第13話 魂に残るもの
夜明け前。
「無駄に血を流すな。整えづらいだろう」
レイは一睡もせず、イシルの容体を診続けていた。
衣服は血で固まっていたため、すべて脱がせ、洗い、整えた。文句を言われるのは確実だが、レイにとって重要ではない。
「この程度で命が削れるとは、脆い器だ」
指先だけは、不釣り合いに丁寧だった。やがてイシルが目を開け、露骨に嫌そうに眉を寄せる。
「……なんで、替えてる」
レイの手は、その声を気に留めない。
彼にとって、身体は"器"でしかなく、意味はそこに宿らなかった。
「血だらけよりは、まだ良いだろう」
胸郭の包帯が真新しいものに替わっていた。
肩口の傷まで覆う形で巻き直されている。
「勝手に脱がすな。いらない」
淡々と、しかし必要以上に触れない手つきが続く。
「命のためだ」
そのとき廊下から足音。レイは内心でだけ呟いた。
(――まあ、僕は気にしないけど)
ノックもなく扉が開く。
地獄が爆誕した。
ベッドに横たわり、上衣が半分脱げたままのイシル。
その紐を無表情で結ぼうとしているレイ。
「………………てめぇ何してんだあああああ!!?」
アゼルが炸裂する。
「違う。着替えを――」
「その体勢で"着替え"はないだろ!!」
ナギが叫び、ウィルは蒼白になってレイを指差す。
「イ、イシルに触るなこの変態!!」
イシルは顔を覆い、深く息を吐く。
「頼むから、静かにしてくれ」
ただ一人、レイだけが氷のように落ち着いていた。
「確認しておこう。もし僕が本当に"何か"する存在なら、君達で止められたのか?」
三人は即答せず固まる。
(無理だ……)
(勝てねぇ……)
(触れられた時点で終わる……)
アゼルが震える声を絞る。
「お前、わざとだろ」
「事実を述べただけだ」
レイの温度は、ほぼ零度。
イシルは騒ぎを無視して立ち上がると、ウィルへ歩み寄り、頬を掴む。
「目を見せろ」
「え?」
覗き込む瞳は真剣で、指先は驚くほど優しい。
数秒。イシルはそっと手を離す。
「……戻ってる。よかった」
ウィルは顔を赤くし、安堵と羞恥で視線を落とした。
空気が和らいだ──その瞬間、アゼルが切り出した。
「イシル。昨日、お前に関する伝承を整理した」
――ルーベルとシルヴェルの伝承のこと。
背負うものの真偽。
使命への疑念。
それは、命を賭す者を揺るがす問い。
イシルから、すべての熱が抜け落ちた。
「何を、知った」
空気が凍りつく。声は低く、凪いでいて、冷え切っていた。
「興味もないし、必要もない。勝手に解釈すればいい」
イシルは淡々と、切り捨てるように言った。
拒絶は鋭く、深かった。さっきまでの騒動が嘘のように、沈黙が落ちる。
「やるべきことは変わらない」
そのとき、レイだけが、まるで最初から温度を変えていなかったかのように口を開いた。
「それでいい」
イシルがわずかに眉を動かす。
レイは笑っていない。慰めてもいない。ただ、全てを見ている者の声だった。
「物語は外側が作るものだ。君がどう扱われようが、本質とは無関係だ」
地雷の位置だけは確実に避ける。 まるで見えているかのように。
「ただ──二人の守護者がいたことだけは、知っておけ」
レイの語気が、珍しく、僅かに強かった。
「二人の守護者……」
アゼルは刃のような赤い瞳を細めた。
(――やっぱり、それが鍵か)
「伝承ではなく、事実だ。"彼女"を守り、"彼女"の祈りの終わりを見届けようとした二つの存在。その構造は、今も変わらない」
イシルは目を伏せた。
レイはイシルへ向き直り、静かに言った。
「祈りを継ぐか、終わらせるか。選ぶのは君だ。どちらでも、僕は対応できる」
「何が言いたい」
レイは淡々と、小さく微笑んだ。
「君に関わる。ずっと、ね」
温度のない赤瞳と、淡い金色の瞳が交わる。
(……厄介な男)
静寂が落ちた。
イシルは口を閉ざした。
代わりにアゼルの声が、硬く空気を裂く。
「イシル。お前、覚えてるだろ。前世のこと」
淡々としているが、感情ではなく観察の鋭さだけを帯びた声。
部屋の温度がわずかに落ちる。
イシルの目が細くなった。
「何を根拠に」
「揺るがない覚悟があって、前世の話に反応しない。伝承にも興味がない。守護者の話だけは完全に避けてる」
アゼルは一瞬も躊躇わない。
「覚えてない奴は、そんな目をしない。"知られたくない過去"がある目だ。外界の伝承もルーナの語りも全部避けるくせに、使命だけは握って離さない。普通は逆だ」
イシルは沈黙で返した。 それが肯定に等しいことを、全員が理解した。
アゼルは息を吸い、さらに踏み込む。
「なあ、イシル。ソラリアが言う、"果たせなかった使命"。継ぐ気なんだろ?」
イシルの瞳が微かに震えた。 その一瞬で、十分だった。アゼルは静かに結論を落とす。
「……やっぱりな」
「だったら、何だ」
「それが、"お前の答え"でいいのかって話だ」
レイは二人を見つめ、ふとアゼルへ視線を向ける。
