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第20話 光の遺構と聖なる湖

 湖風に紫苑の髪を揺らしながら、ジルは振り返る。


「城まではそう遠くない。けれど……初めてなら、きっと"息の仕方"が変わるはずだ」


 意味深な言葉に、ウィルが首を傾げる。


「息の仕方?」


 ジルは微笑んだ。


「ヴェルリアは湖の"光の遺構(スティーリア)"を中心に都を築いている。街そのものに、結界と祈りの水路が巡らされているんだ。慣れていない人は、少し胸が苦しくなる」


 イシルの胸奥で、微かな痛みが走った。


 ――それは、"息苦しさ"とは別の何か。


 赤瞳の君ルーベルが遥か昔に残したとされる"光の遺構(スティーリア)"。

 各地にあるそれは、人の暮らしを、国を、街を、魔霊から守っている。

 それを転用して人が扱える技術とする、呼吸する国。


(こんな風に、使われているんだな)


 誰にも言わなかった小さな驚きが、胸で沈んだ。

 ジルはその気配に気づいたように、イシルへゆっくり視線を寄せる。


「無理はしなくていい。もし息が合わないようなら、休みながら行こう。旅の疲れもある」


 アゼルが思わず眉を上げた。


(おい、殿下。距離感どうなってんだ)


 王族にしては、あまりに個に寄り添いすぎる。

 だが、不思議と嫌味がなかった。

  "守る者の目"だったからだ。

 ナギが小声で囁く。


「すごいな、ジル殿下って。地位も名誉もあるのに、偉ぶらないし、優しい」


 ウィルが頷く。


「前線に立つ王子ってのは伊達じゃないな。ああいう人が上にいる国は、そりゃ強いよ」


 歩きながら、ジルが言葉を続けた。


「王城に入る前に、一つだけ確認しておきたいことがある」


 その声に、四人が自然と足を止める。

 ジルはイシルをまっすぐ見て――ふと、困ったように微笑んだ。


「名前を……聞いてもいいだろうか」


 それは礼儀であり、興味であり、敬意でもあった。

 アゼルが横目でイシルを見る。 ウィルが軽く肩を押す。 ナギは静かに頷いた。


 イシルは少しだけ視線を伏せ、そして顔を上げる。

 銀髪に光が差し、赤瞳が影が揺れる。


「イシル。姓は、持たない」


 名を告げる声は、湖の水面に触れるように静かだった。ジルは一瞬、息を止めた。


「……そうか」


 まるで、その名が"ここに届くまでの歳月"を感じ取ったように。


「イシル」


 そっと名前を確かめるように、ひとつ。


「いい名だ。大切に、呼ばせてもらう」


 アゼルが心の中でつぶやいた。


(惚れっぽいにも、程があるだろ)


 けれど、イシルの胸には奇妙な静けさが広がっていた。

 ここは"光の遺構"(スティーリア)が人の手で生き続けている国。そして、この王子は"力に縋らず、力を正しく使う"者。


 ――嫌ではなかった。


 ジルは手をかざして示した。


「ようこそ、ヴェルリア王国へ。湖のルアナダが、君達を歓迎する」


 その言葉と共に、湖から吹く風が街道を通り抜けた。銀と紫苑の髪が、揃って揺れた。


 城下へ向かうため、湖沿いの石畳へ足を踏み入れた瞬間。

 イシルの呼吸が、微かに乱れた。ほんの一拍。けれど、アゼルには十分すぎるほど分かった。


(……まただ。息が浅い)


