第35話 試射
いよいよ、『矢つかみの儀』が始まる。
ドッドッドッ、と沙魚丸の胸が早鐘を打ち始めた。
〈し、心臓が口から飛び出す・・・〉
極度の緊張が沙魚丸の心を不安へと染め上げていく。
同時に、沙魚丸の顔色は真っ青を通り越し、真っ白へと変わっていく。
だが、それも仕方が無いのだ。
何しろ、沙魚丸は人生で一度も脚光を浴びたことが無いのだから。
突然、体の中から非常警報が発せられる。
込み上げてくる衝動に耐え兼ねて、沙魚丸は口を両手ではっしと押さえた。
〈ヤバい、吐いちゃう。〉
ぐわっと胃からせり上がってくる酸っぱい液が口内に達した。
ギリギリだった。
何とか、沙魚丸は耐えたのだ。
偉業と言えるだろう。
噴射し、まき散らすことなく済んだのだから・・・
再び、胃の中へと強引に液を飲み込んだ沙魚丸は、口の中をサッパリさせようと竹筒から水をグビグビと流し込んだ。
〈マジで危なかったわ。〉
ヤレヤレ、と気を抜いたのがマズかった。
バシバシと矢が突き刺さるシーンが頭の中にくっきりと浮かんでくるのだ。
私、死ぬのかな・・・
ポツリと漏れ出た言葉。
自分の言葉が、頭の中でリフレインする。
すると、両目から涙がぽろぽろとこぼれ落ち、頬を濡らし始めた。
「大丈夫です。沙魚丸様なら、きっとできます。」
そう言って、小次郎が涙を優しくぬぐった。
ずずーっ、と音を立てて鼻水をすすった沙魚丸はぼそぼそと話し出す。
「絶対に無理です。私、刀すら持ったことないんです。」
「秘儀があります。」
えっ、と驚いた沙魚丸の膝に小次郎はそっと手を置いた。
「祭場に立ってからは、何も考えないで下さい。体に任せれば、すべてうまくいきます。」
小次郎が何を言っているのか理解できない沙魚丸だったが、なぜか、元気が出てきた。
〈不思議。小次郎さんに励まされて、怖くなくなったわ。〉
ありがとう、と言おうとした時、
「沙魚丸様、お時間です。本丸へお越しください。」
鷹条家の兵が沙魚丸を呼ぶ。
胸に手を当て大きく息を吐いた沙魚丸は、パシンと頬を打つ。
気合を入れた沙魚丸に小次郎が手を差し出した。
「参りましょう!」
微笑む小次郎の手をしっかりと握った沙魚丸は勢いよく立ち上がる。
だが、足を踏み出そうとした沙魚丸だが、一歩が出ない。
〈頑張れ、私。やるしかないんだから。ねぇ、動いてよ、足。〉
もう大丈夫なはずなのに・・・
言うことを聞かない体に沙魚丸は苛立つ。
どうして、と唇を噛みしめる沙魚丸の背中に小次郎が回り込む。
「申し訳ありません。鎧の紐が緩んでおりました。」
小次郎が甲冑の紐を確認し始める。
心を込めて行う小次郎の姿に沙魚丸の胸ははじんわりと温かくなってくる。
驚くことに、紐の確認と言いつつ、小次郎は体をさすってくれていたのだ。
おかげで、沙魚丸の体は絶好調となる。
〈小次郎さんが優しすぎる。そうだ、さっき小次郎さんが言ってたことを聞いてみよう。〉
よく分からないが、万歳させられている沙魚丸は、間抜けな格好だなと思いながらも話を切り出す。
「何も考えるなって言うのは、どういうことですか。」
「沙魚丸様と私は矢を叩き落す修行を繰り返し行っております。ですので、飛んで来た矢を叩き落す技を体が覚えております。」
「と言うことは・・・」
「放たれた矢をしっかりと見さえすれば、後は体が自然と叩き落としてくれます。」
「凄い!」
感嘆の声を上げた沙魚丸には、生き残る一筋の光が見えた気がした。
〈もう、無理と思っていたけど、さすがは沙魚丸君の体ね。〉
ぱぁっと表情を明るくする沙魚丸に微笑んだ小次郎は言葉を続ける。
「それでは、目をつぶって下さい。」
「はい!」
元気よく答えた沙魚丸は言われた通り、素直に目をつぶった。
小次郎の言うことに従えば、何とかなる気がしてきたのだ。
〈もうちょっと早く教えてくれてもよかったのに・・・〉
などと、心の中でちょっと不満を漏らすぐらいに元気にもなっていた。
しっかりと目をつぶったことを確認した小次郎はゆっくりと言葉を紡ぐ。
まるで暗示をかけるように。
「思い出してください。矢を叩き落す修行を。矢をしっかりと見るために体を木に縛り付け、マトになったことを。飛んで来る矢を手でつかんだことを。連射の矢を打ち落としたことを。あれだけの厳しい修行をしてきたのです。沙魚丸様なら必ずできます。できない訳がありません。」
途中、マジか、とツッコミたくなる内容が幾つかあったが、小次郎の言葉を全身に沁み込ませた沙魚丸は勇気凛々としてきた。
目をカッと見開いた沙魚丸は、
「必ず、矢を叩き落してきます。」
と言い切った。
そして、しっかりした足取りで儀式が行われる本丸へと向かう。
