第16話 重ねた言葉
部屋に戻ったはずなのに、アゼルはベッドに腰を下ろすことすらしなかった。
イシルの最後の言葉が、耳にこびりついて離れない。
『ついてくるなら、何があっても俺が守る』
(――なんだよ、それ)
アゼルは額に手をやり、深く息を吐いた。
守る——イシルの口からそんな台詞が出るとは。
どれだけ疲弊していても、あの一言には嘘がなかった。
本気でそう思っている。
だから厄介だ。自分より弱いくせに、自分より壊れかけてるくせに、当然のように"守る側"に立つ。
「そういうところ、ほんと……」
胸がざわつく。怒りにも似てるし、嬉しさにも似てるし、腹立たしいほど優しい気持ちにも似ている。
彼は気づかぬままベッドに倒れ込み、天井を見上げた。
ソラリアの守護者。
イシルの話。
魔法を扱う種族――ただそれだけの理由が"脅威"。
イシルの一言が胸を刺す。
『お前はルーナだから、危険視されているかもな』
(あいつにそんな顔で言われたら、そりゃあ……簡単に引き返せるわけがないだろ)
喉の奥が熱くなる。
『俺はもう、お前を放っておけない』
自分で言った言葉を思い返し、アゼルは短く笑う。
――ルーナとしての自覚。選んだ相手を守る種族本能。
(そんなもん、信じちゃいなかったんだが……)
逃げる選択肢は最初からない。
けれど、ついていくことが"守りきれない未来"を意味するなら、踏み込む覚悟だけは固めておかなければならない。
深夜、窓の外が少しだけ白む頃。ようやくアゼルは目を閉じた。
◆
宿の廊下は、朝の気配に淡く満ちていた。
不思議な沈黙が漂っている。誰も起きていないのではなく、誰も口を開きたがらないような空気。
アゼルは部屋を見渡す。
「起きてるか」
まず反応したのはナギだった。目が合った瞬間、ナギは気まずそうに眉を下げる。
「昨日、声……聞こえてたけど」
「気にすんな。聞こえて当然だ。声でかかったし」
ナギは小さくうなずく。ウィルも少し遅れて起き上がった。目の下にうっすらと疲れが残っているのは、昨日の出来事のせいだろう。
アゼルは一度だけ深く息を吸った。
「二人に、確認したいことがある」
ナギとウィルが同時に顔を上げる。
アゼルは真っ直ぐ彼らを見据えた。
「イシルに、ついていくかどうかだ」
沈黙。ナギは揺れる瞳のまま、小さく唇を結ぶ。
「俺、イシルに聞きたいことがある。それから決める。もう、決まってるけど」
アゼルは小さく頷く。ウィルはしばらく目を閉じ、息を整えるようにしてから、ゆっくりと答えた。
「僕も、イシルに聞いてから。答えは変わらないけど。聞いてから言いたい」
アゼルの肩から、わずかに力が抜ける。
「……そうか」
三人は、それ以上何も言わなかった。
ただ、覚悟の温度だけが共有された。
イシルの旅は、もう後戻りできない。四人が立つ場所は、どこへ向かっても"危険"にしか続かない。
それでも——選ぶなら、それでいい。
アゼルは二人を見渡し、静かに言った。
「じゃあ、行こう。イシルのところへ」
その声には、昨夜よりもずっと強い意志が宿っていた。
三人で廊下を歩く音だけが、静かな宿の空気に落ちていく。
ナギの歩幅はいつもより少し早く、
ウィルは逆にゆっくり。
アゼルはそのふたりの中間を歩いていた。
まるでそれぞれの迷いの温度が、そのまま足取りになっているようだった。
イシルの部屋の前に立った瞬間——三人とも、自然と息を呑んでいた。
入る前から、わかる。
中には"昨日の続き"がいる。
——まだ、終わっていない痛みごと。
アゼルが手を上げると、ナギが袖を掴んできた。
「あのさ」
「どうした」
ナギは小さく頭を下げる。
「イシル、まだ……痛いかな」
昨日の、声。小さな叫び。誰よりも繊細に拾ってしまうのがナギだ。アゼルは短く息を吐く。
「痛ぇだろうな。でも、だからって行かない理由にはならねぇよ」
ナギは握った拳を胸元でぎゅっと縮めた。
次に、ウィル。
「もし、僕を見たくなかったら、どうしよう」
