第40話 次五郎、怒る
突然、会話の中に飛び込んで来た雨情の話を聞く前に、もう一人の主役、次五郎に話を戻そう。
龍禅の前に跪いた次五郎は真っ暗なオーラを背負い、じっと地面を見つめていた。
顔を伏せている次五郎が考えていることに龍禅は思いを巡らす。
『自慢の弓が通用しなかった。
しかも、子供に・・・
あり得ない事態に動揺を隠しきれないのだろうな。』
実は、龍禅が思うように次五郎は放心状態ではなかった。
眼光鋭く地面を睨んでいたのだ。
3本目は別としても、2本の矢は実力で止められた。
その事実に、動揺もしたし狼狽もした。
しかし、次五郎は名誉を重んじる武士の一人である。
勝負に負けた悔しさよりも勇士に出会えた喜びが上回ったのだ。
子供とか、女とか、そんなことはどうでもいい。
天下一とも謳われる次五郎の弓の前に堂々と立ち、渾身の一撃を真っ向から破る強者がいたことに次五郎は歓喜した。
強敵と書いて友と呼ぶ!
まさしく、そんな気持ちだった。
だが、その歓喜を上回る衝撃が次五郎の全身を貫く。
次五郎は気づいてしまったのだ。
海徳に騙されていたことに・・・
まさに痛恨の極み。
己の愚かさが許せない。
馬鹿にしていた海徳にホイホイと乗せられていただけではない。
海徳の策略を素晴らしいと絶賛し、ノリノリで動いてみれば、なんと、騙されていたのだ。
もう笑うしかない。
〈八つ裂きにしてやる。〉
憎しみが心を染め上げていく。
そんな時、次五郎の良心が囁きかけて来た。
「でも、海徳様に騙されたと言う証拠は無いぞ。」
「いや、ある!」
これ以上の諍いを望まない良心が何を言おうとも、次五郎はきっぱりと断言できる。
3本目の矢を打ち終わった次五郎は、はっきりと見たのだ。
「次五郎を討ち逃したか・・・」
悔し気に呟いた海徳の口の動きを。
〈短気はダメだ。〉
本当にそう言ったのか、と次五郎は考え直す。
弓の名手と呼ばれ、数々の戦で手柄を立てた次五郎は、
『俺がいなければ、鷹条家はダメだ!』
と公言していたし、その通りだ、と周囲も納得していた。
〈俺と海徳の仲は絶望的に悪い。だからと言って、この俺を殺すだろうか。俺を殺したら、鷹条家も危ないよな。〉
海徳のことを散々に馬鹿にする次五郎だが、それは鷹条家のことを思ってのこと。
もっとこうすればいい。
ああすれば、もっと良くなる。
御家のためにと海徳のことを悪しざまに言い続けたのだ。
ゆえに、忠臣、次五郎は鷹条家から捨てられることなど夢にも思わなかった。
次五郎は考え直す。
「次五郎《《が》》討ち逃したか・・・」
そう、海徳が言ったのではないか、と。
しかし、次五郎は根拠のない自信をあっさりと捨てた。
自分の目を信じることにしたのだ。
次五郎には別名がある。
『鷹の目を持つ男。』
その名が示すように、次五郎は天から最高の目を与えられた。
天から優れた肉体を与えられた男が、心身を鍛え上げ、天下一とまで呼ばれるほどの弓使いになったのだ。
次五郎がいくら動揺していたとはいえ、ただ弓を射るだけの儀式の場で、海徳の唇の動きを見逃すはずが無い。
次五郎は自嘲するように笑った。
〈今にして思えば、俺を嵌める気満々だったのだな。〉
諸将の位置取り一つとってもそうだ。
儀式の前、沙魚丸を射殺した後のことを海徳は微笑んで語った。
「矢を放った後は、すぐにこちらに戻って来い。お前を守るために数名が駆け寄る手筈になっておる。」
「お心遣いありがとうございます。」
胸を詰まらせて答えた次五郎だが、正直なところ、鷹条の陣へ戻るつもりは無かった。
応援の武将と共に奮戦し、死ぬつもりだった。
しかし、矢を射終えた時、誰一人として次五郎のところへ来る気配はなかった。
