第50話 名を交わす前に
その日は公務の装いではなく、淡い色の私服だった。前倒しにできるものを詰め、終わらせ、時間を作った。
(――今日こそは)
白い天蓋越しに差し込む光が、静かに揺れている。
柔らかな日差しが、フィオリーシェの白金の髪を煌めかせる。空翠の瞳は、鏡の前の自身を見つめた。
(心を、落ち着けるのよ)
胸に手を当てる。
それでも鼓動は高まり、鎮まってはくれない。
あの日。
東大陸中央に座す、セレスティス王国へ赴いた。
エムローデ皇国とセレスティス王国の親交を深めるための外交。
今にして思えば、母――エムローデ女皇は、セレスティスの賢王の名に陰りが見えはじめたことの真偽を、その目で確かめたかったのだろう。
まだ幼かった私は、長い話に退屈し、無理を言って庭園を観て回った。
王家独特の天青色の髪、夕暮れの空のような青紫の虹彩になぞらえるように、花々は空色から青紫色で整えられていた。
ただ、高い柵の向こう側。そこだけが質素で。
見ていれば、そのうち何をする場所なのか分かるかもしれない。時間を持て余していた私は、その柵の傍にある噴水の縁に腰を掛け、待っていた。
けれど、何事もなく――私は、空を眺めながら、覚えたばかりの詩歌を口ずさんだ。
ふと、視界に人影が入った。
柵の向こう側、バルコニーに。
風に靡く銀髪が美しく、思わず目で追った。
すると、その子と目が合った。
「ねぇ、君もおいでよ」
声をかけたが、バルコニーから動かなかった。
だから私は、何となく。本当に何となく……柵の向こう側にさえ行けば、降りてきてくれるのではと思ってしまった。
柵の近くの木に、足をかけた。
乗り越えられる自信があった。
ドレスにヒールでなければ。
つん、とドレスの裾を踏み、バランスを崩した。
落下する――はずの私は、ふわりと受け止められた。
銀髪の子の、腕の中にいた。
――つい先刻まで、バルコニーにいたはずなのに。
「お転婆だな」
銀髪の子の第一声。初めて交わした言葉。
――いくら本当のことでも、初対面で言いますか?
――そこは、「大丈夫?」と聞くものではなくて?
それらの言葉を飲み込んで出たのは――。
「あ、ありがとう……」
瞳が、とても美しかった。
星のような白銀から、透き通った宝石の赤へ変わる。
これまでも、きっとこの先も。
この人だけの色なのだろう。
そんなことばかり考えていたら、いつの間にか噴水の縁に降ろされていた。
銀髪の子は、木の根元に転がっていたヒールを拾い上げ、足元に跪き――履かせてくれた。
「柵を越えてはいけない。もうしないで」
「待って!」
声より先に、ふわりと柵の向こうへ飛んだ。
「何故、いけないの?」
銀髪の子は少し困った顔をした。
「知れたら、咎められる。城の人には言わないで」
「そう……では、言わないわ」
すぐ去ろうとするその袖を、柵越しに掴んだ。
「ねぇ。それなら何故、降りてきてくれたの?」
「歌声が聞こえたから……あと、落ちたから」
――落ちなかったら、来なかったのね。
「その歌……何? 不思議な響きがする」
銀髪の子から聞かれても、詳細は答えられなかった。詩歌の意味をまだ知らなかったから。
「あれは、古の譚詩といって……代々伝わる歌よ。……気になる?」
そう言って、詩歌が刻印された腕輪を見せた。
見たところで、読めないことが分かっていたから。
「古い文字よ。本当は、歌いながら踊るの。今はまだ、上手にできないけれど」
「そう……。でも、応えていたよ、大地は」
「……え?」
「もう、行ったほうがいい。見つかる」
本当は聞きたかった沢山の"何故"を閉じこめて。
「私の名は、フィオリーシェ。貴方は?」
「……イシル」
名を教えてくれたのも、きっと、すぐに立ち去らせるためだったのでしょうね。
「イシル……忘れないわ。またね」
「忘れて。フィオリーシェ」
その言葉に、私は頷かなかった。
忘れられるものですか。
(あの言葉があったから――私は、私のすべきことに向き合えた。詩歌には意味があるのだ、と)
――そして、再会した。
けれど、今は、もう。
イシルとその友人のために用意した客室へと向かうと、その扉の前に、旅支度を終えた三人が立っていた。面持ちはどこか、思い詰めているように見えた。
「急用、ですか」
姫は静かにアゼルを見る。
アゼルは一拍だけ置いて、深く頭を下げた。
「はい。イシルが先に発つことになりました。本来なら直接ご挨拶すべきでしたが……時間が、ありませんでした」
「俺達も、これから追います」
ナギが言葉を重ねる。
姫はしばらく三人を見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「あの方らしいですね」
責める声ではなかった。
「無事であれば、それでよいのですが。あなた方も、気をつけて」
「……ありがとうございます」
ウィルが、ぎこちなく頭を下げる。
ナギは胸元で、透明な結晶をそっと押さえた。
姫はそれ以上、何も言わなかった。
空翠の瞳は、誰にも見せない憂いを浮かべていた。
祈るように、そっと瞳を閉じた。
(イシル。また、会えますか?)
