第6話 秋夜叉姫
女武者は右足をスッと前に出し、手にした薙刀を上段に構える。
結衣の沈黙により息を吹き返した静粛な空間は、息を飲むような立ち姿の美しさにピ-ンと糸を張り詰めたような緊張感に包まれた。
裂帛の気合を上げた女武者が袈裟切りの一撃を放つと、一瞬の内に凛と張り詰めた空気が打ち破られた。
体を入れ替えた女武者は振り下ろした状態から逆袈裟切りを繰り出すと、次々と技を繰り出し続ける。
華麗な舞を舞っているような女武者の動きは、天女の舞いもかくあらんと思えるほどである。
最後の一振りを終えた女武者は青眼となり動きを止めた。
あれだけ激しい動きをしたと言うのに女武者は息一つ乱していない。
それどころか、満足気な笑みを浮かべ、結衣に顔を向けた。
「其の方を歓迎する妾からの心ばかりの演武じゃ。称賛は後で良い。まぁ、光の球は誤算であったが、それは忘れよ。」
ごほんと咳払いをした女武者は、きりっと表情を引き締める。
「いよいよ、名乗るとするかの。何を隠そう、猛き武神の中の紅一点、秋夜叉姫とは妾のことじゃ。結衣よ、これより其の方は椎名家の第五男、沙魚丸として生きるのじゃ。」
ふっ、決まったな、と口角を上げた秋夜叉姫だが、結衣から何の反応もない。
〈妾の演武に感動して、口がきけんのか。そうならば、実に愛いやつじゃ。〉
口元に笑みをたたえ、結衣に視線を向けた秋夜叉姫はようやく気付いた。
結衣が立ったまま気絶していることに。
〈妾の演武に感動して気絶・・・をするような娘では絶対にない。〉
はて? と首を傾げた秋夜叉姫は思いついた。
「そうか。そうであったか。妾としたことが。」
すすっと音も無く結衣に近づいた秋夜叉姫は、結衣の腹に手を当て、フン、と活を入れた。
フワァッ!と情けない声を上げて、気絶から復活した結衣は、なんだなんだと左右に首を振る。
その頭の上に秋夜叉姫は優しく手を置いた。
「肉体と魂を分離したのは初めてのことであろうし、妾がもっと気を遣うべきであった。」
秋夜叉姫はどこからか取り出した椅子に座るように促す。
「まずは深呼吸でもして、気持ちを落ちつけるがよい。妾も少し事を急ぎ過ぎたようじゃ。どれ、ゆっくりと行こうかのう。」
そう言って、秋夜叉姫は結衣に微笑む。
その微笑みを目の当たりにした結衣は直視できず、思わず下を向く。
〈やっ、優しい。美人な上に優しい。こんな人間がいるなんて信じられない。魂の分離とかよく分からない冗談で私を落ちつかせようとしているのね。〉
結衣は上目遣いに秋夜叉姫を見ると、秋夜叉姫が何の気なしに髪をかき上げていた。
とっさに顔を上げた結衣は、食い入るように秋夜叉姫を見つめる。
髪をかき上げる女性など何人も見て来たが、こんなにも美しく髪が舞うシーンを結衣は見たことがなかった。
埃が立つからご飯を食べてる時はやめて欲しいなぁ、ぐらいにしか考えたことのない結衣の心をあっさりと陥落させたのだ。
〈うわぁ、ファサーって聞こえた。私の毛と違う。色気がスゴイ。〉
スローモーションのように髪の毛が落ちて来る。
〈綺麗。髪の毛が一本、一本、キラキラ輝きながら落ちていく。うん、埃じゃないわ。〉
空中を舞った黒髪が艶めかしく背中に落ちた。
目と耳だけではない。
周囲に漂う香りを胸いっぱい吸い込んだ結衣は、
〈いい匂い。〉
と、胸を躍らせる。
結衣はもっとたくさんの幸せ成分を得ようと前のめりとなる。
そんな結衣の口はとても残念なことになっていた。
