第8話 蛙
秋夜叉姫は手にした薙刀を自身の前に立てた。
シュッと刃先を一撫でして柄から手を離すが、すらりと立ったままの薙刀を見た結衣はパチパチと盛大な拍手を送る。
〈あの薙刀も神の一柄ね。初めに見た時からピピンと来たのよ。〉
結衣が薙刀に心を奪われている横では、秋夜叉姫が印を組み呪文を唱えだしていた。
すると、薙刀がふわりと浮かび、淡く光り出す。
〈おおっ、すごい。何が始まったの。〉
結衣が期待感で胸を膨らませていると、なんと、結衣自身も淡く光り始めたのだ。
加護をくれる儀式かも、と結衣の胸が高鳴る。
〈生産系の加護をお願いします。〉
手を合わせ、祈る結衣。
そこで、自分の手が透け始めたことに気づく。
〈あれれ、足も体もなの。うーん、これって加護じゃないかも・・・〉
「転生呪文ね!」
勘づいた結衣は、そうはさせじと秋夜叉姫の足にすがりつく。
「やめて。」
「やめて。」
「やめてって、言ってるでしょ!」
結衣は叫び続けるが、秋夜叉姫はそのまま呪文を唱え続ける。
結衣の体がますます透けていく。
〈ムリムリ、消えちゃう。〉
結衣は死に物狂いで秋夜叉姫の足にしがみつく。
火事場の馬鹿力よろしく秋夜叉姫をふんがぁーと締めあげる。
〈人間ごときが神を締めあげるなど戯けたことを・・・〉
憐れな奴じゃ、と心を痛める秋夜叉姫だが、おや、と首を傾げる。
城歩きのためにとジム通いし、腹が割れるまで鍛えた結衣の筋肉は秋夜叉姫を苛立たせるほどに育っていたのだ。
「ええぃ、鬱陶しい。離せ、離さぬか。」
「嫌です。呪文を止めてください。」
チッと舌打ちするものの秋夜叉姫は手印を解かない。
ダメかぁ、と結衣は唇を噛む。
〈このままだと何の説明もなく転生させられちゃう。こうなったら、やるしかないわ!〉
「やめないと嚙みますよ。」
「神を噛むじゃと・・・」
眉をひそめる秋夜叉姫にニヤリと笑った結衣はガパァッ!と大口を開けた。
そのまま秋夜叉姫の太ももに大口を近づけていく。
「やめい。やめるのじゃ!」
「ひゃめまひぇん!」
結衣の歯が太ももに当たった瞬間、秋夜叉姫の背中にぞわりと悪寒が走る。
秋夜叉姫は思わず印を解いてしまった。
〈勘弁するのじゃ。噛まれても怪我などせんが、鎧直垂を涎まみれにされてはかなわん。洗濯が辛いのじゃ・・・〉
くっ、と唇を噛む秋夜叉姫を慰めるように薙刀が寄り添って来る。
こつん、と薙刀に頭を当てた秋夜叉姫は気を取り直し、サッと髪をかき上げる。
「さぁ、止めたのだ。妾から離れよ、涎娘。」
「説明が先です。」
「嫌じゃ。離れぬのなら説明はせぬ。」
プイッと横を向く秋夜叉姫。
〈これ以上、粘っても無理ね。〉
しぶしぶではあるが、結衣は椅子に座り直す。
ふぅ、と息を吐いた秋夜叉姫は、さて、と腕を組む。
「其の方は山中の神社に吸い込まれたことを覚えておるか?」
「はい、夢だと思ってました。でも、違ったんですね・・・」
シュンとする結衣に、『元気を出せ。』と言いかけるもグッとこらえる秋夜叉姫。
結衣への同情は逆効果だと身に染みたのだ。
「あの神社は神隠しをするための神社じゃ。その名も『霧隠神社』、祭神は猿神と言う日ノ本の神じゃ。猿神の役目は異世界の神より依頼を受け、日ノ本の民を神隠しすることにある。異世界では、日ノ本の民はよく働くことで大人気なのじゃ。」
「日本の神様って、日本人のためにいるんじゃないですか。」
秋夜叉姫は人差し指を立て、ちっちっちっと振った。
「神が人のためだけに存在するなどと思い上がりも甚だしい。神は森羅万象のためにある。最近の日ノ本の民は分限を弁えず破壊し続けると日ノ本の神が嘆いておった。」
