第52話 留める者
「少し、やりすぎたかもしれない」
イシルの前で、剣を抜いた。
サルディアの森を抜けたアゼルは、深く息を吐いた。
胸の奥でまだ剣気の名残がざわついている。
レイとの対峙は、ほんの数分。
だが魂の芯を焦がすような濃密さだった。
(――俺としたことが。熱くなりすぎた)
自嘲気味に額を押さえながら、ナギとウィルが待つ、自分の家へ歩く。暖炉の前で待っていた二人は、アゼルを見るなり――ウィルは真剣半ばに、突っ込んだ。
「戻ってきたね。なんか、すごい顔してるけど?」
心配はしていない声音でナギが続く。
「おい、アゼル。やられたのか?」
「やられてない。けど、ちょっとやらかした」
ウィルとナギが、同時にため息をついた。
「絶対やらかすと思ってた」
嫌な予感の的中である。
「言うと思ったよ。まあ、否定はしない」
ウィルは本題に切り込む。
「で? イシルは?」
「イシルは生きてる。レイが抱えていた」
ナギがぱっと立ち上がる。
「じゃあ、すぐ――」
「無理だ」
その声は静かだが、断固としていた。
「レイが本気だった。守るために何でもする」
ナギは何かを察したのか、妙に鋭かった。
「おまえ、レイとやり合ったのか?」
「剣は交えた。少しだけ」
ウィルは半眼になる。
「"少し"って言い方が一番怖いんだけど」
「本気で斬るつもりはなかった。ただ、レイが行き過ぎてる。その確認だけのつもりだった」
「確認で剣抜くやつがあるかよ」
ナギは少し呆れながらも、やると思っていた顔。
「まあ、そこは反省してる」
ぽり、と後頭部を掻くアゼル。
ナギとウィルの視線が痛い。
「で。結論は?」
反省はした。切り替えろとウィルが促してくる。
アゼルは暖炉の炎を見つめた。
「レイは、恐れてる。イシルに拒まれるのが。失うのが。それを認めたくなくて、閉じ込めてる」
言ってから、アゼルは苦く笑った。
「俺も一瞬、同じ穴に落ちかけたよ。イシルに止められたけどな。"戦わないで"って、レイの胸元で言った」
ナギは溜息まじりに漏らした。
「まぁ、イシルらしいよな。止めるなんてさ」
「レイも動けなくなった」
静寂が落ちた。暖炉の火の音だけが響く。
アゼルは顔を上げた。
「レイだけを責めても無意味だ。檻にするつもりはなかったはずなんだ、あいつも。イシルの傷も、前世の残滓も……全部が絡んでる。無理に進めない方がいいだろう」
暖炉の火を映す紫水晶の瞳は、とても静かに返した。
「待つのか」
アゼルは頷くと、ナギの持つ結晶に目をやる。
「結晶はおそらく記憶だ。イシルに心は残っていた。イシルが思い出したいと思える日が来たら、結晶を返そう」
ウィルは誰も問いたくないことを、問う。
「思い出したい、と思わなかったら? 僕は、それが……怖い」
言い切った後、ウィルは視線を落とした。
ナギは、ふっと笑った。
「俺たちは――イシルが帰りたいと思える場所でいようぜ」
ウィルが目を細め、アゼルは拳を握った。
三人の影が、暖炉の明かりの中でゆっくりと重なる。
◆
少し外に出られるように。癒しの湖までなら、と。
レイは結界の範囲を広げた。
ずっと邸内に閉じ込め、問いにも答えてやれないのは、限界があった。
広げたばかりの結界が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬。癒しの波動の中に混じる、異質な脈動。
——外へ、向かおうとした。
レイは反射的に駆けた。
森を抜け、湖へ続く小径を踏みしめる。月明かりの下、湖畔に立つ影を見つけた瞬間、胸が冷えた。
「イシル」
名を呼ぶ声が、思ったより強く響いた。
イシルは振り返る。
月光を映す銀の瞳は、穏やかで、けれどどこか遠い。
湖面は静かだった。癒しの気が満ち、銀色の光が水面に揺れている。まるで——この世界そのものが、彼に何かを語りかけているように。
「外に、出ようとしてた?」
問いかけは、確かめる形を装っている。
だが答えは、もう分かっていた。
イシルは否定しなかった。
「ただ……見ていただけ」
そう言って、湖へ視線を戻す。
その仕草が、ひどく危うかった。
「駄目だ」
レイは一歩踏み出し、イシルの手首を掴んだ。
思ったより、力がこもった。
イシルが、少しだけ目を見開く。
「ここから出るのは、駄目だ」
結界が、微かに震える。
レイの魔力が、抑えきれずに滲んだ証だった。
「そんなに強く止める理由が、あるの?」
責める声ではない。ただ、静かな問い。
レイは答えられなかった。
掴んだ手を、ゆっくりと離す。
指先が震えているのが、自分でも分かる。
沈黙が落ちた。
湖の水音だけが、やけに大きく聞こえる。
やがて、イシルが口を開いた。
「ねえ、アルシェ」
名を呼ばれるたび、胸の奥が軋む。
「私は、何者なの」
答えを返せない。
「何も覚えてない。思い出せない。でも……」
イシルは言葉を探すように、一拍置いた。
「あなたが、何かを隠してることだけは分かる」
逃げ場のない言葉だった。
「信じたい、って思ってる。だからこそ……教えてくれない理由が、怖い」
レイは、唇を噛んだ。
——言えない。言えば、壊れる。
