第14話 境界の刻印
レイの言葉が落ちてから、部屋はひどく静かだった。
『言い続けるよ。君がどちらを選んでも——僕は必ず傍にいる』
その余韻だけが、冷たい膜のように空気を覆っている。
イシルは、ほんの数秒、目を閉じた。
息を整えたように見えた。
だが——違った。
視野が揺れる。白んでいく。
(もう、限界だ)
小さく笑った。笑ったのに、熱がまるでない。刃を冷水に沈めたような、音のない笑みだった。
空気が急激に張り詰める。レイが瞳を細め、アゼルが反射的に肩の重心を変える。
次の瞬間。
「……いい加減にしろ」
低い。静かな声。怒鳴ってはいないのに、温度が落ちたかと思うほど、圧が変わった。
レイの表情が止まり、アゼルでさえ言葉を失った。
ウィルもナギも、ただ呼吸を止める。
「前世がどうとか。守護者だとか、使命が何だとか……」
赤い瞳が細くなる。それは怒りというより、もっと深い場所に触れたときの光。
「俺に聞くな」
沈黙が落ちる。返事を挟み込む余地がない。
「話したいなら、お前らで勝手に話せばいい。俺の頭を覗くな。俺の過去を勝手に並べるな」
声は震えず、ただひどく落ち着いていた。だからこそ刺さる。レイは初めて、表情から"読める色"を消した。
「俺は、お前たちの信じたい"伝承"なんかじゃない」
その一言が、決定的だった。
レイが無意識に一歩踏み出しかける。
「近づくな」
空気が凍りついたように動かなくなる。レイの足が、一瞬で止まる。
イシルの体がふらついていた。怒鳴ったあとの疲れではない。芯を削られるような、深い倦怠だけが滲む。
誰も近づけない境界ができた。
その静寂を破ったのは、アゼルだった。
「イシル。今、お前がしてほしいことは?」
答えは返らない。だが、返事のないこと自体が答えだった。イシルは目を伏せたまま、誰も見ない。
アゼルたちは気配で悟り、そっと部屋を離れた。
——レイだけが動かない。
イシルは顔をそむけたまま、低く吐き捨てる。
「……まだ、いたのか」
「ええ。まだ話が終わっていないので」
レイの声は、驚くほど静かだ。怒ってもいない。慰めてもいない。ただイシルだけを見ている声音。
イシルの眉間に苛立ちが走る。それとはお構いなしに、近寄るレイ。
「まだ、痛みは残ってるでしょ。あと、熱。貧血……それから頭痛」
「離れろと……」
「これは治療者として、だよ。だから動かないで」
睨む目に力がなくなっていくのを見て、レイはくすりと笑った。
「ずいぶん、素直だね」
正確には、睨んでいられる余力がなかった。
何より、レイがやろうとしていることは正しい。
溜息混じりに、認めたくなかった言葉を落とした。
「治癒してもらったのは……事実だから」
レイはベッドに腰掛けると、柔らかく笑った。
目を合わせないまま、イシルは囁いた。
「それについては、感謝……する……」
(――口吻も? と聞いたら、怒るだろうね)
すごく、凄く小さく「ありがと」と絞り出した声を、レイは聞き逃さなかった。
その囁きに答えるように、イシルの耳元で「どういたしまして」と囁いた。
驚いて肩が跳ねる姿に、レイはまた小さく笑う。
貫かれた肩口に触れ、淡い金色の魔力で緩やかに優しく包み込む。
「……貴方のことは、何も知らない」
してもらったことへの敬意はある。けれど、その想いを向けられる理由がない。否、知らない。
「今は、それでいい。いずれ知るから」
イシルが顔を上げた瞬間、レイと目が合った。不思議な光を宿す金の虹彩には、純粋に慈しむ色が滲んでいた。微笑するレイから目を逸らすイシル。
「どんな答えを出してもいい」
レイは平然と告げる。
「僕はもう、君を失う気はないから」
その言い方には、悲しみも焦りも一切ない。
ただの決定事項。
イシルは、わずかに目を伏せる。
「なら、離れるべきだ」
ここに留まる気はない。ここに安らぎを置くつもりもない。朝日が昇れば、すべきことへ続く道へ戻る。
――愛しても、愛されてもいけない。
想いを残せば、それが枷になる。戒めの意味をイシルは理解していた。
レイは答えを知っていたかのように、言葉を紡ぐ。
「だったら、ひとつだけ守ってほしい」
レイはイシルの手を取る。
掌にあるのは、淡く光る"指輪"。
微細な魔法陣が脈打ち、生き物のように光っている。
イシルの表情が厳しくなる。
「……それは」
「守りの指輪。君の生命力を補強し、遠隔で防御を発動できる。君がどこへ行っても、何を選んでも、生き延びるための最低限だ」
イシルは即座に手を払おうとする。
「いらない。そんなもの」
「だろうね」
ほんの一瞬の沈黙。
そして——空気が震えた。
魔力の圧が、室内を満たす。
イシルの体がふっと沈むように拘束された。
「レイ……!」
「痛くしない。すぐ済むよ」
「やめろ」
イシルの瞳が白銀に染まる。銀の理が、魔法を拒絶する――はずだった。
白銀が、それすら抱き込む"別の光"に覆い潰された。
「――っ!!」
「ほら、抵抗するから痛い目をみる」
その反動が鋭い痛みとなって返る。
(――逆相位……まさか"理"の……)
銀の理を紡げない。
白銀が薄れて赤へと変わっていく。
「もっと強く拒んでみせてよ、とは言ったけど……変わらないね」
レイは楽しげに微笑む。
淡金の魔力がイシルの左手に絡みつく。
指が強制的に開かされ——薬指に、指輪が嵌められた。
焼けるような光が走る。
刻印が骨の奥に落ちていく。
イシルが短く、苦しげに息を呑んだ。
「何、を」
レイは静かに言う。
「僕が近くにいられない代わりだ」
イシルの瞳が揺れる。
揺れたまま、言葉を探し、何も出てこない。
「嫌われても構わない。——僕は君を諦める気がない」
束縛が解け、イシルの体がベッドに沈む。
レイは踵を返し、扉へ向かった。
「……レイ」
呼んだわけではない。ただ名が漏れただけ。
レイは振り返らずに言う。
「その指輪は外せない。外そうとすれば、"痛み"が止める。君が死ぬ未来だけは、どうしても受け入れられない」
扉の前で、ようやく一度だけ振り返った。
「――おやすみ、イシル」




