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第3話 白銀の閃光

 夜明け前の光はまだ弱く、山の影は深い。

 その影の中を、イシルはただひたすら歩いた。

 いや――滑るように進んだ。


 ウィルは、といえば。


(ほんとに休まないんだ、この人)


 昨夜から走り、登り、戦い、追いかけ続けて、さすがのソラリアの脚でも軋み始めている。

 それでもイシルの背は一定の速度で遠ざかろうとし、その度にウィルは歯を食いしばって距離を詰めた。


「どこまで行くのさ」

「ヘイロ・リスまでは、休む理由がない」

「理由あるよ!?人間の体力って概念がね!」


 イシルは無表情のまま横目を寄越す。

 赤い瞳は夜明けの光を微かに帯び、冷えた反射を返した。


「休みたいなら休め。俺は行く」

「置いてくつもりじゃん、それ!!」

「ついてくると言ったのは、お前だ」


 淡々と言われると反論が消える。


(いやもう絶対、振り切る気だよこの人……)


 泣きたい気持ちを脚力に変換し、ウィルはひたすら追った。

 森は深まり、空気は湿りを帯び、わずかに街道の匂いがする。


(街に入れば、さすがに休める……よね? ね?)


 その期待が胸に灯りかけた、その瞬間だった。


 ――空気が、ざらりと逆立つ。


 イシルが立ち止まる。

 ウィルも反射で双剣の柄に手を伸ばした。


「魔霊……」


 いつもより低い声。

 その気配は、ただの魔霊のものではなかった。


 焦げた匂い。

 金属がひしゃげる音。

 魔霊特有の、皮膚の裏をなぞるような寒気が風に混ざる。


 嫌な感じがする――そう思った瞬間。


 隣にいたはずの青年が、音を残さず前へと"消えた"。


「はあ!? ちょっと、待ってよ!」


 反射で駆け出す。

 夜明けの薄光の中で、赤い瞳だけが残像のように揺れていた。

 足跡もない。気配もない。ただ風と同じ速度で前へと進んだ。


 ――あれが、“スカーレットロード”。

 いや、呼ぶなって言われたんだった。

 でも、脳が勝手にそう結びついてしまう。


 木々を抜けた瞬間、視界がぱっと開く。


 街道。横倒しの荷馬車。転がる樽。泣き叫ぶ子ども。動けない大人。

 その中心に、"異形"がいた。


 魔霊。だが、山中のそれとは濃度も形も違う。

 ざらついた闇がひっきりなしに捩じれ、飢えそのものが形を取ったようだった。

 そして、魔霊の意識が、異様な速さで一方向へねじ曲がる。


 ――数が多い。イシルに向かっていく。


 彼が踏み出した瞬間、まるで重力の中心が生まれたかのように、魔霊が吸い寄せられる。

 殺意の軌道がすべて彼一点に集中する。


(ほんとに、"引きつける"んだな)


 伝説級の稀血は魔の灯火――。

 ウィルが断片的にだけ知る"忌まれた事実"が、目の前で証明される。

 イシルは前を見据えたまま、短く告げた。

 彼の背後には、魔霊に怯えた人々の姿。


「避難を」


 ただそれだけ。

 全部を、自分ひとりで背負う前提の声だった。


「任せろ!」


 返事は思考より先に喉から出る。


 ウィルは振り返り、人々のほうへ走った。

 背後でイシルが魔霊の群れに踏み込む音――いや、空気が割れる気配がした。


 振り返れない。だが、分かる。


 また魔霊が死んだ。光の粒になって散った。

 普通は煤や残骸が残るのに、イシルの周囲ではすべてが透明に還る。


(あの数を、ひとりで戦うつもりなんだ)