「私が、ここにいていい存在じゃないから?」
その一言で、世界が静止した気がした。
その言葉が、胸を貫いた。
――ここ。
この場所。
この時。
この世界。
(言うな、そんなこと)
レイの背中を、冷たいものが伝う。
「……違う」
ようやく絞り出した声は、ひどく弱かった。
だがイシルは、首を振る。
「だって、答えられない……ここまでしてくれるのに。話せない存在って」
月光が、彼の輪郭を際立たせる。
「もしかして、私は」
その先を言わせてはいけなかった。
「違う!!」
声が荒れた。自分でも驚くほど、強く。
レイは一歩近づき、両肩を掴んだ。
イシルは小さく、身を震わせていた。
「そんなこと、二度と言うな。君は——」
言いかけて、言葉が折れた。
言えない。守るために、奪っている真実。
レイの瞳が揺れる。
「僕は……君に、いてほしい」
それだけは、確かだった。
だが、それ以上は、どうしても言えなかった。
湖の光が、静かに揺れる。
まるで、"それでも、思い出す日が来る"と。
そう告げるように。
レイは、ただイシルを抱き寄せることしかできなかった。
その胸元に寄せられた表情を、隠すように。
——答えられないまま。
◆
「今朝は、ずいぶん騒がしいな」
声は低く、感情を殺したものだった。
サルディアの結界、その縁が僅かに震えた瞬間から、覚悟はできていた。
この時間を選んだ理由も、分かる。
――逃がさないためだ。
レイは湖を背に、森の入り口に立っていた。
朝の光はまだ淡く、霧が水面を覆っている。
その向こうから、三つの気配。
先頭に立つのは、当然のようにアゼルだった。
「やっぱり起きてたか」
軽い調子だが、目は一切笑っていない。
視線はまずレイに、次いで――無意識に、館の方角へ向かう。
それを、レイは見逃さなかった。
「イシルは、まだ休んでいる」
一歩、前に出る。
それだけで、境界線は明確になった。
「今日は会わせない」
ウィルが一瞬、言葉を選ぶように口を噤む。
ナギは、静かに周囲を見回していた。
「結界が、昨夜より強化されてる」
アゼルは淡々とした指摘だった。
「しかも二重。音も、感情の波も遮断してるな」
レイの指先が、わずかに動いた。
――やはり、気づくか。
「用件は、それか?」
アゼルが一歩踏み出す。
「違う、と言いたいところだが。半分は、そうだ」
朝の空気の中で、彼の声はやけに明瞭だった。
「昨夜、ここで結界が大きく揺れた。この地の"選別"が反応するほどにな」
レイの胸が、軋んだ。
(やはり、感じ取られていたか)
「イシルが、何かに気づき始めてる」
アゼルは、断定するように言った。
「違う」
即答だった。
「まだ、何も思い出していない」
それは事実だ。
だが――ナギが、静かに言葉を継ぐ。
「でも、違和感は覚え始めてる。自分が、ここに留まるべき存在なのかどうか」
レイの喉が、詰まった。昨夜の言葉が、鮮明に蘇る。
『私が、ここにいていい存在じゃないから?』
――やめろ。
それ以上、踏み込むな。
「だから、今は刺激するなと言っている」
声に、僅かな鋭さが混じる。
「ここは癒しの地だ。心と魂が、自然に整う場所だ。閉じ込める場所じゃない」
アゼルの返答は、容赦がなかった。
「選ばせる時間を奪ってる。それが、どんな"癒し"だ」
空気が張り詰める。
ウィルが、慌てて割って入る。
「待って。喧嘩しに来たわけじゃないだろ、アゼル」
「分かってる」
だが視線は、レイから逸らさない。
「俺たちは、迎えに来たわけじゃない。イシルが、知るべきことを知った上で、それでもここにいたいと言うなら、俺は引く」
その言葉は、あまりに真っ直ぐだった。
「だが、知らされないまま、守られているなら。それはもう――選択じゃない」
レイの指が、ぎゅっと握られる。
「……君たちに、関係のないことだ」
絞り出した声は、冷えていた。
「彼は、今は不安定だ。これ以上、余計な真似をするな」
ナギが、ゆっくりと首を振る。
「レイさん。余計かどうかを決めるのは、貴方じゃないはずだ」
一瞬、言葉を失った。
その隙を縫うように、アゼルが言う。
「今朝、この時間を選んだのは、イシルが起きてくる前に、お前とだけ話をする為だ」
レイを、まっすぐに射抜く。
「今日中に、会わせろ」
アゼルの声は、静かだった。
森が、静まり返る。湖の水面が、かすかに揺れた。
レイは、視線を伏せる。
白銀の髪の影が脳裏をよぎる。
知らなければ、幸せでいられる。
思い出さなければ、消えずに済む。
取り戻してしまったら、彼は選ばない。
(……それでも)
ゆっくりと、顔を上げた。
「日中は無理だ」
譲歩だった。
自分でも分かるほどの。
「だが、今夜」
息を吐く。
「イシルが、自分から外へ出たいと言ったら…… その時は、止めない」
アゼルの目が、わずかに見開かれた。
ナギが、ふっと息をつく。
「それが、限界か」
「それ以上はできない」
レイは、静かに言った。
「――失わせる選択だけは」
言葉の奥に、誰にも見せない恐怖を沈めたまま。
森の向こうで、朝の鳥が鳴いた。
その音は、あまりにも穏やかで。
――嵐の前触れのようだった。




