第1話 剣と翼
祈りが再び、誰かを滅ぼさぬように。
それが、少女の願いだった。
"目覚めし魂の色を持つ者"。
その守護者に、二人が選ばれた。
まだ、顔も名も知らぬまま。
少女は、守られることを前提に生きていなかった。
その唇から、諦めにも似た息を落とす。
二人を拒絶する資格がなかったからだ。
「……受け取れ」
その翼には、淡く金色に輝く紋を。
それは力というより、圧倒的な光の印。
「お前が、私を止められるように」
その剣には、黒い光が滲む。
深い湖の底のような、終わりから始まりを読む色。
「私が再び道を誤るなら、迷わず切り捨てろ」
止めるための刃として。
彼女自身の願いが与えた、"加護"だった。
穏やかで柔らかな微笑。
けれど、どこにも幸福の色がなかった。
その眼差しには生きたい色がなかった。
その瞳は不思議なほど静かで、凪いでいた。
――放っておけば、静かに消える。
抗いようのない感情。
名をつけるなら――庇護欲だった。
「あなたが孤独に戻らないように、僕は使うよ」
「俺は、あなたを守るために使う」
――気づいた時には、落ちていた。
◆
『もし、私が私でなくなる時がきたら』
月のない夜だった。
世界が静かすぎて、壊れる前触れみたいだった。
『そのときは……“私を嫌って”』
意味が分からなかった。
怒りも、悲しみもない。ただ理解が追いつかない。
『愛されていたら……私は止まれない』
小さく笑ったその顔が、ひどく遠い。
「そんなこと……できるわけがない」
『……私が誰を護りたがるか、知ってるでしょ?』
拒めなかった。拒めば、彼女が"もっと悲しい道"を選ぶと分かってしまったから。
『私が壊れたら……あの人を頼む。あの人は、誰よりも未来を望んでいるから』
わかっていた。愛されていたのは自分ではない。
そんなこと、とうに知っていた。
『次はひとりで歩けるように、見守ってくれる?』
愛されなかった者に与えられた、唯一の役目。
「……ひとりで、行くな」
せめて、傍にいる。それだけでよかった。
――護る。
その構造だけが魂に焼き付くほど明確で。
「離れろ!」
誰かの声が、焦りの熱を孕んで、空気を震わせた。
影がひとつ、滑り込む。
腕が伸び、抱き寄せるように包む。
光に触れた翼の縁が、音もなく焼けていく。
「お前まで消えるぞ!!」
光が一際強く脈打った瞬間。
片翼が、根元から音もなく断ち切られた。
彼女を守れるなら、構わなかった。
――選ばれることはなくても。
◆
君が生きているだけで、僕の世界は救われる。
本当は、未来を約束したかった。
告げたかった。想いを。
渡せなかった、金色の指輪。
でも君は、誰も選ばない。
君自身の幸福を、選ばないから。
――選ばせたかった。
「イシル。忘れないで……愛してる」
優しい声だった。
あまりにも優しくて、残酷な声だった。
金の光が、触れる。
記憶が、ほどける。
「僕達がいたこと……忘れないで」
矛盾した祈りが、世界に沈む。
光が砕け、舞い上がる。
何もかもが、なかったことになる。
金の指輪だけが、静かに光を残していた。
――選ばれなかった未来のように。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
千年の時を経て。
《赤瞳の剣持つ乙女》
――セレスティス王国伝承集 第三歌 より
すべてを導くは、赤き瞳。
その眼差しに魅せられし者、主の"剣"とならん。
世界の重きをひとり抱き、孤影に立ちてなお揺らがず。
人、これを呼ぶ──赤瞳の君と。
《銀月の詩》
――ルーナ古謡集 「シルヴェルの章」 より
星を牽くごとき、銀の髪。
その煌めきに心奪われし者、主の"翼"とならん。
祝福にも呪いにも似た、理の光を纏いて。
人、これを讃う──銀月姫と。
◆
そこなる者はひとり、灰色の空を背に立っていた。
銀の髪が、積雪の白よりも淡く、触れれば溶けてしまいそうな光をこぼす。
その視線が湖へ落ちる。
"天鏡"──天空を映すはずの湖面は、風に曳かれ、波に乱れ、呼吸を忘れていた。
細い指先を持ち上げる。
触れぬまま、ただ意志だけを湖へ投じる。
その瞬間、波は止まり、世界は沈黙した。
空が、湖に落ちる。雲は裂け、青は深まり、天と地がゆっくりと重なっていく。鏡となった湖面に、空が、雲が、古い理が呼び覚まされる。
その瞳の赤は、光を溶かしたように淡く、銀の煌めきを底に宿した赤。温度のない焔の色。静かに燃える、透明な赤い宝石のような瞳。
人の赤ではなく、理の赤だった。
そして──その赤が、音もなくほどけていく。
銀の理が目覚め、赤に混じり、やがて瞳は白銀の光へと変わった。
湖の底から、声なき声が響く。
言葉ではない。祈りそのものの震え。
――終わりなき光持て。さもなくば、お前を受け入れない。
声なき応えに、瞳を僅かに伏せ、小さく息を吐いた。
その身に宿る銀の理は、その光を迎え入れる備えを、まだ持たない。
鏡は崩れ、波が再び風もないのに立ち上がった。
湖が息を吹き返すとともに、その瞳は音もなく赤へ戻る。光を宿した、静謐な赤へ。
それは、決意の色に近かった。
赤瞳が、静かに細まる。
まるで、最後に戻って来る場所を、先に確かめておくかのように。




