第27話 願いを届け終えたら
首都ルアナダは、昨夜までの静けさが嘘のように騒がしかった。
石畳には色とりどりの花弁が撒かれ、花飾りが軒先から垂れ、香辛料と焼き菓子の甘い匂いが風に乗って流れてくる。
昼の還光祭は、まだ「仕込み」の時間だった。
通りには人は多いが、屋台の半分ほどは布を下ろしたまま。
串焼きの火は起こされているものの、香りは控えめで、客を呼び込む声も少ない。
「夜が本番、って顔だな」
アゼルが周囲を見回しながら言うと、ナギが頷いた。
「昼は家族連れが多いしな。食い物も、腹に溜まるやつが中心だ」
「肉は?」
「夜が主戦場かもな」
実際、並んでいるのは焼きパン、煮込み、豆や芋の料理ばかり。
祭りとはいえ、まだ"生活の延長"に近い。
その中で、ぽつりぽつりと目立つ店があった。
樽を積み、簡素な卓を並べただけの酒屋だ。
昼だというのに、杯を手に笑っている大人がいる。
「昼から飲んでる奴もいるな」
ウィルの言葉に、ナギが肩をすくめた。
「酒は別枠なんだよ。祭りの日は特に」
葡萄酒、麦酒、蜂蜜酒。
銘柄を書いた札がぶら下がり、香りだけが先に流れてくる。
酒は神の恵み。大地の豊穣、この国が続いていくことへの感謝。昼間の明るさがもたらす解放感が、特別な気分にするのだろう。
夜を待っている。
そういう街の呼吸が、はっきり分かる。
通りの奥では、楽師たちが音を合わせている。
踊り子たちは衣装を整え、まだ表には出てこない。
すべてが、夜のために温存されていた。
昼は、準備の時間。
人々が、日常から祝祭へと移行する途中。
人々は皆、笑っていた。
子どもが走る。親が呼び止める。
年老いた夫婦が、肩を寄せて歩く。
イシルは、その光景を遠目に見ていた。
――守られるべきものだ。
そう思うのは、自然だった。
祝われる命。続いていく日常。失われてはならないもの。
その輪郭が、あまりにも明瞭で。
(俺には、縁がない)
ナギは屋台を見つけるたびに立ち止まり、串焼きや焼き菓子を指さしては、ウィルとアゼルに何か言っている。
ウィルは人の流れを読み、さりげなく進路を整える。
アゼルは周囲を見渡しながら、イシルの半歩前を歩いていた。
守られている、とは思わない。
守らせている、とも違う。
ただ、一緒にいる。
それだけのことが、妙に落ち着かなかった。
昼の光は強く、長く浴びるには向いていない。
イシルは無意識に、フードの影を深くした。
「一回、戻るか」
アゼルの一言に、誰も異を唱えなかった。
「そうだな、夜に備えるか!」
ナギは期待の目を街に向け、ウィルは頷いた。
イシルは無言で歩いた。
迎賓館に戻ると、喧騒が嘘のように遠のいた。
厚い扉が閉まる音が、外と内をはっきり分ける。
「夜市が本番だからな、イシル!」
「夜に備えて、休んでおけよ」
「仮眠してもいいんだよ、起こすから」
三人は口々に言うと、各々の部屋に戻っていった。
静かになった部屋で、ベッドに座る。
穏やかな陽だまりの中の、幸せな光景。
温かな情、無邪気な笑顔。失われてはならないもの。
『残された側が、納得できるかは別だ』
『他に方法はなかったのかって。ひとりに全部背負わせなくても、違うやり方があったんじゃないかって』
言葉は、どれも零れ落ちる。
その理屈を受け取る資格がないから。
眠ろうとしても、沈んでいくだけだった。
灰色の心を抱えて、目を瞑った。
◆
日が落ちるにつれ、街は別の顔を見せ始めた。
昼間は準備に追われていた屋台が一斉に火を入れ、香りが通りを満たしていく。
「行くのか」
イシルは、人混みを見ただけで一段フードを深く被った。
「行くに決まってるだろ」
ナギは即答だった。
「やめとく。三人で行ってくればいい」
人波に入る直前、イシルがそう言った。
――三人同時に、足が止まる。
「は?」
「意味、分かって言ってる?」
ウィルは呆れたように首を傾げ、ナギとアゼルは無言で戻ってきた。
「イシル抜きで行くわけねぇだろ」
「選択肢に入ると思ったか?」
即、却下。
イシルは小さく息を吐いた。
「……そうか」
納得したのか、諦めたのか、自分でも分からない顔で歩き出す。
油の弾ける音。香草と肉の焦げる匂い。甘い焼き菓子の砂糖の匂い。
