第54話 選ぶ者
朝霧が光を吸い、淡い金色を宿して湖面を漂う。
レイは瞳を閉じ、短く息を吐く。
サルディアの結界が、昨日よりもはっきりと揺れた。
意図的な接触だ。
(また、来たか)
想定していた。
避けられないことも、分かっていた。
「話をさせろ」
サルディア結界内の、レイの結界の向こう。
アゼルの声。
命令ではない。だが、退かない声音だった。
背後で、気配が動く。
「ねぇ、アルシェ」
イシルだ。昨夜の問いを、もう重ねてこない。
その沈黙が、逆にレイを追い詰めていた。
「昨日の人達。友人、なんでしょう?」
静かな声だった。責める調子ではない。
確かめるような、真っ直ぐな問い。
「話を、聞いちゃいけない?」
拒めない。
拒めば、"守っている"という言葉が、"閉じ込めている"に変わる。
レイは、ほんの一瞬だけ迷い――そして、頷いた。
「一度に、じゃない」
結界越しに、アゼルたちを見据える。
「話すなら、一人ずつだ。イシルを追い詰める真似はさせない」
アゼルは、短く笑った。
「それでいい。俺もそのつもりだ」
レイは、イシルと三人を邸内へと促した。
昼の光を受けたサルディアの湖は、昨夜とは違う顔をしている。
穏やかで、優しくて――残酷なほど、静かだ。
外で待つレイは、大樹の根元に背を預けた。
(選ばれない可能性、か)
考えないようにしていた言葉が、はっきりと形を持つ。
アゼルを選ぶかもしれない。
ウィルを、ナギを、選ぶかもしれない。
あるいは――
誰も、選ばないかもしれない。
ここを出て、自分の意志で歩き始める可能性。
それだけでも、十分に怖いのに。
(――キリル)
その名が、胸の奥に落ちる。
迎えに来る可能性。
記憶と心を削ぐだけが、目的ではないとしたら。
もし、イシルが思い出したら。
もし、自分の魂がどこへ向かおうとしていたかを、知ってしまったら。
――自分から、消えようとするかもしれない。
レイは、拳を握りしめる。
守りたいのか。繋ぎ止めたいのか。
それとも――ただ、選ばれたいだけなのか。
答えは、出ない。
邸内から、微かに声が聞こえる。
ナギの声だ。
穏やかで、優しくて――きっと、痛みを最小限にする話し方。
次は、ウィルだろう。
迷いながらも、嘘のない、正直な言葉を投げるはずだ。
そして、最後に――アゼル。
イシルに"選ぶ権利"があることを、真正面から突きつける男。
レイは、空を仰いだ。
たとえ、選ばれなくても。
たとえ、ここを去ると決められても。
キリルが来たとしても。
――それでも、僕は。
「君の傍に、いたい」
それだけは、手放さないと決めていた。
選ばれない未来を数え尽くした、その先で。
◆
最初に部屋に来たのは、少し長めに伸ばした暗金色の髪に、翡翠の瞳の穏やかな人。表情や雰囲気から、優しさが滲む。
でも、そこに軽やかさはない。
ただ優しいのではない。きっと、痛みを抱いて、それでも選んできた優しさなのだろう。
――何一つ覚えていないイシルの目に、ナギはそう映った。
「久しぶり、イシル」
柔らかい声。 だが、距離感を測るような慎重さがある。
イシルは一瞬だけ首を傾げ、それから小さく頷いた。
「久しぶり、なんだ」
否定しない。 受け入れすぎるほど、静かな反応だった。
ナギはそれを見て、少しだけ目を伏せる。
「あ、覚えてないもんな。俺はナギ」
そう前置きしてから、続ける。
「俺達さ、君と一緒に旅してたんだ」
イシルは黙って聞いている。
「難しい話も、飯の話も、くだらない言い合いも。……全部、君がいたから成立してた」
ナギは微笑んだ。
「君が何者かを、今すぐ決めなくていい。イシルは、イシルだから」
一見、優しい言葉。 だが、イシルの胸に残ったのは、別の感触だった。
——"今は"。
「俺にとってはさ。初めから、今も。ただのイシルなんだ。何者であっても関係なかった」
イシルは不思議そうにナギを見つめた。
