第7話 襦袢
意気揚々と幸せの一歩を踏み出した結衣。
だが、結衣の足元には絶望への入口が開いていた。
そう、ポタリポタリと作った涎の池が・・・
好事魔多し、とはよく言ったものである。
ぬっちゃり・・・
何とも言えないねっとりした冷たさが足裏から脳へと全身を伝わる。
異様な気持ちの悪さに結衣は足元を見る。
〈なんじゃこりゃぁ! 冷たいし、ねばねばしてる・・・。えっ、夢じゃないの。〉
仰天した結衣は慌てて秋夜叉姫に目をやる。
そこには、軽蔑しきった眼差しの秋夜叉姫がいた。
うへへ、と気持ち笑いを浮かべた結衣は、コホンと咳払いをして何事も無かったかのように椅子に座った。
〈ほっぺたをつねって確かめなくても夢じゃないわね。さて、目の前の美人と眼下の涎か・・・。ピンチだわ。〉
フッと笑った結衣は、おもむろに口元の涎をグイッと拭う。
両手で顔をパシンと叩いた結衣は、秋夜叉姫にニッコリと笑顔を向ける。
足下では、涎まみれの足裏を床にゴシゴシと擦りつけながら・・・
結衣の一連の行動を何とも言えない顔で見ていた秋夜叉姫はボソリと呟いた。
「後で掃除するのは妾なんじゃぞ・・・」
ボヤキと共に立ち上がった秋夜叉姫は結衣の元へと向かう。
もちろん、涎池を回避する。
座ったままの結衣の横にすくっと立った秋夜叉姫。
ニコニコと愛想を振りまく結衣をじろりと睨みつけた秋夜叉姫は開口一番に叱りつける。
「この馬鹿者。不埒なことを考えておったであろう。」
そう言うなり、振り上げた手刀をズドンと結衣の頭に落す。
「いだぁーい!」
余りの痛さに結衣は頭を押さえてうずくまる。
「うるさい。泣きたいのは妾の方じゃ。」
秋夜叉姫はわなわなと体を震わせる。
「この日、この時のために、妾がどれほど稽古に励んだと思っておるのじゃ。初手が肝心じゃからと思い、かっこいい立ち振る舞いを猛稽古してきたのじゃぞ。しかも、大鎧をまとって、其の方を迎えたと言うのに・・・」
うがぁ、と叫びつつ秋夜叉姫は地団駄を踏む。
しかし、秋夜叉姫にとっては相手が悪かった。
結衣は怒られるのに慣れっこなのだ。
〈怒ってる美人と言うのも絵になるけど、私が悪いみたいだし・・・。よし、ご機嫌を取りますか。〉
不機嫌な社長やキレる先輩をなだめすかしてきた実績を持つ結衣には、秋夜叉姫の怒りを鎮める自信があった。
「あの、もう一回、やってみたらいいんじゃないですか。私、気絶してたみたいですし。ね。」
ちょこんと、あざと可愛く首をかしげる結衣を見た秋夜叉姫は赫怒する。
手に持った薙刀を結衣の鼻先に突き付けた。
「このうつけ者。そんなみっともないことができるか。」
結衣はお助けとばかりに秋夜叉姫に手を合わせる。
〈うひぃー。失敗したぁ。あざと可愛いのはダメなのね。よし!〉
「まぁ、まぁ。ここには誰もいませんし、誰にも言いませんから。」
揉み手を始めた結衣は、ニコニコと再演を勧める。
誠意の欠片すら無い言葉を聞いた秋夜叉姫はよろよろとよろめいたかと思うと、あぁと言って天を仰いだ。
「何たる卑劣。神である妾に向かって悪鬼羅刹のごとく虚言を囁いてこようとは・・・」
結衣はまじまじと秋夜叉姫を見た。
〈自分のことを神って言ったよね、この人。絶世の美女だけど・・・。ちょっと、どうなんだろう。こんな誰もいないところで武将のコスプレしてるし・・・。あっ、そう言えば、この人、誘拐犯だったわね。でも、見張りしかできないのかな。そっか、かわいそうな人なのか。〉
結衣が秋夜叉姫に優しい眼差しを向けた瞬間、パシィィンと結衣は頬を叩かれた。
頬を押さえた結衣は、目をむいて抗議する。
