第24話 正しさの振り
光の遺構が嘗ての輝きを取り戻した夜。
ナギやウィルも眠りについた頃。部屋で見守っていたアゼルの前で、微かにイシルの指先が動いた。
目を覚ましたイシルが最初に見たのは、月光に照らされ、ひどく恐ろしい顔で自分を見下ろすアゼルだった。
イシルが身を起こそうとすると、アゼルがその肩を乱暴に押し留める。
「動くな、寝てろ」
アゼルは、イシルの手首に巻かれた包帯を指でなぞる。「ばれた」みたいな居心地の悪そうな顔をして、視線を逸らすイシル。
「自分がどうなっても、救えればそれでいいと思ってんのか」
声は低く、静かな怒りを孕んでいた。
それを正面から正直に返せば、刃になって返ってくることを、イシルは分かっていた。かといって、中途半端な言葉では見抜かれることも。
「…………」
沈黙を以て答える。
「怒んねぇから。正直に言ってみろよ」
既に怒っている顔でそれを口走るのを、信じられないものを見るような目で返すと、アゼルの表情がほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ和らいだ。
それを見て小さく息を落とし、口を開いた。
「……救ったんじゃない。"不始末"を処理しただけだ」
アゼルが何かを言いかけたが、イシルが言葉を続ける方が、少しだけ早かった。
「守る為に礎になったような、アゼルの……亡くした家族とは違う」
禁句。アゼルの手が、胸倉を掴んだ。
「だから? お前、自分が悪くないことまで自分の所為にするからな。……虫酸が走る」
凍った赤を、焔の赤は正面から受け止めた。
「理由が何だろうが、お前自身を道具扱いすんのはやめろ」
そう言うと、乱暴に手を離した。
「わかったら寝ろ!」
立ち上がると、袖を掴む手があった。
「待って……分からない……」
言葉を選ぶ沈黙。それでも瞳だけは真っ直ぐで。
「――何が、いけなかった?」
その声に、アゼルの動きが止まる。
思考は疎か、息すら忘れ――ようやく吐き出す。
「……だからだ」
低く息を吸い込んだ次の瞬間、
アゼルは一歩踏み込み――ごつり、と額をぶつけた。
「それが、今は一番ムカつく」
それだけ言って、部屋を出た。
◆
廊下の突き当たり。
灯りの落とされた回廊で、アゼルは壁に背を預け、拳を強く握りしめていた。
(分かってる。怒鳴ったところで、何も変わらない)
それでも、胸の奥で赤いものが燻って、どうにもならない。
「……あ」
間の抜けた声がして、アゼルは顔を上げた。暗金の髪。少し息を切らしたナギが、柱の陰から顔を出している。
「やっぱり、ここにいた」
「何の用だ」
刺々しい声になった。自覚はある。ナギは一瞬だけ肩を竦めて、それでも近づいてきた。
「声、でかかったからさ。……聞こえた」
アゼルの眉が動く。
「……イシルの?」
「うん」
それだけで、胸の奥が軋んだ。
ナギは壁に寄りかかるアゼルの隣に立ち、同じように背を預ける。視線は前。決して、アゼルを見ない。
「さっきのやつ。聖域核の間」
その声は控えめで、落とすように言った。
「音、止まったよ。イシルが稀血の癒しを使ったあと」
「……そうか」
「あいつさ、何の躊躇いもなく切ったんだよ、自分の腕を」
ナギの声が、少しだけ掠れた。
アゼルの指が、ぴくりと動いた。
「当然みたいな顔するなって、言ったけどさ。全然響いてないのな」
ナギは苦笑した。
「手段を選べる状況じゃないって、分かっちゃってるのが……一番嫌だった」
その言葉に、アゼルの喉が鳴る。
「止めなかったのか」
「止める間もなかったよ」
即答だった。
「選択肢として、それ以外考えてないって顔してた」
ナギが拳を固く握ったのを、アゼルは横目で見ていた。
「だから、怖かった」
静かな告白だった。
「誰かを救うために自分を使うことを、何とも思ってない目をしてた」
人のために守り立つ時だけは真っ直ぐで、それでいて――。
『わからない』
『――何が、いけなかった……?』
イシルの言葉を思い出し、アゼルは目を細めた。
「お前は、どう思った」
ナギは少し考えてから、首を振った。
「分かんねぇよ。正しいとか間違ってるとか。たださ……それで救われてしまったのは事実だろ」
ナギは、有りの儘を言葉にした。
「――だから、次もやる。また削る」
アゼルの胸に、鈍い衝撃が走る。
ナギは視線を落とした。
長い沈黙の後、アゼルは、壁に預けていた背を離し、深く息を吐いた。
「あいつは、悪くない。分かってる」
ナギは即座に返した。
「だから、余計に嫌なんだよ。悪くないまま、壊れていくのがさ」
アゼルは瞠目してナギを見た。
それ以上、言葉はなかった。
焔の赤を鎮めるように瞳を閉じ、額を壁に打ち付ける。
「……クソ」
「うん」
ナギは、否定しなかった。
「でもさ。アゼルが怒ったの、俺はよかったと思う」
少しだけ、声の調子を変えて言う。
「……何?」
