第18話 寂光の背路
ルーナの地。
"外界から切り離された北大陸"とも呼ばれる場所。
夜明けの空気はまだ冷たい。首都ルーナ・クレフは、まだ朝霧に包まれ眠っていた。
レイの私邸を離れ、人目につく前にアゼルの家へと滑り込んだ。
「お前ら、髪色が派手だから隠せよ。ここじゃ黒髪が当たり前だからな」
アゼルは言いながら、ソファに外套をいくつも投げて乱雑に並べる。
上背のあるナギには丈が合わないが、贅沢は言えない。ウィルやイシルが袖を通すと、どれも少し大きかった。
慣れないローブにくるくる回りながら、ウィルが言う。
「そんな気にする?」
「ルーナの地に踏み入ることができる余所者は、例外なくルーナの友だけどな……それでも、よく思わない連中もいる」
最も気にすべき人物が、話を聞き流している。
「イシル、お前は絶対見られるなよ。赤い瞳に銀髪は、伝説の銀月姫だと騒がれるからな」
「心得た……」
黒い外套に身を包み、フードを目深に被る。それでも顎のラインから顔立ちの美しさが滲む。
(絡まれなきゃいいが……)
アゼルは地図を広げ、これからの進路を指し示す。
「西大陸エムローデを目指すんだろ。安全なのは、遠回りでもセレリア・フォルトから東大陸へ渡ってから西を目指す方法だが……最短でいくなら影の航路、ネア・フォルトからだ」
「影の航路って確か、普通の船じゃ無理だろ?」
ナギが問う。ヘイロ=リス――港町育ちで事情に明るく話が早かった。
「経験豊富な交易船しか通らない航路だ。値踏みされるかもな」
アゼルは言いながら、赤い宝珠を称えた短杖を忍ばせる。武器の類に目敏いウィルが見ていた。
「それは?」
「ああ、この先何があるかわからねぇから。魔力制御の補助みたいなもんだ」
稀代のルーナ、英雄ティエラ・テラノアの杖。
(頼りたくはなかったんだがな。言ってらんねぇ)
「船の時間を気にしなきゃならない。行こう」
――家を出て間もなく。
「あ、テラノア家の若旦那?」
父か母。どちらかの知り合いだろう。
指先を胸の前で合わせる、ルーナの挨拶。
そういう付き合いを避けてきたアゼルは、誰が誰の知り合いだなどと、覚えているわけがなかった。
「――先を急ぐので」
「また外界に行くのかい?」
「ええ」
(ったく、誰だよ、若旦那ってなんだよ。先急ぐんだよ)
内心の毒づきが、顔に少し出ていたかもしれない。
「その方々、外界の? 綺麗な人だねぇ」
「友人です……」
よく見られたら――ルーナの赤とは違うと分かる。
その瞬間、背中に唐突にぶつかり、密着してくる体温。
「なっ……んだよ」
「早く……行こう」
瞳の色、髪色を見せない機転。イシルは顔をアゼルの背中に埋め、強引に押して歩かせる。
「あ、引き留めてすまなかったね。恋人さん? やるねぇ若旦那」
「はは……。どうも」
アゼルの笑顔が引きつる。背中からぐいぐい押されながら、もう会話は聞こえないであろう距離になって口を開いた。
「イシル、お前な……」
「すまない」
温度のない声で淡々と謝るイシルに、ナギは口元を隠して堪え、ウィルに至っては笑いを堪えすぎて震えている。
「見られなくてよかったんじゃない? いい機転だったと思うよ?」
ウィルが助け舟を出した。腹を抱えて言うことではないが。
「そういうことにしてもいいんだろうけど。正直に、ふらついて背中に激突したって白状してもいいと思うぞ」
ナギはよく見ていた。
イシルはフードの下で居心地が悪そうな顔をしていた。
アゼルは眉を寄せ、イシルのフードをぐっと下げた。
「前が見えない」
「手、引いてやっから深く被ってろ」
「やるねぇ、若旦那」
「ウィル、いじってやるなよ」
「くそ……」
その後は絡まれることなく、首都を後にした。
森を抜け、ネア・フォルトへの道を進む。木々の隙間から海が望め、半透明の結界が揺らめいていた。
――ティエラ結界。まるで世界の輪郭が薄く滲んだような、不自然な光の壁。