「すごいな」
イシルが思わず零すと、ナギが胸を張る。
「だろ! 何からいく? 肉?」
「肉だな」
即答、アゼル。
「肉でしょ」
ウィルも迷わない。
「できるだけ肉?」
「目に留まった肉から」
「焼いてるやつ優先で」
三人の意見が、完全に一致した。
「そんなに食べられるのか?」
イシルが素直に疑問を口にすると、ナギが即座に返す。
「祭は別腹だろ」
「理論としては破綻してるけど、実績はある」
ウィルが真顔で補足する。
最初の屋台は、香草をまぶした串焼きだった。ナギが吟味し、アゼルが金を払い、無言で串を四本受け取る。
「まずはこれだな」
差し出された一本を、イシルは一瞬だけ戸惑ってから受け取った。
「……ありがとう」
「礼なんて、今更いらねぇ」
アゼルはそう言いながら、自分の串にかぶりつく。
噛んだ瞬間、肉汁が弾けた。
「美味い!」
「な? 俺の目に狂いはなかっただろ?」
ナギが嬉しそうに笑う。ウィルも頷いた。
「昼の屋台より、明らかに本気だね」
イシルは、少し遅れて口に運ぶ。
温度。塩気。脂の甘さ。
「……美味しい」
その一言に、三人が一斉にイシルを見る。
「ほら見ろ」
「顔が緩んだ」
「ゆっくりでいいから、ちゃんと食え」
言葉の端々が、当たり前みたいで。
イシルは何も返さず、もう一口食べた。
通りを進むにつれ、人が増える。
香ばしい匂いに引き寄せられ、肉の屋台をいくつも巡ったあと。
アゼルもウィルも、食べながら視線は次の標的を探している。その視線の先に、酒樽が並ぶ屋台があった。ナギの視線も当然、そこに向いていた。
「次どうする? 酒いく?」
「酒は……」
イシルが言いかけたところで、ナギが続ける。
「麦酒と果実酒、どっちにする?」
「ヴェルリアは葡萄酒が名産だろ」
アゼルが即答した。
「じゃあ、葡萄酒!」
ウィルも迷いなく乗る。
「決まりだな」
ナギは頷きつつ、さりげなく屋台の奥を覗く。
「じゃあ三杯……いや、四杯――」
「いや、三杯でいい」
被せるように、アゼル。
「……?」
イシルが不思議そうに見る。
「お前は飲まない」
即断。
「なんでだ」
「なんでもだ」
「理由になってないだろ」
ウィルが、にこやかに割って入る。
「ほら、夜市は人多いしさ。飲んで気分悪くなったら大変でしょ?」
「そういう体調じゃない」
「でも飲んだら、たぶん目立つ」
ナギが真顔で言うと、イシルは黙った。
すっと視線を逸らしながらナギは小声で続ける。
「前に一口だけ飲んだとき、覚えてる?」
「……?」
「顔赤くなるし、目が潤むし、距離感おかしくなる」
「……?」
「色気が出る」
「……???」
アゼルが深く頷いた。
(まぁ、飲まなくても、たまに距離感おかしいけどな)
「見せるな」
「見せたくないね」
「見せる理由がない」
三人の意見が、完全に一致した。
「勝手に決めるな」
「イシル、お前な……。酒に弱いって自覚しろ」
不服そうなイシルの眉間を、アゼルは小突いた。
結局、酒杯は渡されなかった。
代わりに、ナギが差し出したのは、葡萄の果汁だった。深い紫色が濃度を語っていた。
「はい。こっちはイシル用」
「……」
イシルは受け取り、少しだけ不満気に口をつける。
「……甘い」
「祭り向きだ」
その様子を見て、三人はそれぞれ、ほっとした顔をした。
(本当に、意味が分からない)
イシルはそう思いながらも、それ以上は言わなかった。
――そして、中央広場の方から。
音楽が鳴り、即興の踊りに笑い声が重なる。
音楽隊が演奏を始め、人波が自然と輪になる。
通りが最も混み合う場所だった。
広場へと向かう人の波に遮られ、ふとした間に三人の姿を見失い、イシルは孤立していた。
「綺麗な人だな」
軽い声がした。
「こんな夜にひとり?」
「……ひとり……ではない」
事実だけを言った。
「でも連れ、見当たらないけど?」
男は笑い、距離を詰める。
「踊らない? 還光祭の夜だし」
「――すまない」
割って入ったのは、落ち着いた声。
「その人は、俺の客人なんだ」
男が振り向き、目を見開く。
紫苑の髪に紺青の瞳に、精悍な顔つき。飾り気のない白い上着が、それを引き立てていた。
