第48話 選ばせたかったもの
その時代、翼人の末裔は、人に近い姿をしていた。
翼を持つ者は、途絶えようとしていた。
僕達は、最後の翼だった。
背に大きな金色の翼。
世界の理を読む。
周囲から一線を引かれていた。
僕を理解できる者などいなかった。
黒い翼を背負った奴。
不吉だと忌まれていた。馬鹿馬鹿しい。
けど、だからあいつは、陰で武を磨き続けた。
その苦悩も努力も、見て知ってるだけだ。
別に、互いに理解しようとは思ってなかった。
僕達は、並び立った。
他の誰も、並べなかったから。
でも、そこにひとり。
翼のない奴が増えた。
いや。正確には、翼と呼べないほど小さくて。
――はは、何これ……可愛すぎる。
「触るな。くすぐったいだろ、レイ」
全ての色を携えた、淡く儚く、柔らかな羽。
怒りながらも、触れさせてくれるようになった頃。
僕は、誰よりも未来を望むようになっていた。
君が幸福の色で満たされる世界を。
"目覚めし魂の色を持つ者"。
祈りを受け、世界に応えるために選ばれた存在。
初めて会った時。それはそれは、酷いものだった。
族の決定で選ばれた守り手に対する、君の言い様といったら――。
「守護者? そんなもの、いらない」
「選ばれた? 従う必要ないだろ」
「君達は、自由に生きなよ」
「私が戦えるか?……いいよ。試してみる?」
そう言って君は、僕と手合わせしたよね。
君は外に出してもらえない立場の割に、どこで覚えたのか武術を心得ていたし、それで地に背をつくような僕ではなかったから。
――拒むなら、もっと強く拒んでみせてよ。
君は僕を押し退けられず、困って理の力を見せた。
あいつは、そんな君に剣を向けて止めた。
――僕達、決定に背く君を止めただけだからね?
――まぁ、その……組み伏せてごめんね?
まだあの時は、役目として見ていた。
僕達は、族に疎まれているのを知っていた。
早い話が目障りだったんだろう。特別な翼が。
君も――ひとつに留まれば狙われる存在だしね。
厄介者同士、仲良くやればいい。
それくらいの気持ちだった。
気づいた時には、落ちていた。
「ごめん。付き合わせた。今、癒やすから」
君の無茶に付き合って戦ったときのこと。
君は、誰かを守るためなら急に強くなる。
けれど、君自身の命の扱いが軽すぎる。
だから、ちょっと君を守っただけ。
そんな大した傷じゃない。
――やめろ。それ以上力を使ったら倒れるのは君だ。
「大丈夫」
そうやって君は笑う。
その優しさが、君自身を食い潰す。
放っておけば壊れる。
誰かが守らなきゃ消える。
危うくて、儚くて、綺麗すぎる。
そのくせ、誰よりも強く、真っ直ぐで、優しい。
違う。本当は、強さなんてひとつも持っていない。
ただ、折れながら立つ方法を知っているだけだ。
その姿が、僕は誰よりも美しいと思ってる。
他の誰にも預けられない。
この人の孤独を、僕だけが理解できる。
理解してしまったものを、手放せるはずがない。
「守る」が「失えない」に変わり、戻れなくなった。
君は自覚がないけど。
接触したときに、相手の"焦燥"を吸い取る。
落ち着く。呼吸が合う。雑音が、止むんだ。
僕も、あいつも。ただ三人でいた空の下が好きだった。
――ねぇ、君は、誰かの羽を休めるために生まれたの?
ただ、そこにいるだけで、世界の雑音が減る。
この静けさを作れる人間は他にいない。
君が生きているだけで、僕の世界は救われる。
本当は、未来を約束したかった。
告げたかった。想いを。
金色の指輪。
でも君は、誰も選ばない。
君自身の幸福を、選ばないから。
――選ばせたい。
けれど、遅かった。
「……守るために使うんじゃなかったのか。キリル」
イシルの望みのためではなく。
『私が再び道を誤るなら、迷わず切り捨てろ』
夜が、深かった。
湖畔の別宅には、音がない。風も、虫の音も、すべてが遠い。
レイは、寝台の脇に腰を下ろしたまま、イシルの手を離さずにいた。
治癒魔法は、もう回していない。
必要以上に触れれば、かえって壊すと知っている。
それでも――
確かめずには、いられなかった。
「少し、だけだ」
誰にともなく呟き、レイは、そっとイシルの胸元に手を置いた。心臓の鼓動を探すように。魂の位置を測るように。
魔力を、薄く、糸のように滑り込ませる。
――触れた瞬間。
「……そんな……」
息が、止まった。
拒絶ではない。痛みでもない。
空白だった。
そこにあるはずのものが、生を向いていない。
魂は、在る。
確かに、在る。
けれど――
(……違う)
レイの魔力は、癒しを司る。
壊れたものを"生きたい方向"へと導く力だ。
その力が、今――行き先を失っている。
治そうとした魔力が、留まろうとした結界が、どこにも繋がらない。
「戻る気が、ない……?」
言葉にした瞬間、胸の奥が、冷たく沈んだ。
これは衰弱じゃない。絶望でも、諦めでもない。
魂が、自ら――「終わり」へと向いている。
「嘘、だろ」
レイは、無意識に力を強めていた。
繋ぎ止める。引き留める。
だが――
魔力が、すり抜ける。
抗われているわけじゃない。拒まれてもいない。
