第31話 止めるために
ヴェルリアを出発して三日目。
朝靄の残る山道を、四人は歩いていた。
常緑樹の林に、紅葉しはじめた落葉樹が彩りを添える。その美しさとは裏腹に、魔霊の影は濃い。
低山を越え、下りに差し掛かった辺りだった。
空気が、変わった。
冷える、とも違う。濁る、とも異なる。
まるで、月が作る影の中に落ちたような。
――ただ、音が遠くなったような感覚。
鼓動が一瞬、乱れた。
「来るな」
アゼルが足を止めた瞬間、地面が揺れた。土の割れ目から、黒い影が滲み出す。
魔霊。数は――多い。
「俺がやる」
アゼルが即座に魔法陣を展開する。赤い光刃が連なり、奔る。空間ごと押し潰すような制圧。
「右、一匹そっちにいく!」
ウィルの声。ナギがすでに動いていた。闘気を纏う拳で一閃、魔霊の核を正確に断つ。
「一匹くらい、問題ない!」
「無理しないで、アゼル。数が――」
ウィルの制止を遮るように、さらに地面が割れた。
魔霊が、増えている。稀血に引き寄せられる。
視線の端で、イシルを見る。後方。約束通り、下がっている。剣も抜いていない。
――稀血のイシルに向かっていく。
アゼルは小さく舌打ちし、さらに魔法を重ねた。
範囲を広げる。負荷が増す。それでも止める。
束ねた黒髪が、圧を増した魔力に揺れる。
(削らせない。俺が消耗する方が、まだいい)
だが、魔霊は減らない。
「アゼル、僕にもっと任せて! 少し手を抜いて!」
「分かってる」
息が荒くなる。
魔力制御に精彩を欠く。
否、過剰に抑制するから揺れる。
ひとつ誤れば、木々が焼ける。
ウィルの声が遠く感じる。
視界の端が、僅かに歪む。
その時。
「……二人とも」
イシルの声が、静かに落ちた。
振り向くと、イシルが一歩、前に出ている。
白銀の光が、指先に滲んでいた。
「これ以上は消耗しすぎる」
淡々とした判断。合理的で、正だ。
――だからこそ。
「やめろ!」
アゼルは、反射で叫んだ。
イシルが手が止まる。
「何故だ。効率は――」
「効率の話をしてんじゃねぇ!」
箍が外れたように、魔方陣から赤い魔力の風が吹き荒れ、一息に魔霊を吹き飛ばす。
手を振り抜くと同時に、魔力が刃に変換される。
狙いは――。
(止める。傷つけてでも。今、止めなければ)
一気に距離を詰め、刺突を放つ。
――だが。
刃は、途中で止まった。
魔剣の切先は、紙一重で当たらなかった。
それは、イシルに向いていた。
「……っ」
アゼル自身が、驚いた。
魔剣が霧散する。
止めたのは、理性か。恐れか。
それとも――
「アゼル……?」
イシルの声。
透明な赤が、紅蓮に染まる瞳を見据えていた。
その一瞬の隙に、ウィルの双剣が、舞うように魔霊を沈め、ナギの一撃が残りを薙ぎ払った。
魔霊は、霧のように消える。
静寂。
荒い呼吸の中で、アゼルは拳を握りしめた。
手の震えを隠すように。
(今のは、何だ。躊躇ったのか、俺は)
イシルは何も咎めず、話題でもすり替えるように切り出した。
「もう充分休ませてもらったから、次は俺も――」
「次はねぇ」
アゼルは、短く遮った。
「お前は後ろだ。戦わせない」
一瞬の沈黙。イシルは何も言わず、下がった。
歩き出してからも、アゼルの胸の奥に、違和感が残り続けていた。
――止まった刃。
(気のせい、じゃねぇな)
だが、理由は分からない。確証もない。
霞んでいるのは、何か。
ただ一つ、確かなのは。
次は、同じ状況を許さない。
アゼルは、無言で拳を握り直した。
密かにウィルは、ナギに目配せする。
ナギもまた、その目線を受け止め、先の出来事には触れずにアゼルに声をかけた。
「あそこ、小さな光の遺構がある。休憩しよう」
進行と休憩はナギが判断する、という約束だった。
誰もその判断に異を唱えなかった。
魔霊のほとんどを、アゼルとウィルで倒している。
消耗が激しい。
ナギの言った通り、そこには古い遺跡のような崩れた建造物に、小さな光の遺構があった。
ルーベルの旅路の跡は、ここ山道にも在った。旅人達の命綱ともいえる、魔霊を退ける安息場。
イシルとナギは、殆ど疲れは見えない。
ウィルは大いに双剣で薙ぎ払っていたものの、疲労感は強くなかった。
ソラリアの体力は常人を超えるが、それ以上に、消耗しない戦い方を心得ていた。
――問題はアゼル。
広範囲殲滅を得意とする故に、頼りがちになる。イシルに無茶をさせないためには尚更だった。
ナギは、それでも拭えない違和感を口に出した。
「アゼル? どうした。朝から様子が変だぞ」
アゼルは返答までに、僅かな間を要した。
普段なら冗談の一つも貶しの一つも挟むのに、太陽に背を向けるように黙り込み、前だけを見つめている。
「何でもねぇよ」
声音はいつもの皮肉にも豪胆にもならず、乾いた石のように掠れていた。
ウィルも歩みを止め、アゼルの横顔を覗き込む。