門を抜けて、しばらく無言で歩く。
最初に口を開いたのは、ウィルだった。
「本当に、これでよかったのか」
「よくない」
アゼルが即答する。
「けど、他に言いようがなかっただろ」
ナギが淡々と言う。
「姫様に全部話すのは?あの人、聡明だし」
「確かに、あの姫様はやり手だろうが、国家なんだよ。他の王国も黙っていないだろうよ。イシルは"スカーレットロード"なんだから」
アゼルも姫を認めているんだな、と意外に思うナギ。
「久しぶりに聞いたな、それ」
ウィルが苦笑する。
出会った頃は連呼して、嫌な顔をされたものだ。
「幽閉していたセレスティス王国は当然出てくるだろうけど……ヴェルリア王国だって、イシルと関わったんだ。黙ってはいないでしょ」
ウィルが顔をしかめながら言う。
アゼルは前を見たまま言った。
「だから、今は俺たちだけでいい」
ルーナの地への最短ルートは、来た道を戻ること。
――つまり。
「あー……」
エムローデを出て数日後。
遠くに見えてきた城壁を見て、ウィルが嫌そうな声を出す。
「ヴェルリア王国、通るよね」
「通るね」
ナギが即答。
「ジル、いるよね」
「いるだろうな」
アゼルは額を押さえた。
案の定だった。
検問所には、相変わらず前線に立つ、ヴェルリア王国第一王子ジルの姿があった。
三人の姿を見た瞬間、眉をひそめた。
「待て。イシルはどうした」
「先に行った」
アゼルが、用意していた顔で答える。
「は?」
ジルの目が細くなる。
「説明しろ」
「急用だ。俺たちも追ってる」
「どこへ」
「ルーナの地だ」
空気が、一段冷えた。
(イシルが三人を置いていくはずがない。還光祭のときも、三人の友を尊重していた。彼がひとりで進むなど、考えにくい)
真っ直ぐな紺青の瞳が、三人を見据える。
「イシルはヴェルリアを通っていない。エムローデからルーナの地への最短は、ここを経由するはずだ。何があった。」
ジルは一歩踏み出し、アゼルに詰め寄る。
下手な誤魔化しは効かない顔。
「相手は、伝承級のルーナだ」
紅蓮の魔導士との力量差が、一言で伝わる。
沈黙。ジルは、深く息を吐いた。
「どうにかできるのか、それは」
ルーナの地に、安易に踏み入ることはできない。
国家で動けばどうなるか、分かっているからこそ。
「敵じゃない。今のところな」
アゼルは答える。レイは敵ではない。
それでも、イシルを巡って対立するかもしれない。
「だから、急ぐ」
ジルは目を伏せ、舌打ちした。
「俺も行きたいが、立場が許さない。……必ず、連れ戻してくれ」
「言われなくても」
アゼルの赤く鋭い刃のような瞳には、強い光が宿る。
王国を抜け、再び街道へ。
空が、少しずつ変わっていく。
ルーナに近づくにつれ、空気が柔らかく、澄んでいく。
「レイと二人きり、か」
ナギがぽつりと言う。
「やばくない?」
「やばい」
アゼル即答。
「手が早そうじゃない?」
ウィルがはっきり言ってしまった。
それは偏見だと言いたいが、初対面の時の所業を考えれば、当然だ。
「否定しきれねぇ」
アゼルは頭を抱えた。
ただ、ひとつの可能性について口にする。
「案外、一途で誠実……だったりしてな」
拾った金の指輪のこと。年季の入ったものだった。
尊大な男だが、"幸せになる未来しか許さない"なんて言うのだから。そう信じたい。
「そうだといいけど」
ウィルが答える。
アゼルは、遺跡に残された血の跡を思い返す。
「前にレイが言ってたな。限界を無視して命を繋ぎ止めようとする力。それが、あいつの中にある"留まる祈り"のことだと今なら分かる」
『恐らく――削れる。記憶と心が』
傷ついた記憶を忘れさせることで、留まらせる。
傷ついた心の痛みを削ぐことで、維持する。
『本人の意思も、痛みも、限界も無視して命を繋ぎ止めようとする……残酷な力だ』
だから、あの時のレイは手段を選ばなかった。
「イシルは、記憶と心が削れているかもしれない」
「じゃあ、この結晶……」
ナギが大事そうに抱く、透明なもの。
「可能性はある。守りの指輪が肩代わりして、砕けたとすれば……」
「取り戻せる、よね」
ウィルが確認するように、少しの鋭さを込めて。
アゼルは前を見据えたまま言う。
「絶対に」
ナギは、結晶を胸に抱き直した。
三人は、歩みを早めた。
――ルーナの地へ。
それぞれが、
違う覚悟を抱えたまま。