 無茶と分かっていても、今すべきは逃がすこと。人が残っていては枷になることを、ウィルは理解していた。街まであと少し――退路を開く者が必要だ。


「こっち! 街まで走って! 動ける人は子どもを抱えて!」


 双剣を構え、迫る魔霊を斬る。

 叫び、導きながらも、背中が焼けるほどイシルの気配を感じている。イシルはひとり、群れの中心に向かって歩く。


 魔霊の金切り声だけが街道に残り、イシルの赤い瞳は灼けるように細められた。

 その一歩は、もう常人には追えない。

 黒い影が裂かれるたび、白銀の光の粒が舞う。まるで何かの祈りが還元されていくように。


(普通じゃない。こんな散り方)


「イシル……!」


 遠くから呼んでも届かない。ウィルはその背中を見つめながら、はっきり悟った。


(ああ――ダメだ。この人、退く気がない。ひとりで全て、片をつける気だ)


「イシル!!」


 叫びながら、ウィルは駆けた。


 そのとき――魔霊の奥の闇が、不自然に脈打つ。

 見えない"何か"が、さらに集まってきている。


 次の瞬間、山道の向こうで、別の足音が駆け下りてくる音――戦場に乱入する、別の気配があった。



 ◆



 幼かった日。創世詩の話をしていた最中だった。


『なんで神様は、三つの祈りなんて遺して消えたんだろう。……もう、戻らないから?』

『――愛していたから、遺していったんだと思うぞ』


 けれど、師父は子へと遺された指輪を見て、そう言った。当て付けのように言ったのを見抜かれていた。

 その優しい眼差しを、まだ忘れていない。

  

 瞼の裏に浮かぶ、今は亡き師父の言葉。

 浅い夢でも見ていたかのように、翡翠の瞳をゆっくりと開く。その胸元には、革紐に通された古い銀の指輪が冷たい光を帯びていた。


(師父。俺、ちゃんと強くなれているか?)


 山の朝は、痛いほど澄んでいた。ただ冷たい山気が胸に流れ込み、傷跡のように深く沁みた。

 ルオラン山――風が祈る山。その聖域の空気は、どこか神殿に似ている。

 

 墓前に供えた白い山花が、風にやさしく揺れた。


「——そろそろ戻るか」


 立ち上がりかけた、その瞬間だった。


 風が裂けた。空気が軋み、金属を捻りつぶすような魔霊特有の咆哮が、斜面の下から一斉に押し寄せる。


「誰か、魔霊を狩ってる?」


 見晴らしのよい山道から街道を見下ろすと、裾野の方で黒い靄のようなものが蠢いている。


「何だよ、あれ……本当に魔霊か?」

 

