第37話 光と影の巫子
緑豊かな地、エムローデ皇国。
木々が、花々が目覚め始める朝。澄んだ空気の中に、それらが豊かに香る中、古書室に集まったのは、昨日と同じ四人だった。
今日は、フィオリーシェが朝の公務を終えた後に、話せる時間があるという。
イシルはすでに机に向かっている。 原文と羊皮紙は整えられ、書き込みも増えていた。
ナギは、神話原文を抱え込むようにして席につく。
ページを開く前から、眉間に皺が寄っていた。
「……なあ」
声に出す前から、考えは絡まっている。
イシルは筆を動かしたまま、続きを促した。
ナギは、該当箇所を指で押さえる。
「この神話さ。
『やがて、その祈りが痛みに変わったとき、
神はそれを三つに裂いた』
――この"痛み"って、何だ?」
「大厄災。魔霊が生まれ、世界が壊れた時のことだろう」
イシルが即答した。ナギは頷きかけて、止まる。
「そっか。ん、それは結果じゃなくて?」
「一般的には、そう解釈する説が多い」
ナギは釈然としないまま、問題の次の行を読む。
「俺さ、ここ引っかかるんだよな。
『滅びよ、そして再び祈れ。
再び祈れ、そして留まれ。
留まるとき、汝はわたしを離れるであろう』
――この、"留まるとき、汝はわたしを離れる"
……ここだ」
ウィルはナギの言わんとすることを汲み取った。
「ソラリアの言う、"神が離れたら器は死ぬ"って話と、噛み合わない?」
「そう! 留まるって、死ぬことじゃなくないか?」
ナギは原文を睨みつける。
「しかもさ、"私は汝を離れる"じゃない。『汝は私を離れる』だ」
言葉を反芻し、混乱が深まる。
「器の側が、神を離れる――それで、留まる? あー、わかんねぇ!」
イシルは、ようやく筆を止めた。
「"留まる"の主語が、どこに置かれているかだな」
「どういうことだ?」
「ただ、"留まれ"とだけある。何に、どこに留まるのかは、書かれていない」
イシルは、静かに言った。
「つまり……世界に、か?」
イシルは否定も肯定もしなかった。
ナギは唇を噛む。
(留まることと、死は同義じゃないと思う。――生き残ることを、前提にしている文章じゃないのか)
だが、では何が起きる。答えは、まだ見えない。
「で?」
低い声が割り込んだ。アゼルだった。
昨日の不調は消え、顔色も戻っている。 目は冴え、思考も回っている――厄介なほどに。
「お前は、どこまでやるつもりだ」
イシルは、その厄介な目を見ないで答えた。
「必要なところまで」
「……は?」
アゼルは片眉を上げる。
「"お前の旅を邪魔する気はない。選ぶのは、お前だ"、と言ったのはアゼルだ」
「言ったな」
「だから、邪魔しないでくれ」
空気が張りつめる。
ナギが口を挟もうとして、やめた。
アゼルは、目を細める。
「その言葉、都合よく使うなよ。俺は続きも言ったはずだ」
イシルが本を広げるすぐ横に、手をつく。
「"その上で、傍にいる"ってな」
イシルは黙ったまま、目を合わせない。
「選ぶのはお前でもな。俺が離れるかどうかは、別の話だ」
「……分かってる」
イシルは、少しだけ目を伏せた。
短い答えだった。だが、それ以上は譲らないという響きも、確かにあった。
アゼルは舌打ちし、椅子に腰を下ろす。
「分かってんのかよ、本当に……」
ナギは二人を見比べ、神話原文に視線を落とした。
その時――
古書室の扉を叩く音がした。
扉が静かに開き、白緑の衣が揺れた。
「お待たせしました」
フィオリーシェはそう言って、軽く一礼した。 公務を終えたばかりだというのに、疲れを感じさせない。
イシルはすぐに立ち上がる。 他の三人もそれに倣ったが、姫は手を振って制した。
「堅苦しい挨拶は、いりません」
その言葉に、アゼルは無言で腕を組んだ。イシルはそっと椅子を下げ、座るよう促すと、姫は微笑んだ。
「では、少しだけ。翻訳の件とは、別に。 エムローデ皇家として、お伝えすべきことがあります」
フィオリーシェは、指を重ねながら言った。
「この国には、古くから二つの巫女の系譜があります。 一つは"光の巫子"。もう一つは、"影の巫子"。光は、この国の象徴として豊穣を祈る、表の役割」
姫の視線が、静かにイシルへ向く。
「影は、祈りそのものを守る者。神話や伝承の"奥"にあるものを、隠し、繋ぐ役目です」
(皇家が表に立つ光なら、俺は――)
「……隠すために、存在する系譜」
「ええ。どちらの系譜も言霊……といいますか、言葉に力が宿りやすいと伝え聞きます。光の系譜は、詩歌としてそれを使いますが、影の系譜は、祈りを守るために使う、と。」
