第43話 祈りを拒む者
――汝、白き神よ。
罪を。
我が血に、我が魂に刻まれし罪を。
赦しを求めず、報いを願う。
世界に再生を。人に明日。
そのために、我は命を削る。
どうか、これ以上、祈りを要さぬ世界を。
――我が名はイシル。
祈りを拒む者。
◆
滅びの記憶が脳裏を焼く。
守りたいと思った瞬間に全部が壊れる。
愛しさを自覚した瞬間に永遠が狂う。
誰も守れなかった。
むしろ――自分が滅びの引き金だった。
終わりたかった。
生を選んだわけではなかった。
滅びを欲したのに。
与えられたのは、終わらぬ光。
傷を癒す光じゃない。
世界の形を作り直す光だ。
こんなもの、いらない。
いらないと思っていたのに。
二人は、言ってしまった。
「あなたの道に、僕達はついていく」
「あなたが嫌でも、離れる気はない」
イシルは、息をひとつ落とした。
拒絶しきれない理由がある。
拒絶する資格すら、無いとも思っていた。
ならばせめて、この二人は。
君達が、私と同じ終わりに巻き込まれないように。
「なら、せめてもの意地だ。受け取れ」
その翼には、淡く金色に輝く紋を。
それは力というより、圧倒的な光の印。
「お前が、私を止められるように」
その剣には、黒い光が滲む。
深い湖の底のような、終わりから始まりを読む色。
「私が再び道を誤るなら、迷わず切り捨てろ」
イシルに刃を向けられる唯一の特権。
イシルが暴走した時、彼を止められる力。
イシル自身の願いで与えられた “加護”。
「あなたを止めるためじゃなくて、あなたが孤独に戻らないように、僕は使う」
「この力は、あなたの望みのためじゃなく、あなたを守るために使うよ」
そんな風に受け取られる加護じゃないのに。
そんな風に愛される資格なんてないのに。
愛してしまった。
滅びの向こうに。
愛する者が、再び微笑む姿を夢見た。
そのとき、まだ誰も知らなかった。
この祈りの先に――滅びでも、再生でもない。
"灰"が生まれることを。
愛する者に、明日を。
愛する者が生きる世界に、光を。
私が消えても、
二人が生きていく世界を守りたかった。
私の全てを削ってでも。
祈りを封じる。
祈りが、再び誰かを滅ぼさぬように。
◆
光が、落ちていた。
空からではない。大地そのものが割れ、祈りの奔流が噴き上がるような光。
――封じなければ。
その中心に、否応なく、引き寄せられていく。
祈りの器としての、己。
分かたれた白き神は、願いを聞くことしかできない。
選別も、拒絶も、調整もできない。
拒むことも、選ぶこともできないまま、願いが溢れ、世界に干渉が始まる。
祈りそのものが、赤い瞳へと手を伸ばしてくる。
「離れろ!」
誰かの声が、焦りの熱を孕んで、空気を震わせた。
影がひとつ、光の奔流へ滑り込む。
腕が伸び、抱き寄せるように包む。
あたたかい体温。
羽根の匂い。
風を分ける感覚。
その全部が、すぐに軋み始めた。
光に触れた翼の縁が、
白く、音もなく焼けていく。
ふわり、と羽根が散る。
「お前……! そんなことをしたら──お前まで消えるぞ!!」
レイの叫びが、裂けるように響いた。
だが、光の中心にいる影は振り向きもしなかった。
ただ、イシルを抱く腕に力が込もる。
──護る、という構造だけが魂に焼き付くほど明確で。
光が一際強く脈打った瞬間。
片翼が、根元から音もなく断ち切られた。
温かい血が、掌に滴り落ちる感触だけが
現世でも覚えているほど鮮明。
「……キリル!! 翼が──ッ!!」
レイの声が割れ、空が泣いているみたいに揺れた。
なのに抱えている腕は、最後の瞬間まで離さなかった。
その姿勢のまま、世界が光に飲み込まれ──
記憶が途切れた。
◆
光が沈み、世界はひどく静かになっていた。
崩れた大地の縁に、片翼しか残っていないキリルが膝をついている。
折れた翼の根元から伝う血は、もうほとんど色を失いかけていた。
自分が誰に救われたのか。
抱きかかえられていたイシルは意識が朧で、ぼんやりと、光の向こうで揺れる影を見た。
──レイだ。
レイは無事だった。
しかし、その瞳には恐怖も怒りも、そして"自分自身への絶望"すら渦巻いていた。
「……どうしてだ、キリル」
掠れた声が、世界の割れ目のように冷たい。
「どうして……そこまでして、こいつを守った」
キリルは返事をしない。
返せる息が、ほとんど残っていなかったからだ。それでも、震える腕を伸ばしてイシルの背を支え続けていた。
その姿を見た瞬間、レイの胸の奥で、何かが決定的に軋んだ。
「僕が──僕が護ると言ったんだ……!」
声が震えた。
怒鳴りたいわけでも、責めたいわけでもない。
