第34話 昔馴染の思惑
魔霊の残滓が完全に消え去ると、街道には静けさが戻った。
騎士隊長は剣を収め、深く頭を下げる。
「改めて礼を。我らはエムローデ皇国第一騎士団。姫君の御身を救っていただいた恩、決して忘れません」
その背後で、フィオリーシェは静かに一歩前へ出た。
「どうか、皆さまを宮殿へ招待させてください。恩人をこのまま見送るなど、エムローデの礼に反します」
ナギとウィルが顔を見合わせる。
「ま、そうなるよな」
「断る理由もないしね」
アゼルは肩をすくめた。
「……胃が痛くなりそうだぜ」
そんな中、イシルは一歩だけ前へ出て、静かに頭を下げる。
「恐れ入ります。ですが、私にも——殿下に、少しだけ、お願いしたいことがあります」
フィオリーシェは、驚いたように目を瞬かせたあと、やわらかく微笑んだ。
「ええ。……昔と同じですね、イシル」
その言葉に、イシルは僅かに視線を逸らす。
昔馴染み、という立場を使っている自覚があった。
けれど、それでも今は必要だった。
「話が早くて助かります」
フィオリーシェは一瞬、目を伏せる。
「あなたが理由もなく旅をしているとは思っていません。——ここへ立ち寄った目的があるのでしょう?」
イシルは短く息を吐き、頷いた。
「……はい」
記憶にあるのは、幼き日の面影。
交わした言葉は少なかった。
だが、互いに覚えていた。
馬車と馬。
皇族の馬車は大きかったが、それでも全員が同乗するには手狭だった。
馬車にはナギとウィル、アゼル。馬車の前で馬に二人で乗る、フィオリーシェとイシルという形になった。
アゼルが露骨に不満そうな顔をする。
「なんで俺が馬車で、イシルが姫と二人乗りなんだよ。普通、姫は馬車だろ」
「お前、体調万全じゃないだろ……」
誰のための気遣いだ、とナギが半眼になる。
「……それはそうだけどよ」
「いいじゃない。絵になるよ」
ウィルは微笑みながら、馬に跨る二人を眺めてた。
フィオリーシェは慣れた手つきで馬を操りながら、後ろのイシルへ視線を向ける。
「王家から解放されたと聞いていました。こうしてまた、お会いできる日がくるなんて」
「……ご心配を」
「いいえ。無事でいてくれたなら、それで」
それ以上、過去には触れなかった。
彼女は知っている——イシルが、語らない人間だということを。
宮殿の白い外壁が近づく頃、フィオリーシェはふと、馬車の方を見た。視線の先にいるのは、ナギ。
「あの方。瞳の色が……私と、よく似ていますね」
「そのことで、お願いがあります」
彼女は知っている――イシルが、甘やかな言葉を囁かない人間であることを。
だから、聞こえないくらい小さな溜息をついた。
「彼の持つ形見。古の譚詩を記す言語と、恐らく同一」
「よく……あれを覚えていましたね」
「殿下の歌声は、耳に残りますから」
ただの事実として語るそれは、彼女にとっては一匙の甘味だった。
「彼は、天涯孤独の身。――力になりたいのです」
イシルが、他者の傷みを拾う人間だということを。
彼女は知っていた。
◆
城門をくぐった瞬間、空気が変わった。
エムローデの宮殿は、白い石と淡い金の装飾が折り重なる、静謐な城だった。
長い年月を経てもなお、伝承と記録を大切に守ってきた国の気配が、壁の一つひとつに染み込んでいる。
魔霊襲撃の件を受け、四人は「恩人」として正式に迎え入れられた。
「エムローデ皇国へようこそ」
フィオリーシェはそう告げると、騎士たちに簡潔な指示を与えた。
その声音には、姫としての凛とした芯がある。
宮殿へ入ると、彼らはまず来賓用の応接間へ案内された。豊穣を祈る詩歌が額装される、静かな威厳のある空間だった。
ナギは銀鎖から指輪を外し、フィオリーシェの前に差し出す。
「これを、見てほしいんです」
フィオリーシェは白手袋を外し、丁寧に銀の指輪を受け取った。
「古い意匠ですね。……この文字は、確かに――」
指輪の内側に刻まれた、古い文字。
指輪を回しながら全文を見る。
「皇族に伝わる古の譚詩と、同じ文字が使用されていますね。間違いありません」
ナギの喉が鳴る。
「読めますか……?」
フィオリーシェは首を横に振った。
「すぐには。古詩の中でも、かなり古い形式です」
だが、彼女は迷いなく言った。
「古書室へ案内しましょう。時間はかかるかもしれませんが、必ず手がかりはあります」
フィオリーシェは微笑むと、古書室へと歩みを進めた。その後に四人は続く。
「本日は私の公務が詰まっています。ですが、恩人を無下にするわけにはいきません。古書室への立ち入りを、私の名で許可します」
「いいのか? じゃなくて……、いいんですか?」
丁寧に言い直すナギ。何者かも分からない自身のために、特別な古書室が開かれるのだ。
「ええ。エムローデでは、知を求める者を拒むことのほうが恥です」
イシルは、深く頭を下げた。
「感謝します、殿下」
姫は、ほんの少しだけ寂しげに微笑んだ。
「昔のように、名で……呼んでくださる?」
イシルは一瞬、言葉に詰まり——
「……フィオリーシェ」
名を呼ばれた空翠の瞳は、柔らかく光が解けた。
対する赤瞳の主は、少し困ったように眉尻を下げていた。