「誰かが、ちゃんと嫌がらないとさ。イシル、ほんとに分かんねぇままになる」
ナギは肩をすくめた。その言葉は、慰めでも責任転嫁でもなく、ただの事実だった。
アゼルは、ゆっくりと顔を上げる。
「……ああ」
低く、噛みしめるように。
「俺、引かねぇ」
ナギは、少しだけ安心したように笑った。
「言うと思った。ま、ウィルもそのうち来ると思うぜ。絶対」
「あいつは面倒な話をする」
「するね」
二人して、短く息を吐いた。怒りは完全には消えていない。でも、形が変わった。
これは、手放すための怒りじゃない。
離れないための怒りだ。
アゼルは、廊下の先――イシルのいる部屋の方を、静かに見据えた。
「じゃ、俺は先に寝るわ」
ナギは小さく手を振って、戻っていった。
夜更けの迎賓館は静まり返っていて、水路を巡る水音だけが遠くで反響していた。
(――怒りに任せた、正しさの振りをした恐怖だ)
濁りなく深い赤瞳は、省察していた。
(溺れかけていたのは……俺か)
「ああ、ここにいたのか」
軽い声がして、アゼルは顔を上げた。
柱の陰から現れたウィルは、既に状況を把握している顔だった。
ナギほど気配を消すつもりもないくせに、いつも要点だけ掴んでいる。
「ナギに会った?」
「さっきな」
短く答えると、ウィルはふう、と息を吐いて壁に寄りかかった。アゼルの真正面ではなく、少し斜めの位置。視線も合わさない。
「じゃあ、今日のこと、大体聞いたんだ?」
アゼルは何も言わなかった。否定もしなければ、肯定もしない。
「怒ったんだろ」
「……ああ」
それだけで、ウィルは納得したように小さく頷いた。
「まぁ、そうなるよね」
あまりにも軽い言い方に、アゼルの眉がわずかに動く。
「軽く言うな」
「軽い気持ちで怒ったんじゃない。でしょ?」
ウィルは肩をすくめた。
「アゼルって、案外溜め込むよね。いつも論理的だけどさ。たまに、自分の気持ちを置き去りにするから」
自覚が薄いところを、淡々と突いてくる。
「お前は、怒らなかったのか」
低く問うと、ウィルは一瞬だけ言葉に詰まった。
そして、視線を天井に向ける。
「怒る、とはちょっと違うかな」
いつもよりウィルの言葉は歯切れが悪かった。
「はっきり言え」
気持ちを整理するように、言葉を選んでいた。
「納得、してしまった」
その言葉が、鈍く胸に落ちた。
「納得?」
「うん。イシルの選択を見て、"そうするよね"って思った」
アゼルが壁から身体を離す。
ウィルはそれを気にせず続けた。
「だって彼、あの価値観の中で……守護者の戒めの中で生きてきたんだよ?」
――愛してはいけない。愛されてはいけない。
(忘れるわけがない。こんな……人を人とも思わない思想の檻を)
アゼルの眉間に力が入る。
その静かな怒りを、ウィルは見ずとも感じ取っていた。
「ひとりの命で世界を救えるとして。その命が誰にも愛されていなければ、誰も悲しまない」
――愛されない命なら、失われても誰も悲しまない。
"犠牲にする前提で人を育てる"思想。
「それを"正しい"って教えられて、"それ以外がない場所"で育ったらさ」
ウィルは、そこでようやくアゼルを見た。
「自分を削ることを"犠牲"だなんて思わない」
アゼルの奥歯が、軋んだ。
"悲しまれない命"として。
世界を救うため。誰かを守るため。正義の言葉。
そうして感情が削ぎ落とされた。
「だから、あいつは"分からない"」
「そう」
ウィルは頷く。その瞳は、暗い鋭さがあった。
沈黙を埋めるように、水音だけが響く。
アゼルは深く息を吸い込んで、吐いた。
「……クソだな」
「クソだよ」
長い沈黙。
アゼルは一つ、大きな溜息をついた。
「俺、怒ってたんじゃねぇな」
声が、掠れる。
「怖かったんだ。……あいつが、いなくなるって」
ナギもウィルも、何も言わなかった。
「"正しい"って顔で、自分を消していくのが……」
平然と自身を削る、あの顔。
壊れ物を無理に立たせているような、あの瞳。
「だったらさ。やることは一つだよ」
「……何だ」
ウィルが、静かに言った。
「嫌われても、離れない」
言いながら、ウィルは自分の手を見ていた。
傷つけて、でも救われてしまった手を。
「分からないって言われても、説明し続ける。それが鬱陶しいって顔されても」
アゼルは、苦く笑った。
「それ、一番しんどいやつじゃねぇか」
「でしょ」
ウィルは肩をすくめた。
「もう――逃げる気、ないでしょ」
アゼルは、ゆっくりと目を閉じた。
怒らずに、話せる自信はない。
「優しくできる気がしねぇ」
「しなくていいんじゃない?」
ウィルの声は、いつもの調子だった。
(嫌われても、離れない……か)
『君が壊れるよりは、僕が嫌われる方がいい』
あの男の言葉を――理解してしまった。
あれは優しさじゃない。救済でもない。
拒絶される覚悟だ。
(分からないなら、分かるまで一緒にいりゃいい)
それが、今のアゼルにできる唯一の答えだった。




