第25話 帰る名
月明かりが、床の水紋を淡く揺らしていた。
扉が静かに叩かれ、イシルが顔を上げる。
「……どうぞ」
入ってきたのは、ジルだった。
昼間の指揮官としての張り詰めた気配はなく、外套も外している。ひとりの人間としての足取りだった。
「身体の具合は?」
「問題ない。寝れば治る」
即答に、ジルは小さく苦笑した。
「本当に寝てくれればいいんだけどね。君は、よく倒れる」
ジルは少しだけ表情を引き締め、イシルの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「改めて、礼を言わせてほしい。聖域核の修繕、そして光の遺構がかつての輝きを取り戻したこと……。ヴェルリアは、君に救われた」
ジルは深く頭を下げた。
「ありがとう、イシル。君がいなければ、今頃ヴェルリアは闇に呑まれていただろう」
「礼を言われるようなことじゃない。俺は……」
「君にとってはそうかもしれない。けれど、この国にとっては『奇跡』なんだ。どうか、君が成し遂げたことの意味を、否定しないでほしい」
向けられたのは、濁りのない真摯な敬意だ。慣れない「感謝」に、イシルは居心地が悪そうに視線を彷徨わせる。
「聖域核についてだが、すでに全面的な見直しに入っている」
イシルは顔を上げる。
「光の遺構が地上に光を届ける今だからこそ、防衛機構そのものを、組み直す」
それは、王子としての決意だった。
"次も誰かが命を削る前提"を、許さないという選択。
「大変だな」
イシルの言葉に、ジルは小さく笑った。
「それに、君に"やらせてしまった"以上、ここで止まるわけにはいかない」
束の間の沈黙。ジルは、ふと姿勢を正した。
「その上で、だ。国をあげて、礼をしたい。父上が、国を救った君を讃えて、盛大な祝祭を開きたいと仰っているんだ」
「断る。勝手に蘇ったことにしてくれ」
即答だった。
ジルは困ったように微笑む。
しばらく沈黙し、それから静かに頷く。
「分かった。公式には、そうしよう。祝祭は、『還光祭』として、奇跡を祝う形にする。君のことは表には出さない」
王子としてではなく、ひとりの理解者として。
「ただ……君が何を成したかを、忘れない者がいることだけは、許してほしい」
イシルは、それ以上何も言わなかった。
ジルはそこで一度言葉を切り、少しだけ距離を詰めた。
「……さて。公務としての礼はここまでだ。ここからは、俺個人の我儘を言わせてもらいたい」
少しだけ、ジルの声の調子が変わった。
「イシル。君は"姓"を持っていないのだろう?」
「ああ」
言葉を選ぶようにして、続ける。
「人のために自らを削る者ほど、"帰る名"が必要だと、俺は思っている」
イシルの指が、シーツの上でわずかに動く。
「姓のない君に、ヴェルリアの名を与えたい」
一瞬、空気が張り詰めた。
「君が望まないなら、もちろん押しつける気はない」
ジルは視線を伏せた。言葉を探すように。
「けれど……君のような人が、"帰る名"を持っていないのは……俺には、とても寂しく思えた」
胸の奥に、微かな痛みが走る。
指先は無意識に、包帯を触っていた。
「君は旅を続けるだろう。俺の手の届かない場所へ行き、世界のどこかで誰かを救う」
その声に、羨望も後悔もない。ただ事実として。
「それでいい。君の在り方は、君のものだ」
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「だからこそ、"帰る名"だけは残したかった。ここに、君の帰りを待つ場所があると、刻んでおきたかった」
イシルは、小さく息を呑んだ。
「ジル。俺は……帰る場所なんて、いらない」
「知ってるよ」
即答だった。優しく、確信をもって。
「でも、"いらない"と言い続けて旅を終えた人が、最後に帰る場所を探し始める例を……俺は嫌というほど見てきた」
言葉が、喉に引っかかる。
「君が望まなくてもいい。ただ、持っていてほしい」
ジルの声音は、告白でも束縛でもなかった。
「世界のどこかで、もし孤独に潰れそうになったとき、思い出せる名を」
長い沈黙。イシルは俯いたまま、問う。
「名を、もらったら……俺は、それを名乗るべきなのか?」
ジルは、首を振った。
「名乗る必要はない。僕が"与えたかった"だけだ。君の選択は、君のものだよ」
胸の奥の、硬く閉じていた部分が、静かに揺らぐ。
(こんな申し出を、無下にするのは……違う)
――真っ直ぐで温かな、ただの善意を。
帰る場所も、待つ人も、いらないと思ってきた。
それなのに――。
「……分かった」
声は、低かった。
「もらうだけなら」
ジルの瞳が、ゆっくりと和らいだ。
「ありがとう、イシル」
彼は懐に手を差し入れ、小さな銀製の紋章を取り出す。王家の血筋ではなく、王が信任した"客人"に与えられる、特別な印。
「——イシル・ヴェル」
名を告げる声は、祝福のようでもあり、祈りのようでもあった。
「"水"を意味する、古い言葉だ。流れ続け、どこへでも満ち、誰かを癒す名」
イシルは、息を止める。
「ヴェル……」
「気に入らなければ、変えても——」
「いや」
小さく、首を振る。
言葉は続かなかった。
"帰る名"が、胸の奥に静かに沈んでいく。
名乗りはしない。縛られもしない。
だが確かに――受け取った。
ジルはそっとイシルの手を取り、その掌に銀製の印を収めると、静かに立ち上がり、深く一礼した。
そして、扉の前でイシルの方に向き直る。
「是非、還光祭を見ていってほしい」
それは、感謝を向けるためでも、引き止めるためでもない。
「君を支えた仲間達も。彼らにも、この国が続いた光景を見てほしい」
その声音は、命令でも依頼でもなかった。
「明日か、明後日。大きなものじゃない。水路沿いに灯を浮かべて、音楽が少し鳴るくらいだ」
イシルは、視線を伏せる。
「それを見てから、ヴェルリアを発ってほしい」
"帰る名"を渡した王子の、最後の願いだった。
長い沈黙の後、イシルはやがて小さく息を吐いた。
「約束は、できない」
「構わない」
「三人が行きたい、と言えば」
「それで十分だ」
ジルは深く息を吐き、どこか安堵したように微笑んだ。
「おやすみ、イシル・ヴェル」
扉が閉まり、再び水音だけが残る。
イシルは、包帯の巻かれた手首を見つめながら、目を閉じた。
「――帰る名、か」
貰ったばかりの、聞き慣れない名。
銀製の印を乗せた掌を、そっと握って胸に当てた。
そこに何かが灯った気がした。
それはきっと、すぐ消える。
掌から零れ落ちるものだと、決めつけるように。