「それは、考えなくていいこと……なの?」
ナギは少し考えて、正直に言った。
「君は、たぶんずっと、考えてきた人」
優しくない答えかもしれない。
きっと、ずっと、突きつけられてきた人だから。
「これだけは言っておくね。君がいたから、俺は孤独じゃなくなったんだ。それは、覚えておいて」
立ち上がって、ふと思いついた顔で。
「次の子は平気だろうけど。最後にくる奴、噛みつきそうな顔してるけどさ、うん、怖かったら言って」
ナギはそう言い残して、部屋を後にした。
次に来たのは、若草色の美しい長髪に、紫水晶の瞳。愛らしい顔つきの割に、どこか精悍。強く靭やかで、真っ直ぐだ。
でも、不思議と怖くない。
心の根に正直。きっと、誰にでもできて、誰もやらないことを、意志ひとつで立ってみせる。
――何一つ覚えていないイシルの目に、ウィルはそう映った。
「僕、ウィル。……どう話せばいいか、正直分からないんだけどさ」
そう前置きして、少し困ったような笑顔を張り付かせたウィルは、イシルの隣に腰を下ろした。 近すぎない距離。
「君がいなくなったら、僕達、結構困るんだよ」
冗談めいた言い方。 だが、目は笑っていない。
「だって、僕達は皆、イシルが大好きだから」
イシルは驚いたように目を瞬かせた。
「私……?」
「うん」
一つ呼吸をおいて、ウィルは静かに続けた。
「君は、いつも無茶ばっかり。でも優しくて、人のことばっかり大切にしてさ」
話しながら、涙が出てきそうになるのを堪える。
「自分自身のことも、大切にしてよ」
イシルは、膝の上で手を握りしめた。
「あの……心配かけてしまった?」
ウィルの瞳が潤む。
「心配したよ! もう会えないかと……!!」
目尻に涙が滲む。ウィルの頬にそっと触れるイシル。
「へ? あの、イシル?」
みるみる顔が赤くなっていく。
「なんか……ごめんね」
慌てて首を振り、誤魔化すように立ち上がる。
「もう、そういうところは変わらないのな!」
思わず大きな声を出してしまった。
イシルは少しだけ、驚いていた。
「あの……さ。イシル。君は愛されてるんだよ」
照れ隠しに続けた言葉は、真剣で。
「それが君の心に届くことだけが、僕の願いだ」
言いたいことだけ言って、上手く話せなかった。
少し後悔しながら、ウィルは扉に向かう。
「あ、次の人。怖くないよ。ただちょっと、心配しすぎて、やらかしちゃっただけだから……」
まだ赤い顔を逸らし、扉はゆっくりと閉まった。
最後に残った人は、やや癖のある黒髪をひとつに束ねた、赤い瞳の人。刃の鋭利さの裏に、強い情を秘めている。それを理性で抑え込んだような顔。
正直、少し怖い。
隠しても見透されてしまいそうな、怖さ。
それは、どこか温かさを秘め、溺れてしまいそうな。
――何一つ覚えていないイシルの目に、アゼルはそう映った。
「覚えてなくていい」
最初の一言は、それだった。名乗らなかった。
アゼルは、真正面からイシルを見る。
逃げ道を与えない視線。
「俺達は、お前を迎えに来たわけじゃない」
記憶もなしに縋る相手ではないのだ、と。
アゼルは続ける。
「誰かがお前を迎えが来るのを、止める立場でもない」
含みがある。誤魔化さない、正直な言葉。
「知ってるんだね」
「うっすら、な」
「私が、何者かも……?」
イシルは、アゼルを見つめた。
アゼルは、即答しなかった。
「それを決めるのは、お前自身だ。そのために、俺達はここに来た」
イシルは、湖の方をちらりと見る。
水面が、わずかに揺れている。風もないのに。
「ねぇ……迎って、くるものなの?」
アゼルは、イシルの視線の先を見る。
「どうして、そう思う?」
あの男のことを覚えているのか。
「分からない。でも、呼ばれている気がする」
——迎えに来る者。
◆
湖畔の大樹に、気配が近づいた。
世界の雑音が消えていく、聖域を作り出すような。
