第44話 日溜まりの中で
沈黙が、ほどける。
光が、ゆっくりと遠ざかる。
瞼は固く閉じられている。
震えが、抑えきれずに走る。
心が震えて、どうしようもなかった。
失わせてしまった翼。
不敵な男の、悲痛な声。
泣きたいのは、自分ではないはずなのに。
そう言い聞かせ、銀の理を集中する。
しかし、霧散していくだけだった。
もう一度、呼吸を整え、奥底から白銀を呼ぶ。
だが、消えていく。
「イシル。休もう」
聞こえたのは、ナギの声だった。
「まだ、続きがある。もう少し」
「泣いてるの?」
「……え?」
目の端が、僅かに。
ほんの僅かに、濡れていた。
ナギは無言でイシルの手首を掴むと、元来た道へと歩き出した。
「ナギ、まだ」
「戻ろう」
足取りは、安定していた。だから見守っていたウィル。
折れそうな心が、まだ立つのを静観していたアゼル。
迷わず手を伸ばしたナギの後を、二人は無言で後ろを歩いた。
(ナギが言うと、ずいぶん素直に聞くんだな)
アゼルはそんな事を考えていた。
ウィルはそっと、最後尾に移動する。
何かを感じ取ったわけではなく、ただ、そうする。
長い階段を上がると、地上はまだ日盛りだった。眩しくも穏やかな時間。
「まずは、ちゃんと飯食おう」
「そんな気分には……」
無理に手を引くわけでもなく、ゆっくりと歩む。
「大きくなれないぞ?」
「別に、いい」
「あっそう? 姫抱きしやすいから別にいいけどさ」
「………」
ナギも刺すことがあるのだ。
「本当に……無理だ」
挑発に乗らず、ずいぶんと大人しい反応だった。
「じゃあ、せめて水分だけはきちんと摂れよ」
「……わかった」
言葉に力があるとしたら、ナギのそれは優しく響くのだろう。
◆
古書室は、静かだった。
何か口にしやすいものを、とナギが厨房に走り、待ち時間に休まず足を運ぶ者がいた。
高窓から差し込む光が、埃の粒を淡く浮かび上がらせている。積み上げられた古書の山の向こうで、イシルは机に肘をつき、頁をめくっていた。
――休ませるために戻ったはずなのに。
アゼルは、入口の柱にもたれながら、その背中を眺めていた。
「……で。何読んでる」
問いかけは、雑だった。
イシルは珍しく視線を上げた。
「ルーナに伝わる、シルヴェルの伝承を見つけた」
「へぇ。ここにはあるんだな」
アゼルは片眉を上げる。
外界には伝わっていないと思っていたが、エムローデの古書室には、それがあった。
「ずいぶん限定的だな。今さら調べもんか?」
「違う」
即答だった。それが、逆に引っかかる。
アゼルは腕を組み、少しだけ近づく。
「休むために戻ったんだろ。昼寝でもしてろ」
「……そのつもりだった」
(いつもそのつもりで、できやしないな……)
アゼルは半ば呆れたが、声に出さなかった。
イシルは視線を落としたまま、ページを一枚めくる。
「少しだけ、気になった」
「何が?」
しばし、沈黙。歯切れが悪い。
「シルヴェルは、どう語られている?」
その問いに、アゼルは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……は?」
「読むのが、きつい」
アゼルは、口を開きかけて、閉じた。
そして、妙に素直な調子で答える。
「――それ、恋物語としての要素が濃いからな」
イシルの手が、止まった。
「お前、ちゃんと読んでないだろ。めくってるだけか」
「結果的に、そうなるな」
愛する。愛される。読むのが痛いか。
それとも、恋愛偏差値が地面にめり込んでいるから読めないのか。
「ったく。要所を話してやるよ」
アゼルは、わざと少し大げさに息を吐いた。
「二人の翼人と、シルヴェルとの出会いから始まる」
途絶えて久しい、伝承でしか語られない種族。
「後にルーナの始祖と呼ばれる賢者と、その対の存在として語られる剣聖。二人に加護を授けたとされる銀月姫シルヴェル。三人は、世界を巡る旅の中で、愛を育んでいった」
頁を閉じる音が、やけに大きく響いた。
「やっぱり、いい」
「早いな」
アゼルは思わず笑う。
「少しも耐えられねぇのかよ」
「……耐えられないわけじゃない」
イシルは視線を逸らす。
アゼルは、その横顔をじっと見た。
「――で」
声の調子が、少しだけ変わる。
「見たのか。二人の守護者」
イシルの指が、僅かに強張る。
肯定も否定もない沈黙。それだけで、十分だった。
アゼルは、低く言う。
「だから、そんな顔してたのか」
「顔はしていない」
「してた」
即答だった。
「そりゃ、読む気も失せるか」
イシルは、しばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「事実と、語り継がれる形は違う」
「当たり前だ」
アゼルは肩をすくめる。
「語り継ぐ側は、生き残ったやつだからな」
イシルの視線が、机に落ちる。
「少しだけ、確認したかった」
「何を」
「彼らは……幸せだったことになっているのか」