「アゼル。君の観察眼はやはり優秀だ」
「褒めてるつもりか?」
「事実を述べただけだよ」
そして、レイは淡く笑いながら続ける。
「使命はイシルが選ぶものだ。僕はそこに干渉する」
イシルが眉を寄せる。
「……干渉?」
レイは歩き出す。敵意はない。ただ目的だけで動く足。
その無造作さが、逆に怖い。
「少しだけ、確認が必要なんだ」
レイは何の前触れもなく、イシルの顎をそっと持ち上げた。
近い。どこか触れれば届く距離。 ウィルとナギが固まり、アゼルが前へ出る。
「やめろ——」
「動くな、アゼル」
その声は凪いでいた。 感情がないからこそ逆らえない。
レイは囁く。
「前世をどこまで覚えている?」
イシルは顔ごと逸らし、触れられた顎からレイの指先を外した。問いには答えなかった。
「黙ってもいいよ。……覗けばいい」
一瞬の隙。その指先がイシルのうなじに触れ、淡い金の魔力が奔る。イシルの体がゆっくりと崩折れ、意識が落ちた。
三人が一斉に叫ぶ。
「お前、何してんだ!!?」
「ちょっと"落とした"だけだよ」
レイはイシルの体を抱えてベッドに戻しながら、平然としていた。
アゼルが怒鳴る。
「気絶させる必要あるか普通!」
「普通じゃないけど、必要だ。彼は……止めないと、誰の声も届かない」
レイはイシルの髪を払いつつ振り返る。
「彼が起きていたらできない話でも、しようか?」
その言葉に、三人の喉が詰まった。
レイはまるで氷の上に言葉を落とすような口調で語り始める。
「祈りの器を守るために存在した者が二人。ルーベルの伝承では"主の剣"。シルヴェルの伝承では"主の翼"と語られる」
外界――ルーナの地を除く外の伝承と、ルーナの伝承。
「彼らは祈りの"終わり"を見届けるために生きた、最後の翼人だ。片方は翼を失い、片方は最後まで残った。それが力を持つ種族の源だとしたら?」
翼を失ってなお風を翔る。
――超人の原型としての"剣"。
残された翼を祝福の起源。
――月光の民の始祖としての"翼"。
アゼルが鋭く割って入る。
「……待て。その"終わり"を、誰が決めた?」
剣として残すか、翼として神話に閉じ込めるか。
レイは薄く笑む。
「外界とルーナの伝承が食い違う理由は、そこにある。 誰かが"続けさせ"、誰かが"終わらせたことにした"。物語は、国ごとに都合よく書き換えられる」
ナギが呻くように、問いを落とす。
分かりたくもない答えが、既に出ているというのに。
「じゃあ……イシルの旅は——」
「 ——ソラリアの言う使命の続き、だろうね」
三人の視線がイシルへ向かう。
レイは枕元に膝をつき、落ち着いた声で言った。
「さて。こちらも、確認しよう」
「ちょっと、待てってレイ!!」
アゼルの制止は届かない。手は、伸ばせなかった。
ウィルは止めようとして、何も手段が浮かばない。
ナギは一歩踏み出そうとして、無意識に止まった。
(言い訳はある。 前世の記憶の有無、危険な地雷の位置。イシルを守るために必要な情報……)
——しかし、本音は違う。
確かめたい。この魂が、本当に"彼女"かどうか。
(彼女は留まることを恐れなかった。けれど、君は――)
淡金の瞳の温度が落ちる。
レイはイシルの額へそっと触れる。
「見せてもらうよ。覚えていなくても、魂には残るから」
額を合わせる。空気が揺れる。
そして意識が沈む。
◆
赤い世界。焼けた風。
折れる音。 翼が落ちる。
■■■が、彼女を庇って翼が焼け落ちる、その瞬間。
何度呼んでも届かない声。
——忘れなかったんだね。
◆
白い光。血の匂い。
泣きながら抱きしめる人物。
何かを言っている。 だが、音はない。
——覚えていないのか。
レイの温度がさらに落ちる。
◆
黒い風。 祈りが暴走し、人が魔霊へと変貌する。
骨が歪む。叫びが祈りに吸われていく。
地獄のような光景。
レイは息を止めた。
◆
その瞬間。頬を鷲掴みにされた。
赤い瞳が見開かれ、冷ややかな光を宿す。
「——離れろ」
レイは驚かず、むしろ嬉しそうに微笑む。
「起きたか。安心するといい。今回は口吻じゃない」
「安心できると思うのか……」
至近距離の声は低く、鋭かった。
アゼルが割って入る。
「レイ。次イシルが倒れたら、マジでお前の首折る」
「できるならどうぞ」
レイは軽々とイシルから離れ、立ち上がる。
アゼルが、息を呑んで問う。
「なあ、"始祖の影"。お前、本当にただの呼び名か? 守護者の……生まれ変わりなんじゃないのか」
レイは静かに笑う。
「人が勝手に付けた名だよ。呼び名は記号にすぎないって言ったろう?」
淡金の瞳がイシルへ向く。
「"彼女"が祈りを終わらせると言うなら、僕はそれに付き従うだけだ」
イシルは睨み返す。
「関わるな」
「言い続けるよ。君がどちらを選んでも—— 僕は必ず傍にいる」
その言葉に、イシルは瞳を固く閉じた。
苛立ちなのか、残る痛みのせいなのか。
声にならない吐息だけが、静かに落ちた。