「でも、それは生きるためなので・・・」
「どの生物もそうであろうよ。まぁ、この話はもうよい。猿神が言うには、其の方は下山中に転落して死んだらしい。瀕死の魂を抜き取って霧隠神社に放り込んだと言うておった。」
「もう戻れないのですね。」
「うむ。こちらの世界で椎名沙魚丸として生き、そして、死ぬのじゃ。」
「ちょっと待ってください。」
うつむいた結衣は長考に入る。
〈んー、帰れないのかぁ。仕事は、まぁ、私がいなくても何とかなるよね、会社のみなさん、お世話になりっぱなしで、ごめんなさい。恩返しできませんでした。しかしなぁ、あの汚部屋を誰かに見られるのはキツイよねぇ。洗濯物は床に放置してるし、台所に置いたままの一升瓶とかビール缶。乙女の部屋と言うより、おっさんの部屋だもんなぁ。完全にトホホですよ。あれ、これって、失踪扱いで警察が部屋に入る・・・〉
あららぁ、と苦笑いする結衣だが、次の瞬間、あっ、と小さく叫んだ結衣は頭を抱える。
〈やばい、やばい、やばい。妄想だらけの日記が残ってる。〉
結衣は頭を上げると、血走った目を秋夜叉姫に向けた。
「お願いします、家を片付ける時間を下さい。絶対に戻って来ますから。」
一気に距離を詰めて来た結衣の頬を問答無用と秋夜叉姫はわしづかみにする。
むがぁ、と何かを訴える結衣に秋夜叉姫は諭す。
「無理じゃ。魂の其の方が帰ったところで何もできんよ。それに、日ノ本への道は閉ざされたのじゃ。」
あっさりと答える秋夜叉姫の手の中で結衣は泣いた。
〈むごい。秋夜叉姫様も女性だから分かってくれると思ったのに。あの時、ケチらずに鍵付きの日記帳を買うべきだったわ・・・〉
手にポタポタと落ちる結衣の涙に気づいた秋夜叉姫は慌てて手を離した。
そして、ウサギの刺繍が入ったハンカチを取り出し、結衣の目から零れ落ちる涙を拭きとる。
「まぁ、あれじゃ。猿神も優しい奴でな。其の方の私物は、眷属の蛙が丸っと吞み込んで塵一つ残さなかった、と笑っておった。よかったの。」
耳を疑った結衣だが、聞き間違いでないと分かり、プルプルと震え出す。
〈えっ、何気にひどくない、猿神様。私を異世界に拉致った挙句、私物をすべて呑み込んだって・・・。遺品とか考えないの? しかも、蛙って何? 私の荷物は蛙の餌なの。そう言えば、蛙って・・・〉
「眷属の蛙って、あの神社にいた狛蛙ですか。」
「うむ、そうじゃ。」
尋常でないショックを受けた結衣は絶句する。
魂なのに魂が抜けた表情となった結衣を見た秋夜叉姫は、あーぁ、と思う。
〈この後に怒涛の文句が来るな。先手必勝がいいのじゃ。〉
パッと両手を広げた秋夜叉姫は、聞けぃ、と凛々しい声を上げる。
「そもそもの発端は、其の方があの蛙に手刀を食らわせたことにある。理不尽な攻撃に激怒した蛙は主である猿神に願い出て、其の方の私物を食べさせて欲しいと願い出たのじゃ。」
秋夜叉姫の容赦ない答えに結衣は思わず顔を手で覆った。
崩れ落ちた結衣の頭を秋夜叉姫はよしよしと撫でる。
「自業自得と思って諦めい。」
頭を撫でる秋夜叉姫の優しさは残念ながら結衣に届いていなかった。
結衣の心の中は炎獄に包まれていたのだ。
〈ちょっと叩いただけでしょ。その後、優しく撫でたじゃない。あのクソ蛙、覚えてなさい。いつか、お尻の穴に爆竹を突っ込んで爆破してやる。ふふ、ふはははは。火がついた導火線にビビり倒して、ピクリとも動けない姿を見て笑ってやるわ。〉
秋夜叉姫の手をギュッと握った結衣は、ゆらりと頭を上げた。
「やる気が出ました。」
「おっ、おう。それは良かったのじゃ。」
瞳に紅蓮の炎を宿した結衣の迫力にたじろぐ秋夜叉姫であった。