第59話 銀の理
滅びの陣。
黒光の線が最後の円を閉じ、 世界が、ひとつ息を止める。
空気が凍り、 音が、意味を失う。
――終わりだ。
イシルは、そう理解した。
その瞬間。
空間が、裂けた。
「――イシル!!」
神性の障壁を引き裂いて、光が、闇が、届く。
青玻璃の瞳、光に潜む闇。
淡金色の瞳、闇に潜む光。
嘗て守護者だった二人。
今はただの、選ばれざる者。
破れるはずがなかった。
あの二人だけは、届かないはずだった。
しかし、その"はず"を否定したのは、ただひとつ。
――友に心を揺らされた。
レイとキリルの一撃が、そこを穿つ。
亀裂が走り、まるで悲鳴のように障壁が砕け散った。
白い欠片の雨の中、届くはずのない存在が手を伸ばす。
イシルの瞳が見開かれる。
「駄目だ!!」
イシルの声が、叫びになる。
「入るな!! ここは――消える!!」
滅びの陣は、完成している。 ここに立つ者は、例外なく終わる。
それでも二人は、迷わず陣に踏み出した。
「分かってるよ」
「構わない」
淡い金の瞳が、真っ直ぐに彼を見る。
レイの手は、血と魔力で滲んでいた。
「イシルが消えるなら……僕も一緒に消えるよ。最後の瞬間まで離さない。今度は置いていかないでよ」
青玻璃の瞳は、揺らがない。
キリルの手には、黒剣を握る力が残っていない。
「ひとりでいくなと言ったはずだ。消えるなら、俺も消える。最後まで傍にいると、とうに決めている」
滅びの陣に立つイシルに、触れてくる二人の手。
「……そんなの、望んでない」
加護が、そこに並び立つことを許していた。
「望む、望まないじゃない」
レイが静かに微笑む。不敵の笑みよりも、優しく。
「君が"いらない"と思い込んで、勝手に決めて捨てたからだ。僕達は、それを拾いに来ただけだよ」
キリルの表情は薄く、けれど強い意志が瞳に滲む。
「お前が選ぶ前に、選んでいたんだよ。こっちはずっと――千年前から、ずっとな」
焼けるような魂の痛みに晒されているのが、触れただけで分かる。
「どうして、そこまで……」
レイはイシルの頬に触れた。
「君が生きるなら、一緒に生きたいからだよ。だってもう――愛してしまったし、失えない。戻れないんだ」
キリルが、ゆっくりとイシルの手を覆う。
「俺を救ったのはお前だ。お前が、俺の全部を変えた。――お前は、俺の全てだ」
二人の加護が、滅びの陣の中で交わる。
離さない意志。共に消える意志。動かない。
もう、視線を逸らしきれなくなる。
イシルは小さく手を伸ばした。
二人の胸を押し返すために。
「……生きてほしい。失いたくないんだ」
声は弱く、けれど真実そのものだった。
「レイ、キリル。陣から出るんだ」
崩れたのは、イシルの鉄の表情だった。
今にも泣きそうな、懇願だった。
「二人が消えるなんて、許さない」
その言葉が、落ちた瞬間。
滅びの陣が、悲鳴を上げた。
イシルの足もとで黒く輝いていた滅びの陣が、突然、内側から裂けるように光を散らした。
ひとつ、またひとつと、陣の紋様が砕け散る。
「何故……まだ、俺は……!」
理解できない。
止めた覚えも、迷った覚えもない。
――砕いたのは、白き神の手だった。
空の光が変わる。
白き神とイシルの魂の結合に、決定的な亀裂が入る。
光が逆流する。
砕かれた滅びの陣と連動するように、イシルの身体から光がふと、漂い出す。
それは同化していた"白き神"だった。
まるで、そっと抱きしめるように。
そして祝福して離れるように。
全ての色を携えた光が、溢れ出た。
その瞬間、イシルは崩れ落ちそうになる。
同化した神が離れる。魂が軋む。
「……っ!」
痛みに顔を歪める。息が漏れる。
イシルの魂は引き剥がされる負荷を受け、そして軽くなる。
イシルの身体から、失われていく。
白き神の力が――完全に剥がれ落ちる。
眩い光が、散った。
言葉にできないほどの、喪失。
イシルの膝が、崩れた。
胸の奥を押さえて震える指が、血の気を失っている。
「イシル!」
――魂に刻まれた使命は、折られた。
レイに支えられ、キリルの腕が添えられ、イシルはまだ辛うじて意識を保っていた。
息は乱れ、胸の奥が軋むように痛い。
白き神が抜けていった余波で、魂がひび割れていた。
それでも──倒れなかったのは、レイとキリルの気配を離したくなかったから。
まだ、聞きたい声があったから。
遠くから、三つの影が走ってくる。
ナギ。
ウィル。
アゼル。
その姿が視界に入ったとき、イシルの瞳が揺れた。
そして──
友の表情は涙のように歪んでいて、けれど怒っているようにも見えて、それでも確かに「生きてくれ」と叫んでいた。
胸の奥の緊張がふと、解けた。
そして、イシルは倒れた。
レイとキリルの腕の中へ。
三人の友が駆け寄る気配を最後に感じながら──
イシルはようやく、気を失った。
嘗て、守りたいと願って、得たのは滅びの理。
嘗て、滅びを受け入れたのに、得たのは再生の理。
――そして。
消滅を願い、授けられたのは留まる理。
願いは、確かに聞き届けられた。




