第2話 賭けと約束
霊峰アルセインの斜面は、昼もなお夜を抱く。
白雪と黒岩の裂け目で、魔霊たちが濃い影法師のように揺れていた。
銀の髪は冷気に溶け、瞳は"天鏡"の余韻を奥に沈めたまま、静かに赤を灯す。
足取りは軽いのに、山そのものが、その者の歩みに息を潜めているようだった。
魔霊が跳ねた。
だが、銀髪が軽く揺れるのみ――その指先に、わずかな白銀の光を帯びて傾けるだけの動作。影を剥がすように、光の粒子となって浄化される。
その痕に残るのは、風が触れれば散る白銀の微光。
痕跡と呼べぬほどの儚い光。
――刹那、別の気配が来る。
山腹から、魔霊とは違う"生"の気配が駆け上がってくる。軽く、しなやかで、軌跡だけが獣を思わせる。
その目で捉えるより速く、木々が派手に押し分けられた。
「追いついたぁぁッ!!」
飛び込んできたのは、若草色の長髪を風に流す青年は、双剣を納めながら降り立った。紫水晶の瞳が、山の影の中でも不思議に光を持っている。
「やあ、スカーレットロード!」
友好的な声の響きは、第一声で地雷を踏んだ。
赤い瞳が鋭くなる。
「その呼び名はやめろ」
素直そうな瞳で、にこやかに観察の目を向ける。
間近で見るその横顔は、性別さえも曖昧にするほどに整いすぎている。戦士のそれとは違うしなやかさと、触れれば指先が凍りつきそうなほどに鋭利な美。
「じゃあ、稀血の"兄さん"……いや、"姉さん"?」
青年は一瞬、迷った末に"両方"並べた。
「……」
「ごめん!じゃあやっぱりスカーレットロードで!」
悪気がない。むしろ嬉々としている。
「帰れ。ついてくるな」
「やだ。だって僕、霊峰の番人として――」
「断る」
青年を無視して踏み出す。その静かな一歩だけで、山気が張り詰めた。だが、青年は怯えることなく、むしろ紫水晶の瞳を輝かせる。
「じゃあ賭けよう!」
「……賭け?」
「僕が勝ったら護衛にして。君が勝ったら追うのを諦める」
柔らかい微笑を浮かべているが、目は笑っていない。
「ふざけているのか。ソラリア」
「ああ、確かに僕は、ソラリアの中でも選ばれた者じゃないけど。至って大真面目さ」
青年は開き直っていた。
不敵でもなく、不遜でもない。ただの真っ直ぐな目で。
「僕が"スカーレットロード"と呼ばれる存在を追えるかどうか、試してよ。君の傍らに置くに値するかを、ね」
赤い瞳が、冷えた影の奥で揺れた。
(追えるとは思えない。それができるのは、"あの人"だけだ)
そして、微かに息を吐く。
「お前が追いつけたら、好きにしろ」
言い終えると同時に、一歩深く踏み込み、その姿が霧のように掻き消える。一拍、遅れて風が吹き荒ぶ。
「はあああ!? ちょっと待てええッ!!」
青年は反射だけで地を蹴った。細い体がしなる。雪面を踏めば、その下の氷さえ音を立てず砕ける。
岩壁を手で軽く押し、反動だけで、体の何倍もの距離を跳ぶ。
超人ソラリア――翼を失った翼人の末裔。常人とはまるで違う、筋肉の密度と反射の速さ。「走る」より「舞う」に近い軌跡で、白銀の残滓へ飛び込んでいく。
先行する銀髪が、山影の向こうで微かに振り返る。追ってきたのは、魔霊でも、よく知る"あの人"でもない。もっと軽く、もっと無鉄砲な気配。
「お前、追えるのか」
淡く零れた独白は、すぐ風に溶けた。
再び速度を上げる。白銀の微光はさらに細く、ほとんど消える寸前の痕跡として山に散った。
それでも――
ソラリアの青年は、その残滓を正確に捉えていた。
◆
――これは、痕だ。
空気が微かに波立ち、肌の内側へ細い震えが入り込んでくる。
光とも匂いとも違う。
もっと精妙で、もっと儚い――白銀の残滓。
魔霊を浄化したとき、その周りに散る微光。風が触れれば溶けてしまう、ほとんど世界に刻まれない影。
人間には知覚できない。
魔霊でさえ追跡できない。
けれど――
青年の紫水晶の瞳は、それを"線"として読み取っていた。
(見える。流れが、方向が……速ささえも)
命の波長。
その微弱な"偏り"が軌跡を描いていた。
(これが、スカーレットロードの"白銀の光")
ウィルの脚がしなる。筋肉が密やかに鳴り、地を蹴った瞬間、残像が岩陰へ跳ねた。
木々の間をすり抜けるのではない。枝と枝の"間の風"だけを選んで走り抜ける。
山育ちの野性が、研ぎ澄まされた身体能力に宿り、まるで重力を忘れた精霊のように山肌を翔ける。
雪煙が尾を引き、巨岩を蹴った足はまるで翼の軌跡。
(ひとりで行く気なら、なおさら)
峻烈な気配が霧散し、斬撃の余韻が空気に震えていた。開けた広場へ踏み込む。
そこに、背を向けて歩き出す銀髪の影がある。
(この人、もし魔霊を相手にしていなかったら……)
ソラリアの青年は呼吸を整えた。
「……追いついた」
銀髪が風に揺れた。月光を受け、夜風に淡く煌めく。
「しつこいな、お前」
銀気を秘めた赤い瞳は、冷ややかな視線を向けてくる。
青年は、澄ました顔で口角を上げる。
「約束、覚えてるよね?」
「……何の話だ」
「賭け。僕が追いついたら、護衛を許すって」
「もう忘れた」
「僕は忘れてない」
赤い瞳は、青年を無視して歩き出した。
「だから――勝手にひとりで行くなよ」
その言葉に、歩みが一瞬だけ止まった。
青年は距離を詰め、名を呼ぶ。
「スカーレットロード」
「その名で呼ぶなと言った」
「じゃあ、なんて呼べばいいのさ?」
吹き抜けるはずの風が、答えを待つように足を止めた。
「……イシル」
小さく、けれど確かな響きだった。
「イシル、か」
その名を反芻するだけで、胸が熱を帯びる。
名を許されただけ。それなのに、世界の色が変わった気がした。
「僕はウィル・ヴェイユ。ウィルでいいよ」
青年はイシルの隣へ、自然に並んだ。
(その背に何があるか、全部は知らない。でも……)
「君をひとりにしない。ついていくから。勝手に」
イシルは理由を何も訊かず、反論もしなかった。
話す気がないのか、たいして興味がないのか。
ただ小さく、溜息をついただけだった。
視線も合わせず、歩みを止めなかった。
夜明けの光が、二人の影を長く伸ばしていった。
――例えば、ひとりの命で。
問いへ返す旅が、始まった。