そう、次五郎は最初から見捨てられることになっていたのだ。
自分を騙した相手を守るために死を賭して戦う。
なんと間抜けなことだろう。
このことに気づいた時、次五郎の心臓は屈辱のあまり張り裂けそうになった。
〈俺が死ぬところを背後でせせら笑うつもりだったのか・・・〉
次五郎は悔しさに唇を噛んだ。
口の中に鉄の味が広がる。
こんな情けない姿を龍禅にを見せれるわけが無い。
龍禅から褒詞を貰った時、お礼を言ったものの、それが精一杯だった。
どうやら、次五郎が激怒していることを龍禅は気づいてくれたらしい。
次五郎を放置してくれたことに感謝しなくては。
しかし、ガンガンと耳鳴りが続く。
次五郎の耳鳴りが収まったのは、焦りまくった雨情の声がした時だった。
◆◆◆
沙魚丸が龍禅の後を歩く。
雨情は微笑んで見ていた。
可愛い甥っ子が大活躍し、しかも、龍禅から褒詞を授かった。
さらに、褒美が与えられるのだ。
今まで沙魚丸のことを胡乱気に見ていた家臣たちが、口を開けて茫然と見ている姿も滑稽でしかない。
その中で最も雨情を愉悦させたのは、何を隠そう鷹条海徳である。
〈儂を殺そうとした企みが破れ、さぞ悔しいだろうな。〉
悔しそうな表情の海徳を愉快痛快と満足げに雨情は眺めていた。
だが、ん? と雨情は小首を傾げる。
「これは、勘違いをしておったな。」
儂としたことが、と言って雨情はニヤリと笑った。
海徳は怒りに燃えた目をまっすぐに沙魚丸に向けているのだ。
〈今日、初めて会った子供に企てを破られたのだ。分かるぞ、悔しいよなぁ。〉
他人事のように雨情は笑う。
だが、そんな余裕の笑顔を浮かべていられたのも束の間だった。
龍禅が蓮華一文字を褒美に与えると言った時、雨情は飛び上がらんばかりに驚いた。
そう考えたのは木蓮も同じ。
背後から慌てふためく木蓮の声がする。
「沙魚丸様が蓮華一文字を授かるとは。これは一大事でございますぞ。」
「分かっておる。でかい声で耳元で喚くな。由良様が龍禅様を翻意させようと頑張っておる。今は由良様を信じるしかない。」
しかし、由良の説得も儚く終わった。
龍禅がニコニコ顔で沙魚丸に蓮華一文字をポンと渡したのだ。
その光景に雨情の顔は引き攣った。
〈馬鹿者。そんな簡単に受け取るやつがあるか!〉
心の中で怒号を上げつつ、雨情はその場を後にした。
〈蓮華一文字は、沙魚丸には過ぎたるものだ。〉
大将を務めていようが、沙魚丸は大将代理でしかないし、庶子なのだ。
この戦で手柄を立てなければ、僧になることが決まっている。
だが、蓮華一文字を龍禅から拝領したことで、寺送りは免れた。
それだけは間違いない。
だが、蓮華一文字は西蓮寺家の宝。
沙魚丸が拝領するには名器すぎるのだ。
その衝撃は、ごく普通にいる幼稚園児のお年玉に1億円の現金がポンと手渡された、と同じぐらいだろうか。
過去、椎名家当主は西蓮寺家から太刀を授かったことがある。
だが、当代で西蓮寺家から何かを拝領した者など誰もいない。
しかも、椎名家の誰もが見たことの無いような素晴らしい脇差を拝領したとなると、椎名一族の全員から嫉妬を受けることは間違いないだろう。
これが雨情ならば、問題はないのだ。
嫉妬を受けようが、誰にも文句を言わせない。
椎名家の筆頭家老と言う地位もあるし、椎名家で最も戦が強いからだ。
しかし、沙魚丸はダメだ。
嫉妬を跳ね返す力が沙魚丸には無い。
そんなことぐらい龍禅は知っている筈だ。
いや、誰よりも知っているだろう。
西蓮寺家の庶子として生まれたはいいが、疎まれた龍禅は寺へ送られ、兄たちの死により、還俗し下房の国に下向して来たのだから。
下手をすれば、蓮華一文字を巡って、椎名家の中で戦いが起きるかもしれない。