 呟いたその時、瞬くような白銀の光を見た。

 剣が閃くような、その光の筋は――。


「嘘だろ、ひとりで戦ってるのか!」


 魔霊相手に単独戦闘など常軌を逸している。

 だが気配は確かに"ひとり"。

 しかも、迎え撃つ気配は異様なほど研ぎ澄まれていた。

 青年は石段を駆け下りる。

 暗金色の髪が揺れ、翡翠の瞳に山気が映る。鍛えられた体躯は、裾野へと一気に下り着いた。

 街道へ飛び込んだとき、それは光景というより、幻の斬撃の連なりだった。


 銀髪の剣士が、数体の魔霊を相手に“重力を否定するような軌跡”で斬り裂いている。

 音が追いつかない。魔霊のほうが怯えているようにすら見えた。その怯えが仲間を呼び、さらに黒い靄が集まる。


「おい、危ねえよ、あんた!!」


 叫んでいた。体が先に動いた。

 全身から清廉な気を漲らせ、重い蹴りを繰り出して魔霊を吹き飛ばす。鍛えられた靭やかな身体が武を舞う。


 剣士が青年を一瞥する。冷えた宝石のような赤い瞳——なのに、どこか壊れた光が底に揺れる。


「下がれ。巻き込まれる」


 命令とも警告ともつかない、短い声。だが、青年は一歩も退かなかった。半身の姿勢で重心を少し前に構えた。


「下がれって言われて下がれるかよ! オレはナギ! お前は!?」


 赤い瞳が、僅かに細くなる。拒絶か、迷いか、そのどちらでもない感情が一瞬だけ浮かぶ。

 次の瞬間には、もう魔霊の群れを切り払っていた。

 振り返らずに、言葉だけが落ちる。


「イシル、だ」


 その名乗りは、ひどく不器用だった。


 だが――魔霊たちの咆哮が変質する。

 互いの体を喰らい合い、黒核が繋がり、肉塊が膨張していく。


「これ、やべぇな……逃げろ!」


 ナギの声より先に、イシルが動いた。

 巨大化した触腕が振り上がり――振り下ろされる。


 イシルは手を伸ばし、ナギを抱き寄せる。盾のように、覆うように。

 衝撃が世界を裏返す。

 二人まとめて吹き飛ばされ、迫る岩壁を前にイシルは身を捻り、背中から叩きつけられた。


「っ……!」


 ナギは目を見開いた。


「なん、で……庇うんだよッ!」


 岩に叩きつけられた衝撃で、イシルは問いかけに応えられないでいた。意識が遠のいていく。


(くそ! 逃げなきゃ……でも、こいつ置いてったら死ぬ)


 胸の奥が灼けるように痛む。

 師父が自分を庇って倒れた日の痛み。


 ——俺を庇って死ぬなんて、そんなの絶対駄目だ。


 魔霊の黒い腕が、二人を掴もうと手を広げた瞬間、反射的にナギは揚げ受けで跳ね返した。

 払われた腕が霧散するように解けた隙に、ナギはイシルを抱え上げて走り出した。


(今の、"消えた"。――いや、違う)


 薄れゆく視界の中で、赤い瞳はそれを捉えていた。


「イシル、生きろよ!!」


 ――イシル、生きて。



 意識が沈みかけた中、懐かしい"気配"に感覚が呼び覚まされる。


 巨大化魔霊の影が迫る。

 まるで獣のような四足で這いながら追ってくる。


 触腕が振り下ろされ――その瞬間。


 腕の中のイシルが、わずかに指を動かした。


「っ……!」


 薄く開いた赤い瞳が、すぐ間近で揺れた。

 そこに宿る、壊れた星のような白銀の閃光。

 イシルの手が、ナギの肩越しに魔霊へと向けられる。

 大気が震えた。

 白銀の奔流が、山肌ごと世界を照らす。


 音にもならない理の咆哮。

 魔霊は悲鳴をあげる暇もなく、光の粉となって霧散した。光が、溢れる。魔霊が次々と光へ溶け落ちていく。


 そして——イシルの身体から力が抜けた。


「おいっ! おい!!」


 腕の中で、イシルは完全に意識を失った。

 静寂が戻ったはずなのに、山の空気はさっきよりずっと異質に澄んでいた。

 ナギは息を震わせ、胸の指輪が微かに音を立てる。

 その刻印が白銀の光を吸ったように煌めいて――。


(こいつ、何者なんだ)


 イシルを抱いたまま、燃えるような光の余韻を、ただ見つめていた。



 ◆



 寄る足音が、街道に乾いた砂を跳ねさせる。

 振り返ると、若草色の長髪の青年が険しい顔で駆け寄ってくる。


「イシル!!」


 ナギは息を荒げながら叫ぶ。


「君、この人の知り合いか!? 説明はあとだ! 街まで運ばせてくれ!」


 自分の腕の中に収まっているのは、自分よりもずっと華奢で、冷たいほどに整った顔立ちの、人間。


「分かった!」


 震えているのはむしろナギの方だった。

 加勢したつもりが、逆に守られた。自分を庇って、平然と傷ついて。


 圧倒的な殲滅。人の業ではない。

 それを、この壊れそうなほど細い身体のどこに隠していたのか。


 放たれた白銀の残滓が、まだ空気の中で光の粒子となって淡く尾を引いている。


「これが、スカーレットロードの力?」


 ウィルの呟きは、夜明けの青に溶けていく。


 三人は明けゆく街道を、ヘイロ・リスへと急いだ。

 その先には、静かすぎるほどの沈黙が待っていた。


 

 ――その白銀の閃光が、何を呼んだか。



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