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第49話 忘却の平穏

 名を呼ばれなくてもいい。

 思い出されなくてもいい。


 湖畔の別邸で過ごす時間は、静かだった。


 サルディアの湖から流れ込む癒しの魔力が、邸宅そのものを包んでいる。

 風は柔らかく、光は強すぎない。


 イシルは窓辺に腰掛けて、外を眺めていた。


「綺麗だね」


 声が、穏やかに落ちる。

 記憶のないイシルは、素直すぎた。

 以前の彼を知っている者が聞けば、同じ口から出た言葉とは思えないほど、角がない。


「湖?」


「うん。それもだけど……ここは、落ち着く」


 イシルは振り返って、レイを見た。

 笑みは控えめで、どこか遠慮がちだ。


「貴方がいるから、かな」


 胸の奥が、軋んだ。


 名を呼ばれなくてもいい。

 選ばれなくてもいい。

 そう、決めたはずなのに。


「そう言ってもらえるなら、よかった」


 レイはそう返すのが精一杯だった。

 イシルは記憶を失っている。

 過去も、役割も、使命も知らない。

 それでも。


「ねえ、アルシェ」


 呼びかけは、まだぎこちない。

 名を口にするたび、少しだけ確かめるようだ。


「なに?」


「私……時々、変な感じがするんだ」


 イシルは胸元に手を当てる。


「何かを、しなきゃいけない気がして。でも、それが何なのか、全然わからない」


 レイは、答えなかった。答えられなかった。


 空を見ては、外に行きたがる。 湖を見ては、歩き出そうとする。

 曖昧な言葉。でも、確かに“向こう側”を見ている。

 イシルは立ち上がり、玄関の方へ歩き出した。


「外に出たら、少し分かる気がして」


 その一歩が、目に見えない壁に阻まれる。


「――あ」


 空気が、淡く光った。結界。

 イシルは瞬き、驚いたように手を伸ばす。


「これは?」


「イシル、待って」


 レイは、反射的に声を強めていた。


「今は、外に出ないで」


 一瞬の沈黙。

 イシルは、ゆっくり振り返る。


「ごめん。勝手なこと、しようとした?」


 責める色は、ない。

 ただ、困ったような表情。


 その顔を見た瞬間、

 レイの胸に、鈍い痛みが走った。


(違う。君を閉じ込めたいわけじゃない)


「……いや」


 レイは、息を整える。


「君を、止めたかっただけだ」


 少し、言葉が足りない。

 少し、強すぎた。


 それを一番理解しているのは、レイ自身だった。

 イシルは結界から手を離し、ゆっくり近づいてくる。


「ねえ」


 そっと、袖を掴まれた。


「アルシェ、さっきより……怖い顔してる」


 言われて、初めて気づく。


「そう、かな」


「うん」


 イシルは迷いなく、そう言った。


「悲しい顔もしてる」


 胸の奥が、崩れる。


「心配なんだ」


 レイは、正直に言った。


「君が、いなくなりそうで」


 それだけは、嘘じゃない。

 イシルは少し考えてから、首を振った。


「どこかに行くつもりは、ないよ」

「本当に?」

「うん。だって……」


 イシルは、胸に手を当てる。


「ここにいると、安心するから」


 その言葉が、どれほど残酷で、どれほど甘いか。

 レイは、そっとイシルを抱き寄せた。

 強くしすぎないように。けれど、離さないように。


「……ありがとう」


 囁きは、ほとんど自分に向けたものだった。

 記憶が戻らなくてもいい。選ばれなくてもいい。


 ――それでも、今は。


 この腕の中にいるイシルが、穏やかに息をしている。

 それだけで、少しだけ、世界を許してしまいそうになる自分がいた。


(ああ、駄目だな)