そんな思いに駆られ、雨情は龍禅に再考を願ったのだ。
息遣いの荒い雨情を見た龍禅はニヤリと笑った。
「雨情。心配するな。お前の気持ちはよぉく分かっておる。」
「では・・・」
撤回してくれるのか、と期待する雨情だが、この先の展開が全く読めない。
〈龍禅様が何をお考えなのかさっぱり分からん。〉
焦れる雨情だが、このひりついた雰囲気を楽しむように龍禅は由良へと口を開く。
「沙魚丸は元服前と言うことだ。そこで、余は素晴らしい考えを思いついた。」
「なりませぬ。絶対にダメでございます。」
「何も言うておらんではないか。」
「某には、龍禅様が何も言わなくても分かるのでございます。きっと、とてつもなく皆が困り果てることを言うのでしょう。」
「何を言うておる。皆が喜ぶに決まっておる。まぁ、聞け。」
ゴホン、と龍禅は咳払いを一つした。
静寂が空間を支配する。
この場にいる男たちのほとんどは、今、龍禅に魅せられていた。
何を言うのだろう、と期待を込めて聞き耳を立てる。
「余が沙魚丸の烏帽子親になってやる。どうじゃ、よい考えであろう。」
空気が変わった。
今までひりついていた空気が急に重くなる。
青空から青色が無くなった。
灰色の世界の到来。
〈この空気は、しゃべっちゃダメだわ。もうひたすら平伏よ。沈黙は金。これしかないわ。〉
沙魚丸は頭を深く下げ、地面を見つめる。
ただし、耳の精度を最高に上げる。
100メートル先にいる鹿が紅葉を踏み分け歩く音が聞こえるぐらいに・・・
男たちは絶句した。
この龍禅の言葉を喜ぶ者など誰一人としているわけが無い。
鷹条家の内実を知っている者ならば、なおさらのこと。
いや、ただ一人だけ極楽行きが決定したかのように、ウキウキする者がいた。
その名は次五郎。
次五郎は、さっきまでの怒りや憎しみが嘘のように消し飛び、踊り出したくなる誘惑を必死で抑えていた。
平伏した顔を少しだけ上げる。
いつの間にか、次五郎の横で座した海徳の様子を見るために。
雨情が龍禅に近づいたことで、海徳も出て来ざるを得なかったのだ。
〈龍禅様。最高です!見てください。海徳のあの顔。苦虫を噛み潰したような顔をしております。この顔は俺が今まで見た海徳の顔で一番いい顔をしております。〉
こみ上げて来る笑いをこらえた次五郎は頑張りに頑張りを重ねて、くっくっく、と含み笑いに留めることに成功した。
〈烏帽子親かぁ。一言で言えば、後援者なのだが・・・。しかし、龍禅様はお忘れなのかね。鷹条家では誰の烏帽子親にもなっていないことを。〉
実は、鷹条家では長男の海仁が既に元服を終えていたため、龍禅に烏帽子親を頼まなかったのだ。
では、次男を頼めばいいのでは?
そんな疑問は鷹条家では禁句である。
長男の出来はあまりよろしくない。
だのに、次男の烏帽子親に龍禅がなると、どうなるか。
御次男を跡継ぎに!
そんな痴れ者が雨後の筍のようにニョキニョキと現れ、お家騒動に発展すること待ったなし。
そう考えたからこそ、後ろ髪を引かれる思いで、海徳は烏帽子親を頼まなかったのだ。
片や、椎名家長男の龍久の烏帽子親は龍禅である。
しかも、龍の字まで与えられた。
鷹条家としては非常に面白くない。
〈龍久様の烏帽子親になると決まった時には、馬鹿殿、とんでもなく暴れたよなぁ・・・。まぁ、あれから、龍禅様への束縛は激しくなったのだが。〉
次五郎は遠い目になるが、すぐにニヤッと笑う。
〈沙魚丸様の烏帽子親を龍禅様がおやりになるのか。鷹条家の内実を知らない者たちは、鷹条の力も大したことがないと思うだろう。気が早いものは、椎名に寝返る者が現れるかもしれん。いやー、龍禅様は天然で面白い。本当に最高。〉
次五郎の妄想は、龍禅のおかげで絶好調である。




