第39話 影へ降りる
エムローデ外縁南。
街の緑が途切れ、岩肌と古い森が入り混じる地帯だった。
崩落の危険があるという理由で、普段は立ち入りを禁じられている区域。
イシルは早朝からフィオリーシェに会い、皇家の許可を示す紋章を得て、禁止区域へと入った。
たった一度、偶然会っただけの縁は、後に光の巫子と稀血の出会いへと意味を変えた。
(――こんな形で利用するなんて)
禁止区域遺跡群――。
苔に覆われた石造りの残骸が、点在するように並んでいる。半ば崩れた石門。地に埋もれた円柱。地下へ続いていそうな裂け目。
だが、どれも決定打に欠ける。
(影の巫子が導くというのは、そういうことか……)
イシルは、ひとつ深く呼吸した。瞳が白銀に染まる。目を閉じ、意識を沈める。
魂に結びついた"留まる祈り"が、この地に眠るもう一つと呼応する。
白銀の粒子が、彼の感覚の内側に広がる。地の奥を流れる、微かな脈動を追って歩く。
(広い……けど、沈む先がある)
そこは、遺跡群の中心から外れた、一見して何もない場所。ただ、確かに流れが沈み、落ちていく。
――その瞬間。
左手の薬指が、微かに熱を帯びた。レイに強制的にはめられた指輪が、淡く光った。
(何故、これが反応する?)
ただの地面に見えた、その足元が淡く光る。それは、指輪とよく似た色を帯びて――。
「……っ!」
――落ちる。
視界は闇。足に地面らしきものが触れ、すぐさま崩れる。身体は平衡感覚を失い、叩きつけられる。
そのまま転がるように落ちていき、やがてまた、何かにぶつかり、止まった。
それが壁なのか、地面なのかも分からないまま、イシルの意識は遠のいていった。
◆
古書室には、まだ朝の光が斜めに差し込んでいるだけだった。
「……いないな」
ナギの声は低かった。
探すというより、事実を確認する響き。
「客室にも戻ってないよね」
ウィルが聞く。
「また寝ないで動いてんのかよ」
アゼルが短く呟く。
壁にもたれたまま、視線は動かない。
「古書室にいると思ったんだけどな」
ナギの声は、いつになく落ちていた。
「そろそろ、限界まで動く癖を直してほしい」
「……直らねぇだろ」
ウィルの言葉は淡々としていたが、棘があった。
対するアゼルの言い方も相応だった。
「昨日の夜さ。俺、イシルと話したんだ」
ナギが、ぽつりと切り出す。
アゼルの視線が、ゆっくり向く。
「どこで?」
「塔の上。道を探してたみたいだ。瞳が銀になっていた」
「道……?」
「"祈り"の場ってやつに繋がる道」
「あいつ……ひとりで探してるのか」
(道を探している……場所は掴んでるってことだろう。道を探す必要がある――ってことは、地下か?)
アゼルが逡巡する横で、ナギは続けた。
「その事で、影の系譜の……役目の話になった」
「"導く役目"ってやつ?」
ウィルにも身に覚えがあった。霊峰の番人として。もっとも、本人は導かれず勝手に行ったわけだが。
「そう。それは目的じゃないだろって言われたよ。確かに俺は、自分が何者か知りたかっただけだ。けど、本当は、もう一つ……師父の死だ」
ナギを庇って亡くなった師父。自分が狙われた理由。
「イシルが、自由になったせいだって」
「……は?」
「なんで」
苦笑いするナギ。
「"お前のせいじゃないだろ"って。俺、怒鳴っちまった」
アゼルが、低く唸る。
「それで?」
「頭冷やしに行った」
「……イシルが?」
「いや、俺」
「お前が、かよ……」
アゼルの溜息に、ウィルの溜息が重なる。
「まぁ、イシルは頭冷やしても変わらないでしょ」
ウィルは、いつになく刺々しい言葉を使う。
「あいつ、"俺が悪い"って言えば、話が終わると思ってる節があるからな」
はっきりとアゼルが断言する。
ウィルが、静かに言葉を継ぐ。
「自分が選んだとか、偶然だったとか、関係ない。原因の線が自分に触れた瞬間、全部引き取る」
ナギは、拳を握った。
「俺、否定したかった……」
ウィルは、きっぱりと言う。
「あの人は、"違う"って言われると、一度は止まるけど。次の瞬間、"それでも俺が悪い"に戻る」
ナギは、唇を噛む。
「ほんと、厄介な奴。自罰が癖になっている」
アゼルが吐き捨てる。
上を向くことができないまま、ナギは呟いた。
「だから、朝からいないのか?」
「さぁ。それが理由かどうかは分からないけど」
ウィルは、柔らかくも冷たくもない声で言った。
「少なくとも、ひとりで抱えようとしてるのは事実だ」
ウィルの紫水晶の瞳が、鋭くなる。
「さーて、戻ってきた時、何て言ってやろうかな」
「おー、怖」
アゼルが笑うと、ナギが呆れ半分な顔をした。
「それ、お前が言っちゃうの?」
「アゼルの方がいつも怖いでしょ」
「うるせぇ」
戻ると信じて――不安を隠すように。
◆
――冷たい。
それが、最初に戻ってきた感覚だった。
背中に伝わる感触は石だ。削られたままの硬さ。身体を動かそうとして、わずかな痛みが遅れて走る。
胸の奥が、軋むように重い。
「……」
声は、出なかった。肺に入る空気が重い。
イシルは、ゆっくりと目を開けた。
闇――ではない。
淡い光が、空間の輪郭だけを浮かび上がらせている。壁面に刻まれた古い文様。天井は高く、どこかで崩れた痕跡が見えた。だが、上へ続く裂け目はない。
(落ちた場所が、見えない)
上を見上げても、来たはずの裂け目は影に溶けていた。
イシルは立ち上ろうとして、足に力が入らない。
それでも、壁に手をつき、ひとつ呼吸を整えて踏み出す。
(歩ける――問題ない)
足元の石が僅かに音を立てた。反響が返ってくるまで、思ったよりも時間がかかる。
ふと、左手に違和感を覚える。
薬指。レイに嵌められた銀の指輪が、脈を打つように微かに熱を帯びていた。視界の端で、同じ色の光が、ゆっくりと揺れている。
それは、この場所そのものだった。
(同質……呼応している?)
その光がある奥へと歩みを進めると、途中から明らかに"造り"が変わった。淡く発光する石肌。 壁に刻まれた紋様は、文字のようにも見える。
胸の奥で、何かが微かに軋む。 鼓動とは違う。 もっと古く、もっと深い場所が、反応している。
最奥。円環状の遺構がある。石でも金属でもない。 光を反射しないのに、闇にも溶けない―― 形容しがたい素材。
その広間で行き止まりになっていた。だが、呼応するものはその先にある。この、淡く光る何かに阻まれている。
(封印されている。――それでも、試すしかない)
白銀の瞳に変化する。銀の理の発動。
その瞬間。まるで、呼び声に応えるかのように、床から壁へと文様が浮かび上がった。
それと同時に、指輪も呼応するように輝きを増す。
『いずれ知るから』
淡い金の瞳を思い出す。
(――だから、追わなかったのか)
視界が、ゆっくりと――自分のものではなくなっていく。
誰かの記憶の中に巻き込まれるような感覚に、イシルは瞳を閉じた。
胸の奥で、鈍い痛みが脈打つ。
それを無視するように、意識を沈めた。