その言葉に、アゼルは何も返さなかった。
代わりに、ぽつりと言う。
「読んだ感想は?」
「……温かかった。でも、きっと違う」
淡々とした声。だが、どこか疲れていた。
「だから、もういい」
アゼルは、鼻で短く息を吐いた。
「無理すんな」
「していない」
「してる」
再び即答。
「昼飯、準備してくれてる。それ食ってから、昼寝だ。古書室は逃げねぇ」
イシルは、一瞬だけ迷うように視線を彷徨わせ――
「分かった……」
珍しく、素直に頷いた。
アゼルはその様子を見て、内心で小さく舌打ちする。
(大事だったんだろ……その二人)
知ってしまったものは、消えない。
だが――今は、進ませないほうがいい。
「続きは、またな」
そう言って、踵を返す。
その背に、イシルの小さな声が落ちた。
「アゼル」
「ん?」
「……ありがとう」
理由は、聞かなかった。
聞かなくても、分かる程度には――。
あの銀の理の揺れを、見てきた。
「気にすんな」
昼下がりの光だけが、静かに残った。
◆
古書室を出ると、廊下には昼の匂いが漂っていた。
石壁に反射する光は柔らかく、遺跡の冷たさが嘘のようだった。
四人のために姫が用意してくれた部屋。庭に面している窓からは、優しい光が入ってくる。
アゼルは椅子を引きながら、視線を巡らす。
「ナギは?」
「まだ厨房だよ。手伝ってるみたい」
ウィルの言葉通り、少し遅れてナギが現れた。
両手に、湯気の立つ器を抱えて。
「できた」
机に並べられたのは、淡い色のポタージュだった。
野菜の甘さに、果実の香りがほんのり混じる。
香草の刻み方まで、やけに丁寧だ。
「手、かけすぎだろ」
アゼルが呆れたように言う。
「これならいけるかと思って。飲んでみてよ」
ナギは短く答えるだけだったが、
その視線は、イシルの前に置かれた器から離れなかった。
ウィルは一口飲むと、目を瞬かせた。
「うん、美味いよ」
「だろ?」
アゼルも続いて飲み、即座に頷く。
「絶対飲め。これは義務だ」
「圧が、強いな」
そう言いながら、イシルは器に手を伸ばした。
温度を確かめるように、指先で縁に触れてから、ゆっくりと口に運ぶ。
喉を通る温かさが、胸の奥に落ちていく。
「ナギ」
「ん」
「ありがとう……」
ナギは一瞬だけ目を瞬かせ、それから、ほんの僅かに口元を緩めた。
「どういたしまして」
それだけだった。
食事の間、イシルはほとんど喋らなかった。
けれど、器は空になった。
ふと、向かいのウィルに目をやる。
いつもより瞬きが多く、目の下にうっすらと影がある。
「ウィル」
呼ばれて、彼は顔を上げた。
「休んだ方がいい」
「え?」
「ずっと、見張っていただろう」
ウィルは一瞬、言葉に詰まった。
「……気づいてたのか」
「気づく」
イシルは淡々と続ける。
「ありがとう。ウィル」
それは、労いであり、感謝であり、素直な言葉だった。
ウィルは、少しだけ困ったように笑った。
「イシルに言われると、休まない理由がなくなるな」
「脱走、しないから……」
「分かった。少し横になる」
ふと、ウィルの口元が綻んだ。
立ち上がる背中を見送りながら、イシルは視線を落とした。アゼルが椅子に深く腰掛け、腕を組む。
「で。昼寝は?」
沈黙。目を逸らしている。間が、怪しい。
「まさか、しないつもりか」
「……する」
アゼルは鼻で笑う。
「どうせ無理だろ。顔に出てる」
「努力はする」
「はいはい」
その言葉に、イシルは小さく息を吐いた。
――暫くして。
横になった、という事実だけが曖昧に残っている。
目を閉じたはずなのに、意識は沈まず、胸の奥で何かが軋み続けていた。
結局、イシルは静かに部屋を抜け出した。
足が向かった先は、決まっている。 古書室。
高窓からの光は、先程と同じような角度で差し込んでいた。 埃の粒が舞い、世界が止まっているように見える。
「やっぱり来たか」
声に、驚きはなかった。
入口近くの書架に寄りかかるようにして、アゼルがいた。 腕を組み、最初から“逃げてくる”と分かっていた顔だ。
「昼寝は?」
「できなかった」
「だろうな」
アゼルは短く笑い、視線を逸らす。
話したかったのだろう、続きを。
「──あいつ、言ってたな。二人の守護者のこと」
思えば、レイにしては語気が少し強かったこと。
「知らなければならない事だった」
頑なに知りたがらなかったイシルが、やけに素直で。こういう時は、打ちのめされている時だと、知ってしまったから。
「大事だったはずなのに……壊すだけだ、俺は」
それ以上、言わせたくなかった。
「イシル。眠れよ……寝かせてやっから」
アゼルはそっと、イシルの首筋に触る。
赤い魔力をこめて。
「ねむく……な……」
ゆっくりと瞼が閉じていくイシルを、そっと支えた。
「まぁ……これくらいなら、俺もやれる」
苦手な回復魔法の範疇でも、眠りに誘うくらいなら。加減は知らない。
――翌朝、アゼルは怒られた。




