第15話 語られなかった選択
部屋には音という音がなくなった。
イシルは、しばらく呼吸の仕方すら忘れていた。
(——外す)
理屈より先に、身体が動いた。
震える指で、左手の薬指に触れる。まるで皮膚ではなく、骨そのものに異物が食い込んでいるような感覚。嫌悪が、耐えられないほど強い。
(外さないと。これは……レイの判断だ)
その瞬間、激痛が走った。
電撃というより、筋肉の一本一本を内側から引き裂くような痛み。息を吸う余裕すらなく、喉の奥で掠れた声が漏れた。
「っ……う、ぁ……!」
視界が一度、白く飛ぶ。
それは警告ではなく、圧倒的な強制力だった。
どれだけ拒絶しても、"死の危機に至る行動だけは許さない"という、レイの絶対意志。
痛みは長く続かなかった。
だが、引いた後の空気が、冷たく、静かすぎた。
イシルの吐く息は乱れ、手は小さく震えていた。
肩で息をしながら、吐き捨てるように呟く。
「……くそ……っ……」
怒りというより、呆れと、疲れと、どうしようもない諦念が混ざっていた。
その時、僅かな音がした。
「そこに、いるんだろ」
扉の向こうの気配に、イシルが低く言った。
弱った姿など、本当は誰にも知られたくなかった。
けれど、今は隠す余裕がない。
「……アゼル。入れよ」
控えめに扉が開き、アゼルが姿を見せる。
気配を殺していたつもりなのだろうが、イシルには最初から分かっていた。
「悪い。盗み聞きする気はなかったんだが……」
アゼルの声はいつもより低く、迷いの影を含んでいた。
イシルはベッドの端に座ったまま、視線だけで答える。
「悪かった。俺が踏み込みすぎた。試したみたいな真似したのも……後悔してる」
イシルは首を横に振る。
「関係ない。お前がやらなくても、いずれ見つかっただろう」
「そうかもしれないが。だからって言い訳になんねぇよ」
アゼルはため息を吐き、ベッド脇に座る。
沈黙が落ちる。
イシルの視線はまだ少し荒れていたが、先ほどのような怒気はない。
アゼルは、迷った末に口を開く。
「前に俺、お前に"前世の記憶あるだろ"って言ったよな」
「言ったな」
今のイシルは拒絶の棘がない。むしろ、疲れ切った吐息のようで。アゼルはゆっくりと言葉を整える。
「なぁ、イシル。これは俺の推測だから、返事はいらない」
指輪を弄るイシルの指が止まる。
「伝承の使命でもない。ソラリアが語る使命でもない。お前がやろうとしてることは、そのどれとも違うんじゃないか」
イシルは、思わずアゼルを見る。その反応だけで、アゼルは核心に近い場所へ手を伸ばしたと悟った。
「だから、"言わない"んじゃなくて、"言えない"」
アゼルは静かに言う。イシルは答えない。しかし、その沈黙は――肯定だった。
(ソラリアの守護者を振り切ってきたのが"答え"、と考えるのが自然だが。……振る舞いが"逆"だ)
銀気を宿した赤い瞳は、ずっと目線が沈んでいる。
アゼルの視線が、その視線の先――左手に落ちる。
「……で、その指輪。何されたんだよ」
イシルは苦く笑う。
「知らなくていい」
「言うと思った。まぁ、いいさ」
弱い。痛みによって声が削れている。
(――想像はつく。レイだ。好んでつけるわけがない。その位置に。外せないんだろう)
アゼルは立ち上がる。
扉へ向かいかけて、ふと振り返った。
「お前が何を選ぼうが……俺はもう、お前を放っておけない」
イシルの瞳が揺れた。
アゼルは、最後に小さく息をついた。
「でも、お前の旅を邪魔する気もない。選ぶのはお前だ。俺は、その上で傍にいるだけだ」
その言葉は重ねず、押しつけず、ただ静かに置かれた。その言葉に、イシルはわずかに目を伏せる。
アゼルは言うべきことを言い切ったと判断し、扉へ手をかけた。
その時。
イシルが小さく呟いた。
「ついてこない方が良い」
アゼルの手が止まる。イシルはゆっくり視線を上げた。
赤い瞳が、深い影を宿している。
「キリルには、勝てない」
その名を口にするときの声音は、怒りでも恐怖でもない。
