第28話 温もりを抱いて
迎賓館の扉は、還光祭の喧騒を遮る。
まだ遠くに、人々の笑い声と音楽の名残があるだけで、ここには夜の静けさが戻っている。
ランプの灯が、柔らかく壁を照らしていた。
暖炉には既に火が入り、薪が爆ぜる音が心地良い。
「冷えたな」
ナギがそう言って、外套を脱ぎながら台所の方へ向かった。
しばらくして、甘く、香辛料の効いた匂いが漂ってくる。
「それは?」
イシルが呟くと、ナギは振り返って笑った。
「温葡萄酒だよ。香辛料が少し入ってる」
カップに注ぎ、それから輪切りの柑橘を一つ。
「夜市では我慢させちゃったしな。温まるし、飲んだほうが眠りに入りやすいだろ?」
言い方は軽い。
けれど、夜市で言われた理由とは、明らかに違っていた。ナギは目の前に杯を差し出した。
「……俺の?」
一拍置いて、そう聞いた。
「もちろん」
即答だった。
アゼルは何も言わず、椅子に腰掛けたままイシルを見ている。
反対もしないが、促しもしない視線。
「無理なら、残せばいい」
短く、それだけ。
ウィルはカップを手に取り、少し考えてから言った。
「香辛料強いから、量は控えめにしようか」
「体、温まれば十分でしょ」
誰も、止めなかった。
誰も、理由を重ねなかった。
――飲んでいい。
それだけのことが、思った以上に判断を要した。
甘美で、甘やかな香りが立つ。
カップに揺らぐ湯気を、しばらく見つめていた。
「じゃあ、少しだけ」
手に伝わる熱が、じんわりと指先に染みた。
ひと口。
甘さの奥に、葡萄酒の深みと、香辛料の刺激。
喉を通ると、胸の奥にまで温かさが落ちていく。
「……美味しい」
淡く漏れた声に、ナギが満足そうに口角を上げた。
「こういう飲み方も、いいだろ」
それ以上、誰も何も言わない。
薪が爆ぜる音と、カップを置く微かな音だけが部屋に残る。
身体が、少しずつ緩んでいくのが分かった。
思考の角が丸くなり、さっきまで胸の奥に沈んでいた重さが、底に落ち着いていく。
イシルは背もたれに体重を預け、カップを両手で包んだ。
とろけて潤んだ赤い瞳は、宝石じみた光を宿す。
瞼が、自然と重くなる。
「眠くなってきた?」
ナギの声が、遠い。
「少し」
頬が色づく。
それだけ答えるのが、精一杯だった。
「ほらな」
どこかで、誰かが小さく笑った気がした。
暖炉の火が揺れ、ランプの灯りが瞬く。
外で、花火の残響が一度だけ、低く響いた。
イシルは、その音を聞きながら、目を閉じた。
沈むでもなく、落ちていく、でもない。
ただ――温かさの中に、身を預ける。
その感覚を、まだ名前にできないまま。
イシルは三口目を飲み終えたあたりで、動きが鈍くなった。
カップを持つ手が、ほんの僅かに揺れる。
短い吐息。視線の在り処は虚ろに。
カップを支える手が、下がり始める。
「待った」
言うが早いか、ナギは即座にカップを受け取る。
イシルは抵抗しなかった。というより、反応が一拍遅れている。
「……もう?」
「もう」
即答だった。
アゼルは椅子から立ち上がり、イシルの前に回る。
覗き込むと、伏しがちに潤んだ瞳が、重たげな瞼をゆっくりと持ち上げた。
「……アゼル?」
「起きてるな」
「起きてる……」
言葉の切れが、少し曖昧だ。
ウィルが、半歩近づく。
「自分で歩けそう?」
「歩ける」
三人は一瞬、顔を見合わせた。
「運ぶか」
「だね」
「じゃ、俺が杯預かるから」
「いや、歩けるから」
イシルは立ち上がろうとして、少しだけよろけた。
次の瞬間、アゼルの腕が背中に回る。
「無理すんな」
「してない」
「してる」
短い応酬。
アゼルは半ば抱える形で、イシルを支えた。
運ぶ、というほど大げさではない。
だが、完全に自力とも言えなかった。
ベッドまでの距離は短い。
それでも、イシルの足取りは確実に遅くなっていく。
「……」
途中で、言葉が途切れた。
「あ? 迷惑じゃねぇよ」
アゼルが低く言う。
「……」
「……面倒なんかじゃねぇよ」
そのまま、ベッドに座らせる。