その言葉は、誰も責められない弱音だった。ウィルの頬に残った疲れ。あれがキリルによる"罰"だったと知ってしまった今では、なおさら。
アゼルは、落ち着かせるように静かに言う。
「それでも聞くんだろ。昨日のままで終わらせたくねぇなら」
ウィルはゆっくり息を吸い、そして吐いた。
「行く」
もう誰も迷っていない。アゼルは拳を握りしめ、そのまま扉を軽く叩いた。
「イシル。入っていいか」
そのあと、微かに布が擦れる気配がした。
扉の向こうから、疲れた声。
「……入っていい」
アゼルが扉を押し開ける。
朝の光が差し込む部屋で、イシルは窓際に腰掛け、外を見ていた。
指輪の痛みの余韻が、まだ身体に残っているはずなのに、その横顔は無風のように静かだった。
アゼル、ナギ、ウィル。
三人が部屋へ踏み入れると、イシルはゆっくりと振り返った。
赤い瞳が、一人ひとりを確かめるように見つめた。その視線だけで、三人の胸の奥に宿っていた覚悟の形が、わずかに震える。
アゼルが口を開く。
「聞きたいことがある」
イシルは小さく頷き、そのまま言葉を促すように、視線で返した。アゼルは二人を一度だけ見て、目で合図する。
(――言え。昨日の続きに、向き合うなら)
その直前。イシルがふと、目を伏せて静かに言った。
「俺も、聞きたい」
その一言で、部屋の空気が変わる。
重さではなく、覚悟。
怖さではなく、進むための道。
そして——三人は、それぞれ胸の奥に抱え続けてきた問いを、口にしようとする。
赤い瞳がゆっくりと向けられる。
ナギは唇をかみ、意を決したように問うた。
「なぁ、イシル。俺の願い、聞いてくれたよな。俺が何者か。形見を頼りに探すために、同行を願い出たこと。何で、許してくれた?」
イシルの瞳が微かに揺れた。
本音と、答えにならない答えと。綯い交ぜになって喉を締め付け、すぐには声にならなかった。
「本当は、断ろうと思っていた」
ナギは一瞬、瞠目した。
「けど……できなかった」
その声は弱い。痛みに擦れた喉から、誤魔化しのない本音だけが落ちる。
「俺は、ただの器だ。人の願いを受け取り、届ける」
ナギの翡翠の瞳は揺らがず、真っ直ぐにイシルを見る。
イシルは視線を落とし、呟くように付け足した。
「それに……ナギ。お前、真剣だった」
短い言葉だったけど、それ以上いらなかった。
ナギは震えるように笑い、目を伏せる。
「……ありがと」
イシルは何も返さなかったが、それで十分だった。
手を握りしめ、ウィルは沈黙の殻を破った。
「イシル。僕も、ひとつだけ」
赤い瞳がそちらへ向く。
「僕……まだ、傍にいていい?」
声が掠れていた。昨日、心の奥まで抉られた傷が、まだ生々しいのだろう。
イシルは眉を寄せた。困っているような、呆れているような、優しいような——複雑な表情。
「勝手についていく、と言ったのは」
ゆっくりと、言葉が落ちる。
「ウィル。お前だろ」
その言葉がウィルの胸に届いた瞬間、彼の肩の力が抜けた。泣きそうな笑みを浮かべながら、小さくうなずく。
「……そっか。うん……約束、したもんな」
二人のやり取りを見届け、アゼルが腕を組む。
「で、イシル」
赤い瞳が最後の一人へ向けられる。
「俺は? どうするつもりだよ」
イシルは、一瞬だけ呆れたように目を細めた。
いつもの調子がほんの少し戻ったような表情。
「二人もいたら、ひとり増えても変わらない。だろ?」
アゼルは目を丸くする。
イシルは淡々と、とどめを刺した。
「そう言ったのは……アゼル。お前だ」
アゼルの顔に、どうしようもなく笑いが広がった。
「ああ、言ったわ。言ったな」
三人とも——もう覚悟は決まっていた。
イシルがどう言おうが、止めようが、関係なかった。
イシルは彼らの顔を順に見て——最後に、深く息を吐いた。
「行こう」
その声は弱っていて、優しくて。どこか諦めていて。
けれど確かに、彼らを拒んではいなかった。
その銀気を宿した赤い瞳は、どこか暗く、遠く――。
(――本当を、渡せない)




