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第17話 逃れられない翼

 レイは、眠ってはいなかった。

 ベッドの上で仰向けになりながら、薄く笑みを浮かべていた。


 昨夜から続くイシルとアゼルの会話。

 その後のアゼルの思考の揺れ。

 朝の三人の足音、呼吸の乱れ。


 全部、筒抜けだ。


「よかったねぇ。僕抜きで、ずいぶん"濃い時間"を過ごしたじゃない?」


 声は甘く、どこか機嫌が良い。

 けれど笑っているのは口元だけだった。

 胸の奥の、本当の本音はまったく別の色をしている。


 イシルは逃げようとした。

 指輪を外そうとした。


(僕以外の声で、心を揺らした)


 レイの指先が、ゆっくりと自分の薬指をなぞる。

 そこに何もないはずなのに、痛むように見下ろした。


「痛かったでしょ、イシル」


 昨夜の叫び。あれは"強制力の痛み"ではない。

 イシルがレイから離れようとした痛みだ。

 レイは目を細める。


「逃がすつもりは、ないよ」


 低く、柔らかく、独り言のように呟く。

 その声には怒りも焦りもなく、ただ"当然"だけがあった。

 イシルの部屋に集まる三人の気配を、レイは壁越しに静かに感じ取っていた。迷いも。覚悟も。


 そして何より——イシル。


 弱った声。

 息の乱れ。

 痛みの残滓。

 それでも三人に向き合おうとする姿勢。


 胸の奥がひどく満ちる。溺れるような感覚すらあった。


(……かわいい)


 そう思う自分が一番恐ろしい、とレイ自身も理解している。


 アゼルの言葉が部屋の外まで届く。


『じゃあ、行こう。イシルのところへ』


 レイの口元に、また笑みが浮かぶ。


 ――行くんだね。四人で。


「うん。いいよ」


 許可でもない。納得でもない。

 "想定通りだ"という意味の、独り言だった。

 レイはゆっくり身体を起こし、指先を見つめる。


 イシルの薬指に残った自分の"判断"。


 キリルの名をイシルが口にした時、レイの胸は痛むほど熱くなった。


 キリル。

 イシルを"正しい道"へ縛る存在。

 イシルの選ぶ未来を"使命"で曇らせる存在。

 イシルに"戻れない罪"を焼き付けた――。


「勝てない、か」


 レイは目を伏せ、微笑んだ。


「勝てるよ。僕だけは」


 確信だった。


 キリルがどれほど"正しい"としても、どれほど強くても、どれほど譲れない使命を背負っていても。


 "心"の奥底に残る場所を占めるのは自分だけだと、レイは知っている。


「イシルは、僕を呼ぶよ」


 小さく呟き、胸元に手を添える。自信ではない。

 もはや"確定事項"として語っている。


 三人が外へ出ていく足音が遠ざかっていく。

 その最後尾で、イシルだけがほんの一瞬だけ振り返った。

 その気配を、レイは確かに感じ取った。


「……ふふ。見たでしょ、僕の方」


 小さく指で窓枠を叩きながら、レイは微笑む。


 視線は交わせなくても、意識はこっちを向いた。


 それだけで十分だった。いや、本当は全然足りない。

 足りないけれど、今はそれを"良し"としてあげただけ。


「ねぇ、イシル……」


 窓辺に寄りかかったまま、レイは目を閉じた。

 指輪の痕を押さえながら、息をゆっくり吐く。


「昨日、僕の手を振りほどいた時の顔。忘れられないよ」


 驚き、痛み、後悔、迷い。

 全部混ざったあの一瞬の表情。

 そのどれもがレイの胸を焼いた。

 そして、もっと深く欲しくなった。


「そんな顔、もう僕以外に見せないでほしいんだけど?」


 甘く言いながらも、声の奥はひどく冷たい。

 窓の外の朝は明るく、世界は静かに始まっていく。

 けれどレイの胸の内側だけは、夜のように深く沈んでいた。


「四人で行くっていうのなら……」


 一度区切り、レイはゆっくり窓を閉める。

 カチ、と音がした瞬間、雰囲気が変わる。


「全員、ちゃんと戻ってきてよね」


 まるで祈りのように。けれど、その実態は命令だった。


 ナギはまだいい。

 ウィルは利用価値がある。

 アゼルは……まぁ、許してあげてもいい。


 でも。


「イシル以外が途中で消えたら、困るんだよ」


 ひどく優しい声で言う。


 ――その時イシルが"壊れる"から。


(壊れたイシルを抱きしめるのは、自分だけでいい)


「まだ、ちゃんと"整って"ないんだから」


 君はまだ"僕だけの形"になっていない——という意味。

 レイはゆっくりと自分の薬指を握った。


「君に渡した指輪と、同じ素材で作ったんだよ」


 まるで"失われた誰かの記憶"を微量だけ削り取って磨き直したような、不思議な輝き。


「君は、僕を知る。"あの場所"は避けて通れないから」


 その声はあまりにも優しい。


「イシル……」


 名を呼ぶだけで、胸が満たされる。


「君がどんな顔で帰ってきても、全部受け止めるよ」


 逃げようとしたって。

 傷ついて帰ってきたって。

 キリルに心を揺らされたって。


「全部、僕のところに戻ってくるんだから」


 レイは微笑んだ。優しい、優しい、深い笑み。

 けれどその奥底では、別の色が静かに濃くなっていく。


「待ってるね。イシル」


 窓辺から離れ、ひとり静かに朝の部屋を歩く。

 淡い陽光の中で、その影は細く長く伸びた。

 そしてレイは、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


「だって、痛かったんでしょう? 僕から離れようとした時のイシル……」


 ゆっくり瞼を伏せる。


「次はもっと、ちゃんと……抱きしめるから」


 その声は甘くて柔らかくて、けれど誰よりも危うい愛で満ちていた。


「――ああ、背中も見ておけばよかったな」



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