先ほどからずっとポカーンと開けっ放しなのだ。
もちろん、ぽたりぽたりと涎が垂れっぱなしである。
今、結衣の集中力は極限に高まっている。
日露戦争で有名な明石元次郎。
彼の人が山県有朋との対談中に放尿していることすら気づかずに話をし続けたのと同じぐらいに・・・
結衣の目はギラリと光る。
〈次に描く武将の参考にさせてもらうわ。〉
落ちる涎が小さな水溜りを作っていることなどどうでもいい。
結衣は秋夜叉姫から目を離せない。
顔しか見ていなかった結衣の目は首から下へと移って行く。
「白い大鎧・・・」
結衣は武将を描き続けて来ただけに甲冑にもそれなりに詳しくなっていた。
だからこそ、汚れたらすぐに洗うことができない大鎧に白い糸を使っていることに驚いたのだ。
〈あぁ、すごい、スッキリした形状がよく似合ってる。とっても綺麗。何だか輝いて見えるわ。白銀の女武者みたい・・・〉
ますます口が開く結衣は、田沼家に伝来した練革空小札白糸威大鎧に似てるかも、と頭の隅で考える。
そして、胴の正面、弦走韋に施された意匠を見た結衣は、むむむ、と唸る。
〈一般的には不動明王が施されると思うんだけど・・・、何だろう。女性の姿だから金剛夜叉明王でもないし。まぁ、かっこいいから問題なし!〉
秋夜叉姫の黒髪と白い大鎧の組み合わせに悶絶した結衣だが、兜をかぶって欲しいと言う欲望がむくむくと湧いてくる。
〈聞かぬは一生の恥とも言うわね。〉
いや、正確には違ったかな、と首を捻った結衣の目に秋夜叉姫が腰に佩いている太刀が飛び込んで来た。
「うわっ、眩しい。」
あまりの眩しさに、結衣は思わず目をつぶる。
しかし、見たい。
どうしても見たい結衣は、うすーく目を開ける。
〈黄金の太刀ですか! やべぇ、やべぇよ。なんてものを見せてくれたんだい。しかも、至る所に螺鈿が施されて・・・。あっ、あれは、ムカデ。螺鈿細工のムカデとは恐れ入りました。〉
感嘆しまくる結衣は、『金地螺鈿毛抜形太刀』に似てるかなと思いつつも、白柄を見て違うと言う結論でまとめる。
もうお腹いっぱいです、とすっかり堪能した結衣だが、それは間違っていた。
秋夜叉姫が手に持っている朱塗柄の薙刀を見た結衣は思わず手を合わせた。
〈あの刃文は、もしや互の目丁子・・・。あぁ、綺麗。これぞ研ぎ澄まされた美。ありがたや、ありがたや。〉
拝み倒す結衣はピンと閃いた。
〈分かった。これは夢だわ。そうよ、私は山の中にある神社にいるんだもの。現実の世の中に国宝級のお宝をまとった美女がいるわけがないわ。〉
幾分か笑顔を引きつらせながら結衣を見ている秋夜叉姫に対して結衣は不意に欲情をもよおす。
〈そう、これは夢よ。夢なのよ。現実ではできないことも夢ならオッケー!〉
劣情に支配された結衣はニタリと黒い笑みを浮かべた。
〈うふ。うふふふ。夢ならば、この美女を裸にひん剥いて絵のモデルにしてもいいよね。水着キャラを描く仕事も受注したし・・・。自分の貧弱な体を鏡に晒して絵を描くのも限界だったのよ。全てを兼ね備えた美女を夢に登場させて下さった神様、感謝感激雨あられでございます。〉
邪悪モードに突入した結衣は、醜悪な笑みを浮かべる。
〈『お戯れを、お代官様。』って着物を脱がす時に言ってもらおうかしら。〉
真正の変態モードに突入した結衣に残された理性はもはや無い。
椅子から立ち上がった結衣は、ずいっと足を前に出す。
さぁ、お楽しみタイムの始まりだ、と歓喜の一歩を・・・