第19話 ヴェルリアの王子
西の大陸ローディア北部、ヴェルリア王国の外縁。
森の香りが変わる。土に沈む水脈が澄み、"聖水術式"による防衛結界の薄い気配が街道に満ちていた。
「すごい……。空気が全然違うよな」
ナギが呟く。アゼルは道沿いに等間隔で立てられた水晶灯を観察した。魔法とは別系統、人の技術の最高峰といっても過言ではないものだった。
ヴェルリア王国。
魔霊を寄せつけない"防衛こそ国の誇り"とする国。
その安全な街道で、ただひとつ、異質な静けさを纏う存在――青玻璃の瞳が、四人を捉える。
空気が凍りついたように張り詰める。落ち葉が、風もないのにふわりと浮かぶ。
その影が二重に揺れ、周囲の空気が"硬い水"のように歪んだ。
『――まずは、お前』
その声は遠く静かで、冷えた刃のようだった。
イシルの銀鎖を胸に提げて歩いていた青年、ナギの影に別の影が重なる。
違和感に振り返る。けれどそこには、何もない。
――影が、解けた。
ナギの心の奥は、ただの一度も揺れなかった。
("巫子の系譜"か。連れている理由は、それか)
「ナギ、どうした?」
ウィルが気配を探るように目を細める。
「ん、誰かいた気がしたんだけど。気のせいかな」
「なら、いいけど……」
木々のざわめきにかき消され、ウィルの目でも異質を捉えきれない。
キリルは目を細めた。
(お前は害じゃない。なら、どうでもいい)
ナギが胸元の銀鎖を握る仕草を見て、それ以上近づく必要はないと判断する。
ただ、イシルがどんな願いを届けようとしているか。
それを確かめただけ。
(――残るは、お前)
黒髪の青年。警戒すべき月光の民。
(邪魔が入る。無関係な人間が多い)
青玻璃の瞳を閉じ、微かに息を吐いた。
影が揺れ、一瞬でキリルは姿を消した。
世界が深く息をつくように戻ってくる。
風が流れ、落ち葉がひときわ高く舞い上がった。
葉の擦れ合う音に、金属が小さく触れ合う音が混ざる。
「お出ましだ」
アゼルが最初に反応した。
聖水術式の道標を沿うように、淡い蒼光が明滅する。その光に照らされ、森影から十数名の衛士たちが姿を現した。
青銀の外套を纏い、胸元には、湖に差す陽光を象った三叉の光輪の紋章。
ヴェルリア王国の衛士団。
彼らは剣ではなく、透明な水晶杖を携えていた。隊長らしき男が四人を見定め、片膝を折る。
「お待ちしておりました。王城より通達のあった"特別旅客"の方々ですね。」
アゼルが眉を寄せた。
「特別?」
「はい。あなた方、『白銀の旅人』が"北の海路より渡る"と、先んじて連絡が届いております。」
"王城より通達"。
イシルは癖のようにフードを目深に被り直した。
「誰からの?」
隊長は首を振る。
「差出人名は伏せられておりました。ただ――王城は、すぐに迎えを派遣せよと。殿下がお待ちです」
ウィルが口を開けたまま固まる。
「殿下って……王子様、来るの?」
隊長が胸に手を当て、静かに告げる。
「ジル・ヴェルリアス殿下。王都ルアナダより、直々に。目的は"ご案内"とのことです」
ナギがイシルに視線を送る。
「案内って、なんで俺たちが?」
「それは殿下より直接、と」
隊長の柔らかな微笑には、"訳は聞いてくれるな"という、苦味が含まれていた。
「街道の外は、まだ魔霊の多い薄闇地帯が続きます。王都までは我らが護衛いたします。どうかご安心を」
聖水術式の灯りが明滅する。その光が街道を包み込むように揺らいだ。
衛士たちは陣形を整え、彼らを迎え入れる。
イシルが歩み出した瞬間、道の先がわずかに明るくなった。
隊長が深く頭を垂れ、道を示す。
「この先の門にて、殿下がお待ちです。」
森を抜ける風が、遠い湖の気配を運んでくる。
王国北門は、湖の風をまとった透明な光に包まれていた。魔霊避けの術式が淡い紋様を描き、城壁にきらきらと反射している。
四人がたどり着くと、ヴェルリア衛士団がすでに整列して待っていた。