ただ、応じられていない。
「イシル」
声が、震えた。
この状態で、生きていること自体が異常だ。
いや――生かされている。
神の欠片に、強引に。
――キリル。
あいつは、壊したんじゃない。
殺そうとしたわけでもない。
忘れさせようとした。
余計なものを削ぎ落とし、孤独へ戻し、それでも"続く使命"の場所へ押し戻そうとした。
(――だから、貫いた)
愛を。愛された記憶を。
終わりを望む魂を、繋ぎ止め、その名を呼ぶ声を。
――魂の消滅を、選べるように。
「ふざけるな……」
声は、低く掠れた。
理解できてしまうことが、何よりも腹立たしい。
あいつは、知っていた。イシルの奥底を。
レイは、知らなかった。
イシルが――消えたがっていたことを。
手が、わずかに震える。
それでも、離さなかった。
「それでも、だ」
消えたいからといって、消していい理由にはならない。選んだからといって、独りで背負わせていい理由にもならない。
「僕は……」
言葉が、続かない。
イシルは、眠ったままだ。何も答えない。
それでも――
レイは、指を絡め直した。
逃がさないように。ここに、縛り留めるように。
たとえ、真の願いが"終わり"でも。
今は、まだ。終わらせない。
「朝だよ、イシル」
「ねぇ、口吻したら起きる? ……いや、今のは忘れて」
「ここの夜は美しいよ。湖に星が映るんだ」
「ねぇ、嫌な顔でもいいから……」
「……旅は、楽しかった……かな……」
「ねぇ、イシル……」
「……ごめん」
声が、掠れた。
呼び続けなければ、いなくなる気がした。
いくつ夜を越えただろうか。
風が一度だけ鳴いた。
静けさの中で、微かな音がした。
それは呼吸の変化だったのか、 それとも、魂が水面に触れたときの揺らぎだったのか。
レイが顔を上げた、その瞬間。
イシルの睫毛が、震えた。
「――っ」
息を詰めるより先に、名を呼びそうになって、止まる。
瞼が、ゆっくりと開く。
白銀の瞳が、ぼんやりと天井を映していた。
「……あ……」
掠れた声。
それだけで、胸の奥が軋んだ。
「ああ……」
レイは、思わず息を吐いた。
「よかった……。目を、覚まさないかと」
声は震えなかった。 震えさせないように、抑え込んでいた。
イシルは、しばらく何も言わず、ただ瞬きを繰り返していた。 視線が定まらない。まるで、世界そのものを初めて見ているように。
やがて、ゆっくりと首を巡らせ、 最後に――レイを見た。
「あなたは?」
その一言で、理解してしまう。
忘れている。
分かっていた。 分かっていたはずなのに。
「僕のこと、覚えてない?」
分かっていて、聞いてしまった。
イシルは答えない。 金の瞳を、じっと見つめ返す。
知っている気がする。 大切だった気がする。
けれど、それが何なのかは、どこにもない。
答えが出ないまま、 レイは、さらに問いを重ねた。
「君の名は? 覚えてる?」
沈黙。
イシルの唇が、わずかに開いて、それでも、音にならなかった。
「…………」
レイは、ほんの一瞬だけ目を伏せ、 次の瞬間には、穏やかな声音で言った。
「イシル」
名を、置くように。
「君の名は、イシルだ」
「イシル……」
イシルは、その名をなぞるように繰り返す。
不思議そうに。 けれど、拒むことなく。
しばらくして、今度はイシルの方から問いが来た。
「あなたの、名は?」
胸の奥が、微かに痛んだ。
「僕は――」
あんな風に迷った目で見られて、名を問われて、答えられる名前など、もうどこにもない。
"レイ"と呼ばせる資格も、"守護者"と名乗る資格も、本当はとうに捨てているはずなのに。
胸の奥で、吸い込んだ息がゆっくりと震えた。
(本当に……なんて顔をするんだ)
初めて会う者に向ける顔ではない。知らない人間に向ける眼差しでもない。
怖がっているのに、縋るようでもあって、懐かしいのに、拒絶しようとしていて。
矛盾の全部が、レイの弱い部分だけを正確に抉ってくる。
レイは目を伏せ、それでも声はどうにか落ち着かせた。
「――アルシェ」
本当の名ではない。だが、嘘でもない。
「僕のことは……思い出せたらで、いい」
それでいい。 そうでなければならない。
イシルは、少し首を傾げて、 そのまま、そっと手を伸ばした。
指先が、レイの頬に触れる。
躊躇いもなく、ただ、触れてしまった手。
「悲しい顔、してる」
その言葉に、 胸の奥で何かが決壊した。
「……っ」
レイは、思わず瞠目した。
次の瞬間には、 考えるより先に、身体が動いていた。
イシルを抱き寄せる。
ただ、失うのが怖くて、 反射的に抱きしめただけの動作。
イシルは、驚いたように瞬きをして、 それでも、拒まなかった。
抱きしめられたまま、 小さく息を吐く。
「アルシェ」
名を、呼んだ。本当の名ではないけれど。
それだけで十分だった。
金色の瞳から、熱いものが落ちる。
泣いている自覚はなかった。けれど、止めることもできなかった。
「……ごめん」
何に対しての言葉かは、分からない。
それでも、イシルは何も言わず、ただ、そのまま抱かれていた。
まるで―― ここが、帰る場所だとでも言うように。