レイは顔を上げなかった。
今、自分がどんな顔をしているのか。イシルに見せていいものではないと、分かっていたからだ。
「アルシェ」
背後から、静かな声。
外へ向かうことを拒む理由は、もうなかった。
顔を、取り繕えない。
振り返ると、イシルが立っていた。
纏う空気が違う。
白銀の瞳は、もう迷っていない。
「来るな、と言う?」
レイは、答えられなかった。
イシルは小さく首を振る。
「大丈夫。もう……何者か、なんて聞かない」
その言葉に、胸の奥が軋む。
「三人の友人と、話したから」
イシルは一歩、近づいた。慎重に、でも躊躇なく。
「私が何者かは、私が決める」
静かな宣言だった。
イシルは、レイの目をまっすぐ見た。
「今の私が、アルシェに守られてることは、分かる」
否定しようのない事実として。
「大切にされてるってことも。それはたぶん、何が起きても、変わらない」
その言葉が、優しすぎて。レイは視線を逸らした。
「だからこそ、分かる。――アルシェは、何かを怖がってる」
胸を抉るような的確さ。
イシルの声が、少しだけ低くなる。
「それを、私には話せないんだよね」
責めてはいない。確かめているだけだ。
「――ねえ」
イシルは、ほんの一瞬、言葉を探してから続けた。
「私じゃ、アルシェの支えには……なれない?」
その一言は、 問いでも、責めでもなく。
――願いだった。
「一緒にいられても、隣に立つことは、許されないの?」
沈黙が、湖畔に落ちた。長く、深い沈黙。
やがて、レイは逃げるように視線を外し、それから、諦めたように息を吐いた。
「迎えが、来るかもしれない」
イシルは驚かなかった。 どこかで、予感していた言葉だった。
「その人は、誰?」
レイは、しばらく黙ったあと、答えた。
「キリルだ」
名前を口にした瞬間、 レイの魔力が、かすかに揺れた。
「僕の――かつての親友で、相棒だった」
イシルは、静かに聞いている。
「背中を預け合って戦った。疑う理由なんて、どこにもなかった」
声が、わずかに掠れる。
「信じていた。誰よりも」
自嘲気味に、笑う。
「なのに……どこかで、何かが狂った」
理由は、分からない。
決定的な瞬間も、思い出せない。
「僕は知らない。だが……イシルは、キリルと何かを約束しているはずだ」
自分だけが知らなかった、約束。
それが、一番怖かった。
「それが、君を迎えに来る理由かもしれない」
迎え。その言葉に、イシルは目を伏せる。
「もし、君が思い出したら。君は……僕の手を離すかもしれない」
それ以上に――恐れているもの。
「思い出した結果、君が"この世界に留まらない"選択をするかもしれない。僕は、それに耐えられる自信がない」
イシルの瞳が、微かに見開かれる。
だが、否定はしなかった。
「……だから、話せなかったんだね」
責めない声。
イシルは、そっとレイの手を取った。強くない、でも確かな温度で。
「ありがとう。話してくれて」
そして、静かに言う。
「アルシェ。迎えが来ても……選ぶのは、私だよ」
レイの淡い金色の瞳が、揺れる。
イシルは、少しだけ笑った。
「今の私は、確かにここにいる。あなたに守られて。 あなたを大切に思って」
その言葉は、約束ではない。 逃げ道も残している。
「だから……一人で壊れないで」
レイは、何も言えなくなった。
失えない。怖い。愛しい。傍にいたい。
選ばれなくてもいい。
ただ、生きてほしい。
あふれ零れて、レイはイシルを強く抱きしめた。
その瞬間。
――湖が、深く鳴った。
音ではない。 呼応だった。
光が、水面の奥で脈打つ。
治癒の気が、一斉に逆流する。
レイは、はっきりと感じた。
これは――
名を呼ばずとも、分かる。
迎えだ。
この世界に、 確かに触れた。
静かで、抗えない圧が降りてくる。
イシルの背後で、 月光が、わずかに歪んだ。
――選択の時間が、始まる。




