第5話 食えない赤、揺らぐ赤
夜明け後の光が差し込む部屋。
ベッドに横たわるイシルは、眠っているだけのようで――どこか近寄りがたい静けさをまとっていた。
触れるだけで、透明な刃の緊張が肌を刺す。
整いすぎた容姿のせいではない。
意識の底に沈む"何か"が、本能の警戒を煽る。
遠慮がちに上着を捲って見えた範囲では――。
「嘘だろ、あんな叩きつけられて、こんな……痣ひとつないなんて」
傷は、驚くほど少ない。
むしろ、岩壁に叩きつけられたはずの衝撃の痕跡が、ほとんど"ない"。
見ていない部分を傷めている可能性はあるが、元からあった胸郭の包帯には触れられなかった。
ナギは溜息をつき、イシルの衣服を整えた。
ウィルも眉を寄せる。
「ていうか、この状態で生きてるのが変なんだけど」
額にかかる銀髪を払おうとしたそのとき――
イシルの瞼が微かに震え、赤い瞳が静かに開いた。
眠りから覚める動きではない。
反射で敵を睨んだ時の、鋭い開き方。
「イシル! 大丈――」
「触るな」
声は冷静だが、喉奥が震えていた。
押し殺しきれない拒絶が滲んでいる。
ウィルの手が空中で止まり、ナギも息を呑む。
イシルは起き上がり、ただシーツを強く握りしめて距離を作った。
その仕草すべてが、"誰も入ってくるな"と訴えている。
「生きててよかった、けど」
ナギは安堵の溜息をついた。言いたいことを呑み込んで、言い直した。
「まずは、助けてくれてありがとうな!」
その真っ直ぐで力強い瞳に、イシルは先程までの拒絶の色が薄くなる。
「でもさ、これだけは言わせてくれ。簡単に自分の命を差し出さないでくれよ。その体、特別かもしれねぇけど……」
この小言は耳に入っていないであろう顔で目を逸らしている。当然、返事はない。
それでも、命を救われたのは事実である以上、ナギは小言を止め、言葉を変えた。
「ところで、あんた、何者なんだ?」
イシルはナギの方を一瞥し、ほんの一瞬だけ言葉を探した気配。
唇が答えの形になりかけ――
――その時、木の扉が控えめに叩かれた。
◆
扉の向こうに立つ気配に、黒髪の青年は一度だけ静かに息を整えた。
誰が放ったのか。――本当に"在る"のか。
神でも魔法でもない、世界の真理に触れる光。
古い伝承にしか語られない光が。
軽く扉を叩く。
すぐに、内側の気配が動いた。
応じたのは、翡翠の瞳の青年――ナギが扉を開く。
「失礼。邪魔するよ」
黒髪の青年はそう言ってから、刃のような瞳を部屋の奥へ視線を走らせた。
――赤い瞳。
睫毛の奥に敵意だけが潜んでいた。
白銀の残滓を底に宿した赤。
熱ではなく、温度を失った焔のような色。
まるで、壊れ物を無理に立たせているような、危うすぎる均衡。
そして――美しい。
(ああ。これは、厄介だ)
それが第一印象だった。
性別のどちらにも収まらない整い方だった。
少年と呼ぶには線が細く、少女と断じるには鋭さがある。銀の髪が光を受けるたび、静かな煌めきがこぼれる。肌は血の気をほとんど感じさせず、雪の白ではなく"月の色"をしていた。
直感は静かに肯定していた――光の主だ、と。
ただ綺麗なのではない。
"人の姿をしているのに、人ではない何か"が持つ、美しさ。冷たい水面のような気配が全身から漂っている。
(無害そうな顔して、底だけは見えないタイプだな)
黒髪の青年は軽く顎を上げ、素っ気なく告げた。
「君達か? あの光の中にいたのは」
ナギが一瞬、言葉に詰まる。その問いに正直に答えていい相手か。
ウィルが反射で一歩前へ出る。まるで奥にいる者を隠すように立つ。
「光の中、とは? 何の用?」
あくまで柔らかい笑みと物腰で応じる。だが、紫水晶の瞳の奥には秘めた刃があった。
黒髪の青年は肩をすくめ、手にした小さな指輪を取り出した。
「警戒しなくていい。これを届けに来ただけだ」
指輪を軽く放る。イシルの手が、反射的にそれを掴んだ。その手の中で、指輪の文字に光が滲んだように見えた。
「俺のじゃない」
淡々とした声。抑揚がないのに、意志だけははっきりしている。
ナギは今更、自分の胸元から指輪が失くなっていることに気付いた。
「それ、俺のだ。落としてたのか、拾ってくれてありがとうな!」
落とし物を届けにきた青年に、屈託のない笑顔を向けるナギ。イシルは手を伸ばし、ナギの掌へとそれを渡した。
黒髪の青年は、ナギへ視線を移し、指輪に目を落とす。
(今、確かにあいつが触れた時に反応したように見えたが、持ち主は別……なのか)
「変わった意匠だ。その刻印――古神語に似てるが、違うな」
「親の形見なんだ。俺も読めない」
その紅蓮のような赤い瞳を、あえてゆっくりとイシルへ視線を戻した。
ほんの一瞬だけ、イシルの赤が、もう一つの赤と視線が交わる。
「君は、読めるか?」
ナギはもう一度、イシルに指輪を預けた。
促されたからというより、ただ単純に「知りたい」という切な願いだった。
指輪はまた応えるように、文字に光が流れる。その様を、今度はナギの翡翠の瞳も捉えていた。
「もし読めるなら、教えてほしい」
イシルは翡翠の瞳を見て、ひとつ溜息を落とすと、指輪を回し見る。
少しの沈黙の後、指輪をナギに差し出しながら答えた。
「――"愛する者へ"。それ以上は読めない」
イシルの赤とは異なる、闇を孕む赤い瞳が細まる。
(今の、一瞬は反応したな)
感情の名残に触れた時だけ、わずかに視線が上がった。先程まで誰も見ようとしなかったくせに。
「君は――」
「"届けに来た"だけ、だろ」
イシルは微かに目を伏せ、冷たく言い切る。
拒絶というより、壁だった。近づけば刃に触れるのが分かる境界線。
黒髪の青年はふっと笑う。挑発ではなく、興味を覚えた者の笑み。
「そうだ。届けに来ただけだ」
踵を返す。
だが、扉が閉まる直前に、わざと置いていく。
「またな。――スカーレットロード」
銀を宿した赤が、微かに揺れた。
ウィルの呼吸が止まり、ナギが意味を理解できず眉を寄せる。
イシルは溜息と共に、その目を伏せた。
濁りのない深く沈む赤の主は、満足げに歩き出した。
(伝説の名で呼んだ奴を無視できないはずだ。さて、どこまで転がるか)