フィオリーシェは肯定した。
「影の系譜は、滅多に姿を現しません。本流が王家の前に出るのは、兆しがあった時だけ」
アゼルが顔を上げる。
「兆し?」
「はい。十八年前、一度だけ」
フィオリーシェは、少し言葉を選んだ。
「影の巫子の本流が、女皇――母の前に現れました。 そしてこう告げたそうです。セレスティス王国に、"祈りを宿す魂"――稀血が、生まれたと」
空気が、静かに張りつめる。
ナギは、無意識に指輪へ触れた。
「その魂の持ち主は、必ず稀血として生まれる。そして、この地を訪れた時―― 影へと、招かれる。この地の深くに連なる祈りの場へ」
イシルの赤い瞳が、わずかに細まる。
フィオリーシェは、静かに続けた。
「影の系譜には、その者がこの地を訪れたなら、祈りの場へと導く役目があります」
ナギの瞳が揺れる。
知りたいと願った、答え。
「じゃあ、あの外交は……」
イシルは静かに呟く。
姫は、少しだけ困ったように微笑んだ。
「今にして思えば、そうだったのかもしれません」
彼女は、視線を落とす。
「幼い日の私は、セレスティス王国との外交の意味を知らず、ただ、暇を持て余して秘密の庭に。そこで、赤い瞳の……貴方と出会ったのです」
偶然だった。
『お母様……!とても綺麗な子がいたのよ!』
『宝石みたいな白銀の瞳から、赤に……!』
幼かった姫は、嬉々として女皇に伝えた。
「それから、再び外交で赴くことはありませんでした。いえ、正確には、閉ざされたのです」
言外の意味は、誰にでも分かった。
隠されたのだ。その存在を。
フィオリーシェは、まっすぐにイシルを見る。
「ですから、 あなたがこの地を訪れたのは、偶然ではありません」
責める響きはなかった。 問い詰める意図もない。
ただ、事実として語られている。
「詳しい話は、母――女皇に謁見していただく必要があります」
姫は、静かに頭を下げた。
「エムローデ皇家として。光の系譜の者として。 お伝えできるのは、ここまでです」
沈黙の中で、イシルはゆっくりと息を吐いた。
「感謝します、殿下」
それは、いつもより少しだけ柔らかい声音だった。
フィオリーシェは微笑む。
「今宵、女皇にお取り次ぎします」
そう言って、立ち上がる。
扉へ向かいながら、姫は一度だけ振り返った。
「イシル」
赤い瞳に、空翠の瞳が向けられる。
「あの日の私は、ただのフィオで。あの日の貴方も、ただのイシル。それだけは、信じて」
その言葉を残し、フィオリーシェは古書室を去った。静寂だけが残った。
ナギは、言葉を発せなかった。
イシルもまた、何も言えなかった。
――出会いは偶然だった、はずなのに。
◆
宮殿最奥。女皇の謁見の間は、思っていたよりも静かだった。
高御座のエムローデ女皇イシドールは、年を重ねてなお背筋が伸び、 その眼差しは澄んでいる。
一行が頭を垂れると、女皇はゆっくりとナギへ視線を向けた。
「顔を、上げなさい」
ナギが従う。 その瞬間、女皇の瞳がわずかに揺れた。
「やはり。影の巫子の本流と、同じ髪、同じ瞳」
低い呟き。女皇の視線は、ナギの胸元へ移った。 銀鎖に通された、あの指輪。
女皇は、はっきりと頷いた。
「覚えています。 十八年前、私の前に現れた者も―― 同じように、その指輪を身につけていました」
ナギの指が、無意識に指輪へ触れる。
女皇の視線が、イシルへ向く。
「稀血の貴方が、その末裔を"影"の地へ届けた。あまりに、出来すぎていますね」
偶然ではない、と。 そう告げているようだった。
女皇の促しで、ナギは自身の来歴を語った。
東のアール大陸から来たこと。 両親の顔を知らないこと。 育ての親である師父が、自分を庇って亡くなったこと。
そして――今のこと。
「縁あって、イシルと出会いました。偶然だと思っていましたけど」
言葉が、少しだけ震えた。
「私にも、あなたのご両親が今どこにいるかは分かりません」
その声は、誠実だった。
「ですが、指輪を遺したということは、"自分の代では、役目を果たせない"と悟ったのかもしれません。だからこそ、"次"であるあなたに託した」
ナギは、唇を噛む。
期待していたわけではないが、もう――。
「影の本流が果たすべき役割は、稀血を影へと導くこと。その役割は、あなたによって継がれました」
その言葉は重く響いた。
――全部教えてくれなくても。
――黙っていることがあったとしても。
(なぁ、イシル。お前、どこまで知っていた……?)