喪失の色だった。
「詳しく聞かせろ」
夜の気配が深まり、部屋には柔らかな静けさだけが落ちていた。
イシルはベッドにもたれながら、ゆっくりと呼吸を整えている。
少し前まで指輪の痛みに押し潰されていたことを思えば、声が出るだけでも上等だった。
扉の前に立ち尽くしていたアゼルが、覚悟を固めたように、再び部屋へ戻る。
静かに扉が閉じられる。
イシルが顔を上げた。アゼルは短く息を吐き、真正面から刃のような赤い瞳が、凍れる赤を見据える。
「今のは、ただの"脅し文句"じゃねぇよな」
「……」
「"キリルには勝てない"。その意味、詳しく聞かせろ」
アゼルの声は淡々としていた。責めも強制もない。
ただ、逃げ道を作らない音の置き方だけが覚悟を帯びていた。
イシルの前に椅子を引き寄せ、静かに腰を下ろす。
近すぎず、遠すぎず──話すための距離。
「ウィルから、"守護者の戒め"の話は聞いた。お前を救い出したことも、あいつの使命も。……だが俺は、お前の言葉が欲しい」
イシルの指が、かすかに震えた。痛みの残りか、躊躇いか──判別がつかない。
「キリルと、どういう"関係"だったのか。なぜ、お前の旅にキリルを伴わなかったのか」
イシルは視線を伏せる。
「逃げた、とは……言いたくない」
「違う、と言えるか?」
沈黙が落ち、やがてイシルは小さく息を吐いた。
「置いてきた。いや、同じか。違わないな」
自嘲めいた笑みが一瞬浮かんで、すぐに消えた。
イシルは背を起こし、姿勢を正す。語る覚悟を決めたというより、語らなければ前へ進めないと理解したように。
「キリルは使命に忠実なだけだ。あの人は、正しい。だから、これ以上巻き込みたくない」
アゼルがわずかに眉を寄せる。
イシルは言葉を続けた。
「使命なんかに、人生を捧げてほしくない……」
ほんの一瞬、痛みの影が表情を走る。
「キリルは十八で背負った。俺を害した者を、躊躇いなく──殺し、かけた」
その声は乾いていた。怒りも悲しみもない、ただの事実。
アゼルの目が鋭くなる。
「殺しかけた、って……」
イシルは淡々と続ける。
「死なせたら、キリルの罪になる。だから、"なかった"ことにした」
「おい、それ……王家の──」
――誰にも悟られずに"稀血"を連れ出した。
イシルは小さく肯定する。
アゼルは低く問う。
「キリルは、お前にとって何なんだ」
少しの間を置いて、イシルは静かに答えた。
「正しい人だ」
その一言に、悲しみ以上の諦めが滲んでいた。
アゼルは視線を逸らさず言う。
「もし、俺たちがついて行ったら、キリルはどう動く。本気で排除するつもりなら、とうにやってるはずだよな」
「……あの人の本気を、俺は見たことがない」
イシルは静かに語る。
「直接傷つければ、俺が癒しを使う。それでは意味がないから、ウィルは心の座に干渉され、"罰"としてやらされた。そうやって心を折り、俺に突きつけるためだ」
「――お前を無理に連れ去ることも、しなかったな」
「人間相手には、加減が難しいから……」
「あれ以上が、あるのかよ」
(レイ相手には、剣を抜いていた――)
アゼルの拳がわずかに震える。
「ナギとお前には、どう出るか分からない。ナギは俺の銀鎖を身につけているから大丈夫だ……と思う。共にいる理由があると、分かるはずだ」
「じゃあ、俺は?」
「お前はルーナだから、危険視されているかもしれない」
アゼルの背に冷たいものが走る。
イシルはふと、困ったように眉を寄せた。
「身につけられるもので、他に渡せるものがない。服くらいしか、ない……」
アゼルは額に手をやった。
(分かる……分かるけど……)
「俺のほうが背高いから。小さくて無理だわ」
イシルがむっとして顔を背ける。
その反応に、アゼルは思わず笑みをこぼした。
「拗ねんな」
イシルは小さくため息をつく。
「ついてくるなら、何があっても俺が守る……」
「そんな顔で言われてもズルいんだよ……」
――守る。
この時はまだ、その意味することを知らなかった。