「え、ジル様!? これは失礼しました!」
慌てて下がる背中。周囲の視線も、すっと引いていく。
「大丈夫か」
ジルはそれ以上、何も言わない。責めも、庇いも、強調もしない。
「……大丈夫」
イシルは、小さく頷いた。
はぐれたイシルを探しに、人の波に逆らって歩く三人は、そのやり取りを目撃していた。
祭りの喧騒で声は届かないが、顔は雄弁だった。
翡翠は苦笑し、紫水晶は無に、噛みつく赤は、半眼で。
誰も、否定できない。誰も、踏み込めない。
夜の灯りに照らされた二人の横顔が、美しかった。
太鼓と弦の音が絡み合い、足元から振動が伝わってくる。
輪になった人々が、即興のように踊っている。
上手いも下手も関係ない。
還光祭の夜は、身体を動かした者勝ちだ。
「よければ、一曲どうだ」
差し出された手は、躊躇いがない。誘いではあるが、拒まれる前提がない声音だった。
「……俺は」
「形式は気にしなくていい。歩調を合わせるだけだ」
それだけ言って、ジルは待つ。
少しの逡巡の後、イシルはその手を取った。
音に合わせ、輪の中へ。ジルの動きは控えめで、導くというより、守る距離感だった。人に触れ慣れていないことを、察しているような。
周囲の視線が、柔らかくなる。祝祭の中の、整った一対。
(……客人、か)
足運びは覚えきれないまま、一曲が終わる。手が離れると同時に、空気も少し離れた。
「さっきは……ありがとう。助かった」
イシルがそう言うと、ジルは軽く首を振る。
「祭りを楽しむのも、役目のひとつだ」
それ以上は、踏み込まなかった。
その時。
「次、俺な」
唐突に、アゼルが前に出た。
その赤い瞳は、いつもより険がなく、不思議と緩んでいた。
「え?」
「踊るんだろ。順番だ」
「順番……?」
「見てたら、体動かしたくなってきた」
有無を言わせない調子で、手首を取られる。
ふと笑った顔は、どこか妖艶で――。
「ちょっと、待――」
「力抜け。引っ張らねぇから」
アゼルの踊りは、型なんてものがなかった。勢い任せで、周囲とぶつかりそうになりながらも、なぜか人の流れに馴染んでいる。癖のある黒髪がご機嫌に揺れる。
「ほら、こう」
「……適当すぎるだろ」
「祭りだぞ?」
思わず、イシルの口元が緩む。
アゼルは珍しく破顔していた。
次に入ってきたのは、ウィルだった。
いつの間にかアゼルの背後に立っていた。
若草色の美しい長髪が、夜の灯りに艶めいて――。
「はい交代。荒っぽいのはそこまで」
「なんだよ」
「手、離しなよ。怖がってる」
「……怖がってない」
ウィルの動きは滑らかで、重力を感じさせないほど軽やかだった。それでいて、一歩一歩が丁寧で、距離も近すぎない。
「ほら、呼吸合わせて」
「……」
「考えすぎ」
囁く声が、音楽に紛れる。
紫水晶の瞳は愉しげで、温かい光を灯していた。
最後に、ナギ。
存在感のある体躯。されど威圧感のない穏健さを纏って歩み寄る。暗金の髪が、光を受けて煌めく。
「俺もいい?」
確認するように、翡翠の瞳を合わせてくる。それは光を吸い、いつもより鮮やかで、どこか懐かしく――。
「……ああ」
ナギは笑って、軽く手を取った。
温かく、包み込むような優しい手つき。
「上手くなくていいんだぞ」
「それ、さっきから皆言うな」
「同じこと思ってるってことだ」
その言葉に、返す言葉が見つからなかった。
ゆっくりと、最低限の動き。されど伸びやかで疲れさせない踊り方。光と音の中で、自然と二人の表情が緩んだ。
音楽が終わる。
人々が拍手し、次の曲の準備が始まる。
その瞬間。
――夜空が、弾けた。
光。遅れて、音。
花火だった。
色とりどりの光が、還光祭の夜を染める。
歓声が上がり、誰かが指を差す。
イシルは、ただ空を見上げた。
隣に、誰がいるのか分からないまま。
家族連れの笑顔。肩を寄せ合う人々。守られている命。
(――同じはずがないのに……ここにいる、なんて)
それでも、今は。
この光の下に、立っている。
花火が消え、夜空に煙が残る。拍手と歓声の中で、イシルは静かに息を吐いた。
――願いを届け終えたら。
そう言い聞かせる声だけが、胸の奥で、少しだけ震えていた。