 船での冷たい風。魔霊との戦闘、広範囲浄化。レイの指輪の縛りと痛みに、追い詰められた心。

 そして何より、光の遺構(スティーリア)に重ねられた結界の圧。

 イシルの体には、まだ少し重い。気取られまいと歩き続けるが、歩幅がわずかに縮まっていた。


「イシル」


 アゼルがそっと腕に触れようとした、その瞬間。


「大丈夫か?」


 ジルの声が、すぐ隣から落ちてきた。アゼルの手より、イシルに届くのが早かった。

 ジルは距離を詰めるつもりはなかった。けれど"異変"への反応は、王族の訓練で身についているものだ。

 イシルの顔色を一目見て、自然に半歩、近づいていた。

 紫苑の髪が風に揺れる。紺青の瞳が真剣に細められる。


「君、少し……苦しそうだ」


 イシルは、かすかに肩をすくめた。


「平気。慣れるから」

「慣れる前に倒れたら困る」


 ジルはさらりと言った。その声音には、からかいも、過剰な心配もない。

 ただ、前線に立つ者としての"本気の判断"だけがある。

 アゼルが低く声を出す。


「殿下、近いです」

「それだけ状態が良くないということだ」


 真顔で返されてしまい、アゼルは言葉に詰まった。

 ナギとウィルが苦笑している。

 ナギがイシルの外套の端をそっと寄せる。


「イシル、寒いんじゃないか?」


 イシルの指先が、ほんの僅かに震えていた。

 それを見て、アゼルがすっと前に出た。


「殿下、すみません。イシルはこういう場所に慣れてません。歩きながら話すより、まず休ませてやったほうがいい」


 ジルはアゼルを一瞥し、それからイシルを見た。その目は柔らかく、しかし揺るぎなかった。


「……確かに。ここから先は街の中心に近づく。光の遺構(スティーリア)の力を転用した聖水機構の要、"聖域核"がある。影響が強くなるのは当然だ」


 そして――ゆっくりと手を差し出した。


「少しだけ、支えてもいいか?」


 イシルは一瞬だけ迷った。拒む理由もあったし、受け入れる理由もあった。

 だが、アゼルが真横で小さく囁く。


「イシル。頼っていい。……無理すんな」


 ナギも頷き、ウィルが背中を押す。

 ジルもまた、決して踏み込みすぎない余白を保っていた。


「……わかった」


 イシルは、ほんの少しだけ息を吐き、小さく手を預けた。その瞬間、ジルの紺青の瞳がわずかに震えた。

 驚きでも喜びでもなく、責任の色。


 ――この国に来てくれて、よかった。


 そんな思いが一瞬で読み取れるほど。

 ジルは横に立ち、丁寧にイシルの手と肘を支え、重心移動を補助する体勢を取っていた。


「無理させない。君が落ち着くまで、ゆっくり歩こう。詳しい案内は明日以降に」


 湖の風が四人を包む。

 アゼルは横で歩きながら、少しだけジルを睨んだ。


(ちょっとだけ、腹立つ……)


 だが、それは敵意ではない。

 イシルをよく見ていることへの、複雑な感情だった。ナギが小さく笑う。ウィルが囁く。


「アゼル、顔に出てるぞ」

「出してねえ」


 出ていた。

 それでも、イシルの呼吸は少しずつ落ち着いていった。




 ルアナダの城門をくぐった瞬間――空気密度が、ふっと変わった。まるで肺の奥に"水の膜"が張られたような、柔らかい圧力。


 アゼルが思わず肩をすくめる。


「これが、"聖域核"の息か」


 ウィルも鼻先に手を当てた。


「空気が澄みすぎてる……。いや、澄むっていうより、整いすぎてるのか?」


 ナギは足を止め、周囲を見渡す。

 水路を沿うように、淡い青光がゆっくり脈打っていた。

 ジルが説明する。


「これがヴェルリアの"息"だ。街全域が、聖域核の水脈に包まれている。慣れていないと、体の奥の鼓動が乱される」


 イシルの胸の奥が、またひりついた。


(合わせてくる……。共鳴してる)


 前世の記憶がなくても、体が覚えている。あの光を、あの温度を。それを"自分の欠片"として受け取ることが、今は辛い。

 ジルに支えられながらも、身体がふらついた。アゼルの手が反射的に伸びる。


「イシル――」


 だが、触れる寸前にジルの手が遮った。


「大丈夫か?」


 その声は静かだったが、じっとりと近い。

 アゼルが無言で警戒する気配を放つ。

 イシルは短く息を吸い、首を振った。


「大丈夫」


 ジルは眉をわずかに寄せた。


「無理をしていないか?」


 アゼルが一歩、ジルの前に出る。


「殿下。イシルは長旅の疲れもある。王城に着くまで、あまり近づき過ぎないでくれると助かる」


 言葉自体は礼儀正しい。だが、線を引いた。

 ジルの紺青の瞳が、アゼルを静かに測った。


(――君が、彼を守るか)


 その気配が一瞬だけ走ったが、王子は柔らかく笑って引いた。


「分かった。では、ゆっくり歩こう」



 湖の水路が複雑に交差する美しい街並みは、今のイシルにとって、その美しささえ"重さ"に感じられた。

 体の芯が熱く、呼吸が浅い。ナギがそっと横に並ぶ。


「イシル……熱、あるだろ。顔が少し赤い」

「船で風に当たりすぎた。少しだけ」


 ウィルが眉を上げた。


「少しだけの顔じゃないけど!?」


 アゼルが即座にイシルの額へ手を伸ばし――ジルが一瞬だけその手の動きを見て、目を細めた。


(随分、自然に触れるんだな)


 だが口に出さない。アゼルは触れた瞬間に顔色を変えた。


「熱い……!イシル、いつからだ?」

「これくらい平気だから。騒がなくても」


 ジルが即座に衛士へ声を飛ばす。


「急げ。迎賓館の一室を準備しろ。療術師も呼んでおけ」


 アゼルもウィルもナギも、声を上げる間すらなかった。王子の命令は速かった。

 民を守る現場で磨かれた即応だった。ジルはイシルの歩幅に合わせ、決して先を急がない。


「もう少しで休める場所だ。辛いなら、俺の肩を――」

「間に合ってる」


 アゼルは間髪入れずに遮ると、肩を貸し、腰に手を回して身体を支える。

 ジルが少しだけ目を細めたが、笑みは崩さない。


「そうか。では任せよう」


 それまで支えていた手をゆっくりと離し、託す。

 アゼルはため息をつく。


(なんで王子にまで気を遣わせてんだ、俺)


 だがイシルはふと振り返り、ジルに礼を言った。


「ありがとう。殿下」


 ジルは短く首を振った。


「礼は、元気になってからでいい」


 その紺青の瞳はどこまでも誠実で。

 ただ静かに、噛みつく赤を認識した。



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