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第57話 呪いの名を呼ぶ者

 霊峰アルセイン――天鏡。


 湖面は荒れていた。

 吹いていないはずの風が、そこだけで渦巻き、銀の波を寄せては返す。


 イシルは一歩、踏み込む。

 靴が水を打つ――その瞬間、波が止まった。


 まるで湖そのものが呼吸を忘れたかのように。

 その白銀の瞳には、風も、音も、拒むことができず、ただ従うしかなかった。


 天空を映す湖面。天と地が、重なる。


 イシルは湖面の中心に立つ。

 水は彼を沈めず、まるで"ここへ来る者"を知っていたかのように支えていた。


 滅びを知る祈りと、対を成すもの。


 ――"終わりなき光"をここに持て。


 その"再び願う祈り"は、己の内にある。


 湖の底から、光が昇った。

 始まりと終わりの境界にだけ立つ、滅びの色。

 それは、約束の光を持つイシルを迎え入れた。


 音も、境目もない。ひとつになっていく。

 むしろ、懐かしさに近かった。


 創造と再生。

 守護と維持。

 終焉と破滅。


 全てを齎す存在。白き神。

 一つであったものが、正しい位置に戻る。


 魂の奥で、白が満ちる。

 意識が薄れるのではない。

 むしろ、澄み切っていく。


「灰の月よ、律を崩せ」


 イシルの声は、凛と響いた。

 魂の奥底に眠る、呪いの名。


 白き神が黙す。


 イシルは、静かに手を伸ばした。

 白き神の権能が、指先に集まる。

 本来は世界そのものに行使される力を、"ひとつの魂の消滅"という、極小の範囲に限定するための術式。


 ――滅びの陣。


 空間に、白銀の線が走る。

 光は音を立てず、しかし確実に世界を削り取っていく。

 それが自分自身であることを、イシルは理解していた。


 祈りの器。その魂を、完全に終わらせるための陣。

 

(迷いは、ない)


 瞼の裏に映るのは、温かい影。


 ほんの短い時間だった。

 けれど確かに、温かなものを受け取った。


 名前を呼ばれた感触。

 言葉を交わし、心が交わる感触。

 隣に立ってもいいと、許された感覚。


 それがあったからこそ、選べた。


 彼らが生きていく世界。

 争いも、悲しみもあるだろう。

 それでも、続いていく世界。


 そこに、滅びを呼ぶ魂は要らない。


 たった一つ。

 自分が消えれば、それで守れる。


 迷わない。

 そうでなければならない。

 これは、絶対的に正しい――。



 消えるのは、怖くない。

 失うことのほうが、ずっと怖いから。



 完成まで、すでに半ばを越えていた。

 空気が、わずかに歪んだ。


(強い気配。二人……)


 一瞬、思考が揺れる。


 追ってこないと思っていた。

 いや、正確には――追って来られないと思っていた。


 来てしまえば、レイとキリルを止めるのは難しい。


 前世の自分が、彼らに与えてしまったものがある。

 加護。

 縁。

 同じ高さに立つ資格。


 イシルは、滅びの陣を描く手を止めず、もう一方の手で、白き神の力を展開した。


 ――神性の障壁。


 人の意志では越えられない。

 理であり、裁定であり、拒絶そのもの。


 ――来てほしくない。

 来られたら、自分が揺らぐ。


 レイ。

 悲しい顔ばかりさせてしまった。

 君は強い。けど、無理して笑っている。

 君は無茶する。愛情深いから。

 こんな存在にも……。


 キリル。

 翼を失わせてしまった。

 嫌な役回りを。約束で人生を縛った。

 誠実な貴方は、心を殺してまで守ってくれた。

 こんな存在を……。


 二人が愛した人は、もういない。

 その魂を継いだだけの俺には、何の資格もない。

 二人には、もう何も失ってほしくない。

 自由であるべきだ。


 だからこれは、自分の役目だ。

 障壁が、空間を封じる。

 転移の気配は、弾かれた――はずだった。


 けれど。


 "抜ける"感覚があった。


 イシルの手が、わずかに止まる。


「――どうして」



 白の中に、色が差し込む。


 最初に感じたのは、ウィルだった。


 ――約束。

 賭けのように交わした、人としての約束。

『お前が追いつけたら、好きにしろ』

 神性では裁けない、意志と意志の縁。


 ひとりにさせまいとしてくる奴だった。

 でも、余計なものを背負わせてしまった。

 それでも傍にいてくれた。

 その優しさを、受け取るに値しない存在なのに。



 次に、ナギが通る。


 ――裁く者。


 祈りに巻き込まれ、"孤独"を背負った者。

 失った側の人間。

 彼には、裁く権利がある。


 心を解いてくる奴だった。

 でも、得られたはずの幸福を失わせてしまった。

 それでも、誰のせいにもしなかった。

 初めから、俺が存在しなければよかったのに。



 最後に、アゼルが。


 どんな選択をしても、傍にいる。

 阻まないと誓った存在。

 選択を奪わない彼自身が、離れるかを決められる。


 嘘も弱さも見抜いてくる奴だった。

 でも、愛された者の献身と比べさせてしまった。

 それでも真剣に怒ってくれた。

 俺が、いない方がいい存在だと知らなかったから。



 こんな俺でも、友人だと言ってくれた。

 温かさをくれた、大切な、失えない存在。

 彼らの未来に、滅びを呼ぶ者など残せない。


 白の中を、三つの影が進んでくる。


 神性の障壁が、彼らの前で意味を失う。


 視線を落とす。

 足元には、未完成の滅びの陣。


 言えなかった言葉。 


 胸の奥で、何かが、僅かに軋んだ。


 出会えてよかった、と。

 ほんの一言でよかったのに。

 言えなかった言葉。


 けれど、今さらだ。


 イシルは、再び陣へと意識を戻す。


 ――来てしまったとしても、止まる気はない。


 これは、選んだ未来なのだから。


 白き神と一つになったまま、

 イシルは、最後まで描き切るつもりでいた。



 

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