「本当に? 君が静かだと逆に怖いよ」
指摘はしない。
確かに、イシルになるべく力を使わせないための陣形。だが、"必要なら"イシルも戦う。そういう約束だったはずだ。
アゼルは明らかに、いつもより精彩を欠いていた。
そして、いつもの冷静さも。
「黙ってりゃ黙ってるで、うるせぇな」
ウィルの紫水晶の瞳が、観察するように一瞬細まるが、すぐに離れた。
「まぁ、そんな日もあるよね」
目は、そう言ってなかった。
イシルは何も言わず、ただその様子を見ていた。
(……キリルはもう、俺を捕捉している。それでも、俺が手を出してしまったら、アゼルは――)
何のために、無理して戦っているのか。それを汲むならば、手を出すべきではない。
(――ついてくるなら、守ると決めたのは俺だ)
「さて、と。昼飯にはまだ早いな。どうする、もう少し進んでおくか?」
重くなった空気を割るナギ。
「ああ、進もう」
静かだったアゼルが即答した。
ほんの少しだけ、ウィルが前を行く。ナギは、いつもより少しだけ、アゼルを気遣う目を向けた。
そしてイシルは、そっと剣の柄に触れながら、ゆっくりと最後尾を歩いた。
丘を二つ越えた先。風が強く、視界の悪い谷間。
気配に、アゼルが即座に反応する。
「止まれ」
声が低い。鋭いというより、硬い。
地面が波打つように歪み、魔霊が現れる。
「……またか」
ウィルが息を詰める。理由は分かっている。稀血だ。だからこそ、陣形は事前に決めていた。
「アゼル、さっきみたいな無理は――」
「俺がやる……下がってろ!」
アゼルが、被せるように叫んだ。
一瞬の間。 空気が、ぎくりと歪む。
「……アゼル?」
ナギが名を呼ぶ。アゼルは返さない。
魔法陣が展開される。
速い。だが、荒い。
「――散れ」
制圧魔法が叩き込まれ、魔霊が圧殺されるように霧散する。だが、次の瞬間、別方向から湧いた。
「左、抜ける!」
ウィルの警告。ナギが迎撃に入るが、完全には止めきれない。 一体、進路を変える――イシルの方へ。
「チッ――!」
アゼルの視線が、即座にそちらへ向いた。
(――イシルを戦わせるものか)
だか、イシルが一歩、前に出た。
剣を抜きかけ――
「動くな!!」
怒号だった。
三人とも、凍りつく。
アゼル自身も、驚いた。喉の奥が、ひりつく。
(違う……)
こんな言い方を、するつもりじゃなかった。
だが、止まらない。
頭の奥で、何かが囁く。
――今だ。
――止めろ。
――今度こそ。
「銀の理は使うな!」
アゼルは、詰め寄る。距離を潰す。
「俺がやる!」
「無理だ、今の数は」
イシルの声は、冷静だった。
だからこそ、苛立ちが走る。
「無理でも、やらせねぇ!」
魔霊が迫る。距離が近い。
今度は、躊躇が薄い。狙いも、明確だ。
魔力を掌に集め、振り抜く。
展開しかけた術式が、無意識のうちに――イシルを捉えていた。
――止めるためだ。
傷つけるためじゃない。
今、動かせなくなればいい。
だから――
「アゼル」
名を呼ばれた。
同時に、手首を掴まれる。
力は強くない。だが、そこで止まった。
ただ、名を呼んで、触れている。
(――イシル?)
頭の奥で、何かが軋んだ。
怒りでも、衝動でもない。
(違う――これは俺の意思じゃない)
刃が、止まる。今度は、完全に。
次の瞬間、視界が反転した。
「……っ、が……」
激痛。
頭の奥を、杭で打ち抜かれるような痛み。
崩折れるアゼルを、イシルが受け止めた。
ナギが即座に周囲を確認し、二人の安全を確保する。
残った魔霊をウィルが仕留める。
戦闘は、終わった。
アゼルは、頭を押さえたまま、荒く息をつく。
拳が白くなるほど強く握られ、血管の奥で、何かが異物のように脈打っている。
自分の鼓動ではない。
「っ……は、……っ……今の…………何した……」
その問いに答えるように、誰かの声が風の奥で響く。
――できない。
そう"分からされた"気がした。
遠ざかっていた音が、急に押し寄せてくる。
ただ、本来の明度に戻ったように。
アゼルの意識がふっと途切れ、イシルの腕の中に沈む。
「アゼル……」
イシルがそっと支えた時、森の奥で、誰かの影が霧散した。
(――どうして、こんなこと……キリル)
キリルの確信が、影の底で静かに深化した。
(止められないなら、意味はない)
『お前が、私を止められるように』
『私が再び道を誤るなら、迷わず切り捨てろ』
たとえ、止められる力があったとしても。
イシルに刃を向けられないなら――
(――できないなら、価値はない)
風の奥、影が霧散するように薄れた。
イシルだけが、その声を追った。
だが見つけられない。
「イシル。お前は"再び願うの祈り"へ来る」
まるで、当たり前の未来を告げるように。
「俺が迎えに行く」
それは声ではなく、判断の残滓のように、風に溶けた。