イシルは抵抗せず、身を預けた。
「横になる?」
ウィルの問いに、イシルは一度だけ頷いた。
横になった途端、瞼が落ちる。
小さく掠れた声で、「あったかい」と。
どこに向けた言葉か分からない、呟き。
それを最後に、呼吸が深くなる。
――寝た。
完全に。
アゼルはしばらく、その様子を見てから立ち上がった。ナギが毛布をかけ、ウィルがランプの明かりを落とす。
「……落ちるの、早かったな」
ナギが、小さく言う。
「夜市でだいぶ、気張ってたんだろ」
ウィルは椅子に腰掛けながら答える。
「それに、酒弱い」
「知ってた」
ナギが頷く。
少しの沈黙。
アゼルは、暖炉の火を見つめたまま口を開いた。
微かな、静かすぎる寝息。
毛布が規則正しく、波打つように上下していた。
酒が回ったとき特有の、深くて、どこか重たい眠り。
「やっぱり、眠れてなかったんだな」
そう零したのは、アゼルだった。
ナギが、ゆっくり顔を上げる。
「え?」
「夜市であれだけ動いて、酒も飲んで。普通ならもっと、粘るだろ?」
アゼルは、暖炉の火が揺らぐのを見ていた。
「最初の一杯で、ああなるってのは……身体が先に限界だった」
その一杯も、ほとんど中身が残っていた。
「昼も、ほとんど休めてなかったよね」
夜市前から既に伏し目がちだったイシルを、ウィルは思い返していた。
「寝てねぇな、あれは」
アゼルは溜息混じりに断言した。
ナギは一瞬、言葉を探した。
前夜のことを思い、翡翠の瞳が僅かに鋭くなる。
「そんなに、眠れなくなるような話、したのか?」
部屋の空気が、僅かに変わる。
昨夜のイシルの顔を思い返す。
アゼルの袖を掴んだ、あの瞳。
「あいつにとっては、な」
ナギは、毛布に包まっている寝顔を遠目に見つめていた。
「浮かない顔、してたな」
眠るイシルは、糸が切れたみたいに静かだった。
(やっぱり、無理してたよな)
祭りでは笑っていた。
少し、困ったように。無理に口角を上げて。
肉も食べたし、踊りもした。
賑やかな光の中で、イシルは確かに人として、そこにいて……馴染んで見えた。
花火を見上げる横顔は、ちゃんと祝祭の中にいた。
――でも、軽かった。
地に足がついていない、浮いた笑顔。
まるで、自分だけが世界から外れてるみたいな。
(元気にしたかっただけなんだけどな……)
あったかい酒なら眠れると思った。
部屋なら、見られる心配もないし。
それでも、こんなにすぐ落ちるほど、疲れてたなんて。
ナギは、眠るイシルから視線を外した。
(俺には、師父がいた。愛された時間があった。――そういう時間が必要なんだよ、お前にも)
ウィルは、窓際に立っていた。
夜気に冷えた硝子に、指先を当てる。
(眠れた、とは言うだろうね)
そういう言い方をする人だ。
事実の一部だけを、誠実に切り取る。
でも、これは眠りじゃない。
意識を切っただけの休止。
(昨日の夜から、ずっとだ)
視線の遅れ。
反応の間。
祭りの中で、一拍遅れて戻ってくる目。
楽しんでいないわけじゃない。
ただ、居場所を仮で使っている顔だった。
(ここにいる理由を、常に手放そうとしてる)
それが、危うい。
アゼルは、ベッド脇の椅子に座ったまま、動かなかった。
(眠れないほど、だったのかよ……)
昨夜、バルコニーで見た背中。
風に当たっても、軽くならなかった目。
その瞳が凍っていくのが、分かった。
酒の力を借りて、ようやく眠れただけだ。
力を抜いてるんじゃない。
支える力が尽きただけだ。
(削れる、って言葉。嫌いだが)
今のイシルは、それだ。
止めれば、反発する。
問い詰めれば、言葉を閉ざす。
優しくすれば、距離を取る。
(消えそうなお前を、放っておけるわけないだろ)
眠っている間くらい、削れなくていい。
その分、起きてる時間は――。
アゼルは、視線を伏せた。
(削れる前に、俺が前に立つ)
それだけだ。
誰も、声をかけなかった。
それぞれが、同じ結論を違う形で抱えたまま。
――この旅は、簡単にはならない。




