第26話 嘘と共犯
名を、もらった。
帰るための名。
(帰るつもりも、ないのに)
胸の奥で、何かが静かに沈んだ。
純粋な優しさを、理由も話さず拒絶すれば、傷つける。
名乗る自由があるなら、受け取れば傷つけない。
名乗らなくてもいいなら、傷つけなくて済む。
「嘘ばっかりだな、俺」
ウィルにも、ナギにも、アゼルにも。
彼らが口にした言葉を、拾って返しただけだ。
ウィルの選択を肯定する形を取って。
ナギの真剣さを理由にして。
アゼルの軽口に、乗るふりをして。
(――卑怯だ)
自分の言葉で語らなかった。
拒否しない代わりに、本当を渡さない。
嘘にしないための、嘘のつき方。
最初から、間違えていた。
追えるはずがないと、思っていた。賭けも約束も、無視すればよかった。
願いの先にあるものを知っていても、断ればよかった。けれど、放っておける構造を持っていなかった。
そしてまた、関わる人間が勝手に増えた。なぜ関わってくるのか。ひとり増えたところで大差ないと思っていた。
間違ってばかりだ。
夜風が、カーテンを静かに揺らしていた。
風に誘われるようにバルコニーに出ると、遠くに光の柱が見えた。
――すぐ横。隣のバルコニーに先客がいた。
欄干にもたれ、外を見下ろしている背中。
アゼルは、ちらりとイシルを見て、顔をしかめた。
赤い瞳が、僅かに揺れた。
踵を返しかけた、その時。
「風に当たりに来たんじゃねぇのかよ」
低い声。
逃げ場を塞ぐでもなく、呼び止めるだけの調子。
足が、止まる。
逡巡の末、イシルはその場に留まった。
「ジルが来てたんだな」
アゼルは夜空を見たまま、言った。
「……ああ」
頬を撫でる風は心地よいのに、空気はどこか張り詰めていた。
「祝祭が催されるそうだ」
「英雄を讃えて、か。便利な言葉だな」
「――いや。ただの奇跡として祝う」
二人の目線は交わらず、ただ、外に向けられていた。
「都合のいい呼び方だな」
沈黙。
風の音がそれを埋める。
「で、ジルの用事、それだけだったのか?」
一瞬、言葉に詰まる。
「"帰る名"を、もらった」
アゼルは、振り返らない。
「姓のない俺に、ヴェルの名を」
帰る場所としての、ヴェルリアの名を。
(あいつのそういうとこ、嫌いじゃねぇけど)
「――良かったじゃねぇか。帰る場所ができて」
責める響きはない。だが、軽くもない。
イシルは小さく息を吐いた。
「名をもらう自由が、あっただけだ」
「受け取ったのは、お前だ」
沈黙するしかなかった。
短い応酬。
夜風が、二人の間を抜けていく。
(最低だ……)
傷つけたくないと思う時点で、もう踏み込んでしまっている。
本当のことを言えない。嘘も言えない。
"本当"を渡せない。でも今は、関わりを切れない。
近づき過ぎた自覚。
――これ以上、踏み込まないために。踏み込ませないために。
あえて選んだ言葉で傷つけたこと。
「……さっきは、すまなかった」
「何が?」
素っ気ない返事。イシルは息を吸い、言葉を選ぶ。
「家族のこと。引き合いに出して」
アゼルは、しばらく黙っていた。夜の音だけが、二人の間を流れる。
「俺がなんで怒ったのか。まだ分かってなさそうだな」
低く、静かな声。
イシルは、何も言えなかった。
「確かに、守るために母は死んだ。多くの人を救ったのも事実だ」
拳が、欄干の上でぎゅっと握られる。
「でもな。残された側が、納得できるかは別だ」
アゼルは、視線を夜空に向けたまま続ける。
「他に方法はなかったのかって。ひとりに全部背負わせなくても、違うやり方があったんじゃないかって」
戻らない人の、背中を思い出す。
「少しずつ背負い合ってりゃ、苦しくても……結果は変わったかもしれない」
その声は、怒りというより、悔恨に近かった。
「ひとりが削れて、他が楽になって、救われた気になってるだけじゃないかってな」
イシルは、小さく息を落とした。
「愛されていたんだな」
その一言で、アゼルが振り向く。
「――だから、何だ」
刃のような赤い瞳が、真っ直ぐに刺さる。
「愛されなきゃ、どこまでも削っていいって思ってるのか、お前」
イシルは、すぐには答えなかった。
「……分からない」
正直な声だった。
「削ってる、つもりは……ない」
「ああ、そうかよ」
アゼルは短く笑った。
「なら、分かるまで言ってやる。分かるまで、何度でも。嫌な顔されても、怒られても――ずっと隣で言い続ける」
イシルの肩が、わずかに強張る。
「それは……やめてくれ」
掠れた声。拒絶。でも、突き放すほどの力はない。
アゼルは、じっとイシルを見た。
「前に、話したよな」
少し、声の調子が変わる。
「伝承の使命でもない。ソラリアが語る使命でもない。お前がやろうとしてることは、そのどれとも違うんじゃないかって」
夜風が吹き抜ける。
「まだ、俺達には、"言えない"か?」
「"言わない"」
即答だった。アゼルの眉が動く。
「それを知るのは、あの人だけ」
誰のことかを悟った瞬間、アゼルは息を呑んだ。
(――ソラリアの守護者にして剣聖。あの化け物が)
「共犯者、だったのかよ」
イシルは否定しなかった。沈黙が落ちる。
アゼルは、ゆっくりと息を吐いた。
ソラリアの守護者という立場でありながら、イシルがやろうとしていることを容認している。
『キリルは使命に忠実なだけだ。あの人は、正しい。だから、これ以上巻き込みたくない』
『使命なんかに、人生を捧げてほしくない』
(忠実……正しい……巻き込みたくない……イシルの目的を知っている……)
アゼルは噛みしめるように反芻した。
(嫌な予感しかしねぇ……)
長い沈黙の末に、絞り出した声。
「話さないなら、それでもいい。でも……ひとりで削れる前に、俺の目が先にあると思え」
それだけ言って、アゼルは背を向けた。
「もう寝ろ。明日も動くんだろ」
足音が遠ざかる。
バルコニーに残されたイシルは、欄干に背を預けたまま、滑り落ちるようにして座り込んだ。
何を恐れているのか。何を怖がっているのか。
或いは、何に打ちのめされているのか。
自分でも、分からなかった。




