


 イシルの赤は、燃えていない焔。冷たい銀光の底を静かに照らす、温度のない光。


 さっきの青年――名乗らなかった、あの男の赤は、もっと強く、焔のように揺れていた。危険で、妙に生きている色。


「イシルの赤は、触れたら消えそうな、静かな火の粉みたいで。さっきの男のは、近づいたら噛みつく獣みたいに生きてる感じ」


 ウィルは吹き出しそうになりながらも、否定はしなかった。


 ――イシルの赤は、光を拒むみたいに静かだ。


 "スカーレットロード"という言葉が落ちた瞬間、イシルの赤は一瞬だけ、揺れて――すぐ、閉じられた。


 それが余計に気になった。


(僕も連呼しちゃってたけど。名を知らない者にとっては、そう呼ぶほかない。それがイシルを指す"名称"で――人の扱いとは、遠い)


 長い沈黙の後、ウィルが呟いた。


「イシル。さっきの、平気か」


 聞かれた意味を捉え損ねた間があった。


「問題ない」

「いや、そうじゃなくて……」

「問題ないと言った」


 その言葉の終わり方が、"これ以上触れるな"の静かな拒絶線になっていた。

 ナギは気まずそうに頭を掻き、指輪を握り直す。


「なんか、ごめんな。変な空気にさせた」


 ウィルは首を振り、イシルの赤だけを一瞬横目に見る。


(いや……変にしたのは、僕もだ)


 誰も言葉を続けなかった。

 こうして、夜は静かに沈んでいった。



 空気は重く、何かが動き出す前の、深い底をたゆたうような夜だった。

 朝を受け入れるために、深く深く息を潜めるように。

 夜はゆっくりと沈み、重たい空気だけを残していった。


 誰も眠れたとは言いがたい。けれど朝は、そんな心の準備など待ってくれない。


 夜明けを待つように、赤い瞳は月光を映していた。



 ◆



 淡い陽光が、窓辺から差し込み始めた。

 薄いカーテン越しの粒子が、イシルの銀の髪に静かに揺れる。


 ウィルはすでに身支度を終え、壁に背を預けて腕を組んでいた。

 ナギは掌で指輪を転がしながら、何度目か分からないた溜息をつく。


 昨夜の重さが、まだ部屋のどこかに残っている。


「イシル」


 返事はない。

 ただ、ベッドの上のイシルがゆっくり視線だけをこちらに向ける。

 ナギは小さく息を吸い、逃げずに口を開いた。


「この指輪の文字、読めたんだよな?」


 イシルの睫毛が僅かに震える。

 無表情の奥に、ひどく小さな躊躇いが沈んだ。


「似ている言語がある。西の大陸、エムローデ皇国で古い詩歌に使われていたものだ。」

「エムローデ? そんな遠い国の言葉なのかよ。」

「断言はできない。どれほど近いかも、どれほど改変されているかも分からない。ただ、"古い系譜の言語"だということは確かだ」


 冷静な声。だがその底には、微かな躊躇があった。

 ナギは指輪を握りしめ、もう一度ゆっくり続ける。


「俺さ、親の顔……知らないんだ。師父に拾われて育ったけど、血のことは何も。師父は、俺の"出どころ"を話そうとしてくれなかった」


 イシルの赤い瞳が、ナギの翡翠の瞳を正面から見てしまった。


「知りたいんだ。俺が、何者なのか。この指輪が手がかりになるなら……尚更だ」


 飾りも虚勢もない声。


(指輪が反応したんだ。無関係なはずがない)


「だから――」


 ナギはベッドのそばで膝をつき、深く頭を下げた。


「頼む、イシル。俺も、お前の旅に同行させてくれ。ちゃんと名乗る。ナギ・ラディウス。よろしくな」


 ウィルがちらりとイシルを見る。

 押しの強い、有無を言わせぬ名乗りに、"これは断れないやつだ"という眼で。


 イシルは目を伏せ、沈黙の中で逡巡した。

 拒絶。躊躇い。

 それでも押し切れない、微かな脆さがひとつ。


 既に余計な同行者がいる。それは自身の甘さの結果。

 目の前には、願いを持つ者がいる。人の願いを受け取ってしまったら、それを拒否する構造を持っていなかった。


「……勝手にすれば」


 そう言ってイシルは目を伏せた。

 限界ぎりぎりの譲歩。

 ナギの顔がぱっと明るくなる――その瞬間。


「――なら、俺も付いていかせてもらおうか」


 廊下から割り込む声。

 噛み付く獣のほうの赤をした男が、扉の枠にもたれていた。


「お前、盗み聞きかよ!」


 気配が薄い。隠してはいない。目にしてしまえば、独特の存在感があるというのに。超人的身体能力を持つソラリアのウィルでも、接近を察知できていなかった。


「盗んだつもりはない。勝手に耳に入ってきただけさ。この宿、壁が薄いからね」


 アゼルは肩をすくめ、イシルへと視線を送る。

 昨夜の銀の閃光をなぞるような、静かな観察の眼。


「そういえば名乗ってなかったな。アゼル・テラノア。流れの旅人だ」


 その赤い瞳が、イシルの赤と真正面からぶつかる。

 同じ"赤"でありながら、まったく違う光。――透明に沈む、銀気を宿した赤。それは"人間"では説明がつかない目。

 

「で? 君が"イシル"か。スカーレットロードの名前は、そんなに柔らかいんだな」


 アゼルは意図的に、雑な一言を投げた。

 イシルは煩わしそうに眉を寄せる。


「呼ぶな」


 拒絶というより本能的嫌悪に近い声。

 アゼルは肩をすくめるだけだった。


「じゃあ名前で呼ぶよ。イシル」


 軽い口調なのに、距離を詰める遠慮がない。その感覚が、ウィルの苛立ちをさらに煽る。


「なぜ、僕たちに関わろうとする?あんた、ルーナだろ。目的はなんだ」


 アゼルの口角が上がった。


「君がそれを言うんだ、ソラリア」


 空気がひとつ止まる。アゼルは値踏みするようにウィルを観察し、悪戯な笑みを浮かべた。


「なるほど。これが"ソラリアの剣聖"か。王家からスカーレットロードを解放した、あの。……思っていたより、ずいぶん若いし優しげだ」


 ウィルがむっとする。


「僕はただの……おしかけ護衛だ。」


 アゼルは軽く笑った。


「なら、"ひとり増えても変わらない"よな?」

「はぁ!?」


 ウィルは素っ頓狂な声を上げる。


「君の理屈だろ。それに、俺もちょうど行く当てがなくてね」


 イシルは天井を見上げ、溜息をついた。

 理屈で押し切られ、ウィルの悔しさが滲む。


「本気でついてくる気らしい」

「そうみたいだね……」


 ナギは努めて明るく笑った。


「まぁ、賑やかなほうがいいだろ!」


 空気を誤魔化すように、ちぎれた革紐を不器用に結び直そうとする。


 その指先に揺れる指輪。


 イシルはそれを横目でとらえ、無言で自分の首元へ手を伸ばした。銀鎖を外し、ナギへ差し出す。


「紐より強い。これに通せ」


「イシル……いいのか?」


「もう落とすな」


 ナギは指輪を銀鎖に通し、胸元でそっと握りしめた。


「ありがとう。絶対に大事にする」


 アゼルはそのやり取りを横目に、"踏み込まれるのは嫌がるくせに"と言いたげに目を細める。

 興味と愉しみを含んだ、独特の熱を帯びたまま。



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