「あの、痛いんですけど。お父さんにも叩かれたことないのに・・・。」
「やかましい。さっきから欲望丸出しで妾を見るかと思えば、媚び諂ってくる。妾が神であることをその穢れ切った頭に叩き込んでくれる。」
秋夜叉姫は憤然と太刀を抜いた。
「うひゃぁ、黒刀!」
結衣は飛び上がって正座となる。
驚愕している結衣に秋夜叉姫はご機嫌な声を返す。
「フハハハハ。よぉっく見ておれ。妾の神力で、この刃は変化する、まずは、炎刃じゃ。」
深黒の刃が真っ赤な炎へと一気に変じる。
ごうごうと燃えたぎる炎の刃となった刀を秋夜叉姫は天高く掲げる。
「その節穴の目で、確かめい!」
秋夜叉姫が刃を庭に向け振り下ろすと、龍となった炎が猛然と駆け巡り、庭に立っていた巨大な石塔を跡形もなく吹き飛ばした。
「すごい!」
目を見開く結衣に秋夜叉姫はドヤ顔になる。
「よし、次は氷刃じゃ。」
「あっ、あの、もう結構です。」
「なぜじゃ、この刀の能力を一つしか見ておらんではないか。」
ようやく来た絶好調の波に乗るのを邪魔する結衣に秋夜叉姫は不機嫌となる。
もじもじしていた結衣は、上目遣いで恥ずかしそうに告白する。
「ちょっと、ちびっちゃいました。」
「其の方、上も下も緩すぎないか。」
呆れ果てた秋夜叉姫に体の芯から疲れがどっと押し寄せる。
〈神である妾を疲れさせるとは、こやつ、とんでもない奴じゃ・・・〉
ガックリと肩を落とす秋夜叉姫の気持ちなど無視するように結衣がサッと秋夜叉姫の目の前に躍り出た。
「女神様、いえ、秋夜叉姫様、先ほどまでの無礼、なにとぞお許しください。」
米つきバッタのようにペコペコする結衣。
〈こんな馬鹿のために妾はあんなに張り切って稽古したのか・・・〉
気を緩めると涙が滲みそうになる。
しかし、秋夜叉姫も神の一柱としての自負がある。
〈まだやり直せる。ここからじゃ。〉
キッと前を向いた秋夜叉姫は声を張り上げる。
「さて、身も心もばっちぃ娘よ。いい加減、妾の話を聞くのじゃ。」
「聞きます。聞きます。ばっちり聞きますよ。」
「妾は当世界の女神が一柱、武神、秋夜叉姫じゃ。」
ええっ、と驚く結衣だが、心の中は至って冷静である。
〈誘拐犯ではなく、神様だったとは。その方がこの状況を説明するのにしっくりくるわね。〉
うむうむ、と頷いていた結衣だが、とんでもないことを思いつく。
神様の生画像は売れるのでは、と・・・
〈こんな美女神だもの。相当な儲けが期待できるわ。〉
ナイスアイデア、とルンルン気分で結衣はスマホを探す。
だが、どこにも無いのだ。
いや、それどころではなかった。
なんと、真っ白な襦袢を着ているのだ。
服が変わったことにようやく気がついた結衣。
慌てて下着を確認した結衣は茫然とした。
〈すっぽんぽんじゃないですか。ひん剥こうとしていた私がひん剥かれちゃったのね。なんてこった、丸裸にされてグースカ寝ていた私にビックリだわ。〉
全身を確認して、うひゃぁー、と奇声を発する結衣の横で、秋夜叉姫はしょんぼりとなっていた。
〈猿神よ。妾は確かにメンタル強者をお願いしたが、これはメンタル狂者ではないのか。妾は、もう・・・〉
ふらり、と立ち上がった秋夜叉姫は結衣に優しく話しかける。
「其の方も言いたいことはたくさんあるじゃろう。妾もあった。」
頷いて聞いていた結衣は、
〈あった?〉
と、秋夜叉姫が使った過去形に頭を傾げる。
結衣が考え込んでいる間に、秋夜叉姫は両手で顔を覆う。
「こやつの相手をするのは、もう妾には無理じゃ。という訳で、もう、転生させよう。うむ、こやつなら、きっと大丈夫じゃ。」
秋夜叉姫は独り言ちると、女神の微笑みを結衣に向けるのであった。