師団長と思われる壮年の男が進み出る。
「そなたらが――"特別旅客"殿だな。ジル殿下がお待ちだ。こちらへ」
アゼルが眉をひそめる。
「何故、俺達を"特別"扱いをする?」
その目線は、目深に被ったフードの隙間から、辛うじて見える銀髪に向けられていた。
「王城より正式な通達だ。『銀髪の旅人が北西の暗流帯を越えて来る。保護せよ』とな」
イシルの胸奥では、別のものが小さく震えていた。
――湖の"聖域"の気配。
赤き瞳の君、ルーベルが世界に残した"光の遺構"。
人が根付くための礎。その大きさは、都市、国家の規模に比例する。その光が、ヴェルリアでは湖の内から脈動している。
ヴェルリアの聖水は、まさにその転用技術。
光になお、聖水による防衛機構を重ねた違和感。
――理由の分からない、息のしにくさ。
加えて、王城。
(面を、上げたくない)
フード越しに顔を隠し、日の光を避ける癖が出る。
通り過ぎるだけの場所で、伝承の名も稀血を指す名も要らない。
相手は王族。赤い瞳の意味を、知らないはずがない。
促されたその先に――
湖から吹く風を真正面に受け立つ人物がいた。
紫紺を基調とした軽装の戦装束。
胸元には王家の紋――"湖面に満ちる三弦の月輪"
風になびく紫苑の髪の下、高潔と情熱を宿す紺青の瞳。
戦場に立つ者の目。だが人々の明日を見ている目。
――ヴェルリア王国の王子。
衛士たちが跪いた。
「ジル殿下。特別旅客、ここに」
「ありがとう。下がっていい」
静かて、ひどく明瞭な声。
ジルが四人へ向き直る。
「遠い地から、よくここまで。北西の暗流帯を越えるのは……普通の旅ではないな」
その視線が、自然とイシルに吸い寄せられる。
アゼルが小声で囁いた。
「イシル。ヴェルリアの王子は、噂だと民に近い目線を持つ人だ。強いし、それでいて分け隔てしない。"顔を見られること"で、軽々しく失礼な扱いはしないさ」
ウィルも続ける。
「蒼滴の執行官なんて呼ばれる、王子なのに前線で戦うような人だよ」
ナギが小さく頷く。
「イシル、隠さなくていいと思うよ」
イシルはゆるく息を吐き、長く染みついた防御の習慣を押しのけるように、ゆっくりとフードを指先でつまんで――下ろした。
銀髪が光を吸い、返す。
赤い瞳が、湖の光紋を受けてわずかに揺れる。
その瞬間。ジルの瞳の色が、はっきり変わった。
驚愕ではない。畏怖でもない。ただ、真っ直ぐに惹かれ、見惚れた。
息を飲む気配が、風に混ざった。
「……君が」
稀血。赤瞳の君。隠された"姫"。
そう呼ぶのは失礼だと直感した。
一歩だけ、ジルが前へ出る。だが距離を詰めすぎない、礼のある歩幅。
「噂では、東の大陸に現れた巨大魔霊さえ祓う"白銀の旅人"だと聞いた。――でも、噂よりずっと……」
言葉を選ぶように、少しだけ視線が揺れる。
「美しい。そして、強い目をしている」
(ほら来た)
アゼルが心の中でため息をついたが、イシルの耳には届かない。聞き流している顔だ。
「ヴェルリア王国は、君たちを歓迎する。理由はひとつ。"力に縋らず、力に依らず、人が人を守れる形"を示したいからだ」
王子の声に、揺るぎがなかった。
「もし、よければ――この国が何を守り、どう戦おうとしているか。見ていってほしい」
湖の光が、王子の横顔を縁取る。
イシルは、静かに視線を受け止めた。
遠い前世、ルーベルが残した"光の遺構"。それを、人が自分達だけで守るための技術として昇華してきた国。
ジルの真っ直ぐさは、イシルにとって馴染みのないものだった。けれど、拒む理由も――なかった。
「……分かりました」
そう告げると、ジルは穏やかに微笑んだ。
「感謝する。それじゃあ――城へ向かおう」
湖風が、銀と紫苑の髪を同時に揺らした。
名を伏せた差出人。この国を見せたい意図は何か。
(また――貴方なのか。レイ)