ナギはその前で立ち止まる。
「これが、ルーナの地を守る結界?」
アゼルは感情を抑えた声で語った。
「世界で最も強い"境界"の結界だ。大陸一つが閉ざせれている。外からの侵入も、内からの脱出も、不可能に近い」
ウィルは結界に手を触れようとして引っ込める。
「じゃあ、どうやって外に?」
「"ルーナの者"なら抜けられる。血が、鍵だ。俺がいるから通れる」
アゼルの声は淡々としていた。けれどその肩は、ほんの少しだけ強張っていた。
イシルは結界に手を伸ばす。霧のような光が揺れ、彼の指先をすり抜ける。
(レイ……今も見ているんだろう)
指輪に宿る魔力が淡く反応している。
胸の奥が疼く。それが何かは分からなかった。
それでも進まなくてはならない。
ナギの"願い"を届ける。それを終えたら――。
イシルは結界を見つめたまま、小さく息を吐いた。
"英雄の子"アゼルを中心に、音もなく彼らを通した。
結界の膜が揺れる。
結界の先は、まるで空気そのものの色が違った。
草木の匂い。風の温度。遠くで鳴く鳥の声。
ナギはゆっくりと振り返り、青白い膜を見つめる。
「すごいね。本当に別の世界みたい」
ウィルはアゼルの横顔を見る。
「結界を張った"英雄"。アゼルは、その家族なんだよね?」
アゼルはしばらく口を開かなかった。
そして――小さな声で言った。
「"英雄"なんかじゃねぇよ。俺にとっては、ただ……勝手に死んだ母親だ」
イシルは目を伏せる。
アゼルが"英雄の子"と呼ばれるのを嫌う理由が、少しだけ、ほんの少しだけ理解できた。
アゼルは言葉を続けた。
「英雄なんかやらなくてよかった。結界なんか張らなくてよかった。生きてさえいればよかった」
吐き捨てるようでいて、それは届かなかった願い。
「まぁ、いいじゃねぇか、この話は。俺自身は、英雄でも何でもない。ただのアゼルだ」
イシルは少しだけ優しい声で。
「そうだな。英雄の子と呼ばれたくないくせに、俺のことを姫とか呼んでいた……ただの、アゼル」
ウィルとナギは、小さく吹き出した。
アゼルは少し驚いたようにイシルを見て、苦笑した。
「根に持ってたのかよ」
その声音には険がなく、どこか柔らかかった。
◆
「ふん。英雄の倅か。道理で、重心が微動だにしねぇわけだ」
値踏みする中年の男――船長はアゼルへの評価を終えると、視線をイシルの左手、その薬指で鈍く光る指輪へと固定した。
途端、船長の顔から粗野な色が消え、深い畏怖の色が混じる。
「待て。その指輪……『ルーナの主人』の?」
その言葉にふと、イシルが指輪のある左手を上げたとき、淡金の魔力が瞬いた。
「その輝き……あの御方から今朝、鴉が届いた。『俺の"瞳"がそっちへ行く。丁重に扱え』とな」
船長はイシルを真っ直ぐに見つめ、それまでとは違う重みのある声で告げた。
「あんたが、レイ様の客人か。いや、『瞳』と呼ばれた意味がわかった」
船長は自らの船の甲板に刻まれた、複雑な金色の紋様——レイが考案した魔防紋——を指す。
「この船が化け物じみた海流を歩けるのは、あの御方が施した『紋』があるからだ。――だからレイ様の客人とあらば乗せるんだ。あんたが乗っている限り、この船が沈むことはねぇだろうよ」
アゼルとイシルが顔を見合わせる。レイの用意周到さと、去ってもなお付きまとう彼の「影」の大きさを思い知らされる。
「野郎共、錨を上げろ! 最高の上客だ。ローディア大陸ルア・リア港まで一気に駆け抜けるぞ!」
俄に活気付く交易船へと四人は乗り込んだ。
イシルは薬指の指輪に触れ、ふと目を伏せた。
――守るためか、束縛か。あるいは所有の顕示か。
◆
北西の海、『寂光の背路』を進んで数日。
凪いだ水面は光を呑んだまま沈黙し、
まるで"死んだ海"の上を船だけが進んでいた。
ルーナの地を離れ、西のローディア大陸へ。
ひとり、甲板で淡い風を受けるイシルに、湯気の立つマグを差し出すナギ。