ただ、自分の存在が無力である事実が痛かった。
「なのに、お前は……どうして"自分の翼"を代わりに差し出したんだ……キリル……!」
キリルはゆっくりとレイを見る。
片方の翼を失ってなお、不思議なほど穏やかな目をしていた。
「おまえが護れるようになるまで、時間を稼いだだけだ」
「違うだろう!!」
レイの叫びは裂けていた。
「そんな言い方で、そんな顔で、全部を抱え込むなよ!」
しかしイシルの耳には、もう二人の声は遠すぎた。
自我がゆっくりと沈んでいく。意識が薄れる中で、イシルはふたりに向かって手を伸ばした。
名を呼ぼうとする。
呼びたい、と魂は叫んでいた。
けれど、声は出なかった。
──拒まれたのだ、と。
──もう、これ以上苦しませるな、と。
その沈黙を、それぞれが別の意味で受け取った。
イシルはただ、声の出し方を忘れただけだった。
その、あまりに単純なすれ違いが――。
三人の運命を、決めてしまった。
「イシル……」
キリルの声は、かろうじて宙に浮いた。
「……すまない。お前が願った安息を……俺たちは与えられなかった」
レイはきつく奥歯を噛みしめる。
「勝手に……勝手に終わらせるな。まだ、やれることがあったはずだ!」
だが、祈りの封印はもう終わっていた。
力を使いきったイシルは、どちらの腕にも身を預けることなく、軽い呼吸だけを残して意識を手放す。
キリルはイシルをそっと横たえ、レイに向き直る。
「頼む。これ以上は、お前がやれ」
「どうして……お前が言うんだ、そんなことを」
レイは震えた。
それは怒りではなく。
"置いていかれる"という直感だった。
キリルは微笑んだ。
痛むはずの顔なのに、不思議なほど優しかった。
「お前の方が、あいつの願いを叶えられる」
レイは、その表情の意味を理解できなかった。
体力の尽きたキリルは、崩れ始めた地面の裂け目へ背を向ける。
――ああ、この人はもう決めている。
レイは叫んだ。
「行くな──!! お前までいなくなったら……僕は……!」
キリルは立ち止まらず、ただ一言だけ落とした。
「……レイ。あいつを頼む」
裂け目が閉じ、光が遮られ、その姿は世界から消えた。
残されたレイは、イシルの名を何度呼んでも届かない現実の前にただ、膝を落とすしかなかった。
イシルは静かに眠り、二人の名を呼ぶことなく、願いのすべてを封じたまま。
想いだけは互いに届いていたのに。
最後の最後で、決して同じ場所に辿り着けなかった。
◆
祈りが封印され、取り残された後の静寂。
レイは膝をつき、腕の中に倒れ込むイシルの"軽さ"に、耐えられなかった。
「……イシル。聞こえるか……?」
返事はない。
ただ呼吸だけがかすかにある。
その呼吸を確かめた瞬間、レイの表情が崩れた。
怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ"安堵したことへの罪悪感"。
「僕は……護れなかった……」
震える声で、イシルの胸に耳を当て、小さく息を吐いた。
「まだ、生きてる。キリル……お前が守ったから……」
その言葉には、感謝と、悔しさと、羨望と、嫉妬が混ざりすぎていて、レイ自身もどれが本音かわからなかった。
立ち上がり、イシルを抱えたまま崩れた大地の縁へと歩き出す。
そこには神性の風穴が残った。何かで塞がなければ、再び世界を喰らう可能性があった。
イシルの力はその時すでに崩れ始め、十全な封印には使えなかった。
残された手段は、イシル自身の記憶と心を封じることだった。
――イシルを"空"にすれば、神性は動かない。
レイは自責に震えながらも、それが唯一の方法だと理解していた。
キリルが消え、イシルが壊れかけ、世界が崩れかけていたあの瞬間──レイは迷う暇もなく、黄金の翼で駆けた。
銀髪を優しく撫でる。金色の紋が、イシルを優しく包むように広がっていく。
イシルの瞳がゆっくりと開き、レイの瞳と交わる。
「イシル。忘れないで……愛してる」
透明に輝く結晶が、イシルの体から生じた。
それは砕け、瞬き、粒子となって舞いあがる。
まるで傷口でも癒すかのように、風穴を埋めていく。
「僕達がいたこと……忘れないで」
──記憶を、心を、捧げた。
イシルに触れられる、その加護で。
それによって生まれたのが、記憶の遺跡だった。
そこは、イシルの願いも、痛みも。
三人で過ごした時間も。
すべてが混ざり合って形になった“精神の墓所”。
"空"になったイシルは、その瞳を、永遠に閉ざした。
レイはイシルを抱えたまま崩折れた。
淡い金の瞳から、大粒の雫が止め処なく流れた。
「……置いて……いかないで……イシル」