 独占欲は、まだ捨てきれていない。


 だからこそ、

 結界は、もう少しだけ――強く張り直された。


 静かな地獄の中で、確かに甘い時間は存在していた。


「ごめんね……」


 眠るイシルの銀髪を撫でながら、呟く。



 ◆



 強く張り直された結界。

 湖畔の空気が一段、張りつめる。


 レイは指先を下ろし、深く息を吐いた。


 魔力の流れは安定している。

 転移封じ。 探索阻害。 魂反応の検知。

 癒しの波動と干渉せず、侵入も転移も弾く。

 完璧に近い。


 それなのに。

 胸の奥が、ざらついたままだった。



 少し前。

 イシルは、扉に手をかけた。


「外、少し……」


 理由は、曖昧だった。

 湖が気になる、とも。

 空気を吸いたい、とも。


 けれど、レイには分かった。


 ――行かなければならない気がする。

 記憶を失っても、魂の奥に残る衝動。

 何かを果たさなければならない、という感覚。

 それが、彼を動かしている。


「待って」


 思わず、声が強くなった。

 イシルが振り返る。

 少し驚いた顔。


「だめ、なの?」


 責めるでもなく、疑うでもなく。

 ただ、確認するような声音。

 それが、余計に胸に刺さった。


「今は、外に出ちゃいけない」


 レイは一歩踏み出し、扉とイシルの間に立った。


「危険だ。君は……」


 言葉が、途中で詰まる。


 "君は壊れている"とは、言えなかった。

 "君の魂は今、不安定だ"とも。


 代わりに、強く言ってしまった。


「僕が、許さない」


 一瞬。

 イシルの瞳が、僅かに揺れた。


「……そっか」


 それだけだった。

 引き下がり、素直に手を下ろす。

 それ以上、何も言わない。


 ――それが、いちばん辛かった。



 結界を補強し終えたレイは、壁に背を預け、額に手を当てる。


「何やってるんだ、僕は……」


 守るため。

 失わせないため。

 分かっている。正しい判断だ。


 それでも。

 あの一瞬、イシルの自由を、力で押さえつけた。


 嘗て、自分が誰より嫌悪していたやり方で。


 名を呼ばれない部屋。

 けれど、足音が近づく。


「アルシェ?」


 控えめな声。振り向くと、イシルが立っていた。

 先ほどのことなど、引きずっていない顔で。


「さっきは、ごめん」


 レイは反射的に言った。


「え……? どうして?」

「強く言った……怖がらせた」


 言いかけて、言葉を選ぶ。

 イシルは少し考えてから、首を振った。


「怖くなかったよ。アルシェは真剣だっただけ」


 そう言って、近づいてくる。

 責めるでも、慰めるでもない。

 ただ、見たままを口にする。


「それに、心配してくれているのが分かるから」


 イシルは、レイの袖をつまむ。

 その仕草に、胸が詰まる。


「外に出たい気持ちは、あるけど」


 正直だ。


「でも、ここは……居心地がいい」


 小さく、微笑む。


「不思議だね」


 レイは、もう耐えられなかった。

 そっと、イシルを抱き寄せる。

 拒絶はない。驚きもない。

 ただ、素直に受け入れる体温。


「ありがとう……」


 何に対しての言葉か、自分でも分からない。

 記憶を失っても。名前を忘れても。選び直してもいないのに。それでも、ここにいてくれること。

 イシルは、レイの胸元に額を預けた。


「ねえ、アルシェ」


「……なに?」


「何も。何一つ、思い出せないんだ」


 レイは目を閉じる。


「無理に思い出さなくていい」

「でも」

「今は」


 レイは、静かに答えた。


「今は、休もう。一緒に、いよう」


 イシルは少し考えてから、頷いた。

 そのまま、身を委ねてくる。

 レイは、抱きしめる腕に、ほんの少し力を込めた。

 結界の内側でしか許されない、短い幸福だと知りながら。


 このまま、誰にも触れさせなければ。


 思い出さなければ、ここに留まる。


 そう、考えてしまった。 


 彼が穏やかに息をしていることを、自分の罪深さより、優先してしまう自分を。


 レイは、まだ赦せずにいた。



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