「冷えるだろ、これでも飲めよ」
柑橘と蜂蜜の匂いが、潮の冷たさを押し返すように広がる。
「いい香りだろ? 少し蜂蜜も入れてみたんだ。温まるぞ。ああ、甘いの苦手だったか?」
ナギは余計なことを尋ねない。
問いを重ねず、押しつけもせず、ただ差し出してくる。
その静かな距離が、今のイシルには心地よかった。
マグを受け取り、ひと口。
「少し苦手。でも、飲める」
「そっか、よかった」
香りに誘われて、イシルはもう一口飲む。
甘みと熱が、深く沈んだ胸の底をゆっくり溶かしていく。
ナギはその様子に満足し、船室へと戻った。
アゼルとウィルはナギが淹れた同じ飲み物を抱え込み、火に当たりながら震えていた。
「あいつ、寒くねぇのかよ……」
「絶対寒いでしょ……」
力ある種族の二人が寒さに負けている姿が、妙に面白く感じて、ナギの顔が綻んだ。
「あぁ、美味い。ナギ、天才か?」
「間違いないね。店出せるよ」
「ははっ、そりゃどうも」
ナギは笑う。そして、ふと。
「なんかさ。この海、おかしいよな。嫌な感じがする」
ただの直感。異様な暗さを感じた。
海上に魔霊が出現することは、あまりない。だが、それが現れる時は例外なく、変異種だ。
船乗りの間では有名な話。港町では、そんな噂をよく耳にした。
「ナギ、魔霊がくる前兆でもわかるのか?」
「や、どうだろうな。ただの肌感覚だし。でも、イシルはずっと海を見ている。警戒しているのかな」
それを聞いて、二人は重い腰を上げた。まだここで暖を取っていたい、という思いが透けて見える足取りで、甲板へと向かった。
そこには、イシルは遠くを見ていた。一点を見つめるように。剣の柄に手が掛かっていた。
その見つめる先――海面に立つ影。
それは、稀血の匂いにでも惹かれたか。イシルを見つけた途端、急速に接近してくる。
イシルが白銀を放つよりも早く、アゼルの赤い光矢が影を撃つ。すぐさま二段目の光矢を複数生み出して構える。
「イシル、まだ本調子じゃねぇだろ。俺が削る」
そう言い放つと同時に、赤い閃光が迸る。
「船に上がってきた奴は、僕がやる」
ウィルが双剣を構え、甲板に上がりかけた魔霊を即座に薙ぎ払う。
「細かいのもいるね。動きが気持ち悪いし早い」
「遠巻きに囲んでる奴も……動きが奇妙だ」
ウィルとアゼルのやり取りを聞きながら、ナギは"底"から込み上げるものを感じた。
「俺の気のせいだといいんだけどさ。真下、なんか……影が濃くないか?」
イナギの言葉が、イシルの感覚の答え合わせになった瞬間――赤から白銀の瞳に変わる。
銀髪が淡い光に煌めき、風に乱れる。
イシルは手を重ね合わせた。船の真下の巨大な影を包むように、浄化の光が奔り――海が白銀に輝いた。
「すまない、つい……大きいし危ないと思って……」
アゼルとウィルが腕組みをして睨む中、イシルは小声で弁明していた。
「今ので見つかったかもな――あいつに」
――キリルに。
「……余計なことをした」
赤に戻った瞳を閉じ、小さく息を吐いた。
("何があっても守る"って……。ふらついてるくせに、そうやって無理を重ねるつもりなら願い下げだ)
イシルの眉尻が下がり、俯く。
その様子に毒気を抜かれたのか、アゼルは怒らずに話す。
「謝んな。船に魔陣陣があるにせよ、危なかったのは事実だし。正しい判断だったと思う」
イシルに力を使わせたくなかった意図は他にもあるが。本人が一番気にするであろうことに、ウィルは触れた。
「たぶん、あの人は……大きな力でなくても追えると思う。だから、イシル。この先何が起こっても気にしないでくれよな」
イシルは沈黙し、小さく頷いた。
(そうは言っても気にするんだろうな、イシルは)
ナギは言葉にしなかった。
本人の消沈とは逆に――
交易船が賑やかになり、口々に讃える声が聞こえてきた。
――この称賛は、西大陸上陸と共に、瞬く間に広がることとなる。