本丸に着いた二人は、しめ縄が張られた祭場を目にした。
〈本当に神事なのね。〉
沙魚丸が感心して、周りを見渡すと、各家ごとに見事に場所が分かれていた。
式場を挟んで鷹条家と椎名家が真向かいに座っているのを見た沙魚丸は、
「随分な扱いね。」
とボソリと呟いた。
椎名家が20人ほどの人数でちんまりと座しているのに対し、鷹条家はざっと見ても2百人の兵がひしめいているのだ。
中央には、きらびやかな武将が座っている。
〈あれが総大将かしら。ここからだと顔は遠くてよく分からないけど、鎧が一番豪華だから、きっと総大将ね。〉
うんうん、と頷く沙魚丸。
だが、違うかも、と首を捻る。
その武将を囲む兵の数が10名ほどと最も少ないからだ。
〈総大将の兵が一番少ないかなぁ?〉
どういうことだ、と沙魚丸が悩んでいると、使者から声をかけられた。
「沙魚丸様、総大将に名乗りを上げられよ。」
〈やっぱり、総大将なのね。〉
私の観察力も捨てたもんじゃないわね、と足を踏み出した。
兵の中を悠々と歩く沙魚丸を
「若様、頑張れよ!」
などと鷹条家の兵が囃し立てきた。
娯楽など、ほとんど無い時代。
しかも、合戦前の軍内で、鷹条家の援軍に来た他家の若様らしき子供が命を賭けて演武を行うのだ。
〈儀式と言うより。見世物ね。〉
途中で沙魚丸は妙な違和感を抱く。
甲冑が立派な者ほど、声一つ立てずに静かに床几に座っているのだ。
〈まるで嵐の前の静けさみたい。〉
沙魚丸の勘は当たっていた。
海徳の謀は、鷹条軍の全兵士に下達されてはいない。
あくまで、兵をまとめる部隊長である頭にのみ知らされていたのだ。
騒然とした中で、やや後ろを歩く小次郎がそっと囁く。
「ちょうどいい機会です。ここで沙魚丸様の実力を鷹条家の者どもの目に焼き付けてやりましょう。そして、龍禅様にお褒めの言葉をいただくのです。」
「いただきましょう。」
気合の入った小次郎の声に沙魚丸も力強く答える。
〈これが龍禅様かぁ。ここにもイケオジがいるとは・・・〉
イケオジに会う遭遇確率の高さに疑念を感じつつ、沙魚丸は龍禅の前で片膝をついた。
「椎名家大将、椎名沙魚丸。矢を払いのけ、不吉を祓い、お味方大勝利を戦神様から授かるよう、お役をあい務めます。」
「沙魚丸様の介添、千鳥ヶ淵小次郎と申します。」
二人の名乗りを聞いた龍禅は、うむ、と静かに頷いた。
続いて、沙魚丸の横に跪いた男が名乗りを上げる。
「鷹条家が弓頭、茄子次郎五郎、射手を務めまする。当方、介添は無用。」
チラッと沙魚丸は、名乗りを上げた次五郎を見た。
〈おおう、ゴリラっぽい。あっ、でも、イケメンだよね。昭和のハリウッドスターみたいな感じかしら。〉
沙魚丸が次五郎の見かけに評価を与えた時、龍禅が口を開いた。
「うむ。次郎五郎のことはよく耳にしておる。確か、次五郎と申しておるのだったな。」
「その通りでございます。」
「次五郎は愛用の弓ではなく、妹御の弓を使うと聞いたが大丈夫なのか。」
「はっ。某の弓を使いますと、沙魚丸様では一本の矢も払えないと危惧いたしました。そこで、妹の弓ならば、きっと沙魚丸様でも大丈夫と考えた次第でございます。」
「そうか。次五郎は優しいのだな。」
龍禅のゆったりとした声を聞いた沙魚丸の心はメラメラと燃え上がる。
〈いやいや、龍禅様、こいつ優しくないですよ。私を馬鹿にしてるだけです。こう言う嫌味を言う奴の矢は真っ直ぐ飛ぶわけありません。3本とも叩き落して、悪女の定番、高笑いをしてやるので特等席でご覧ください。〉
ふっふっふ、と密かに笑っていると、龍禅に話しかけられた。
「沙魚丸よ。これほど次五郎に優しくされたのだ、必ず成功させねばな。」
「はい。一本残らず、叩き落してご覧にいれます。」
目に炎を宿した沙魚丸をじっと見た龍禅は、微妙に目に憐れみを湛えた。
ふいっと沙魚丸から目を次五郎に移した龍禅は首を傾げる。
「次五郎。其の方の箙には随分とたくさんの矢が入っている様に見えるが。」
「万が一に備えるは武門の心得でございますから。」
「なるほど。だが、これは神事。3本で臨むがよい。」
龍禅の言葉を聞いた海徳が目をいからせた。
それはそうだろう。
当初の計画では、仇討ちとばかりに押し寄せる椎名兵を次五郎が弓でバッタバッタと射抜く予定だったのだから。
それは次五郎も同じだった。
だが、龍禅の言葉を拒否することは次五郎にはできない。
〈俺の命も今日限りか。〉
フッ、と次五郎は笑った。
次五郎としては、椎名兵に矢を放ちながら鷹条家の囲みに退く予定にしていたのだ。
矢など放たず、一心不乱に鷹条家の中へ逃げ込めば、いいのでは?
そんな考え、次五郎には毛頭ない。
『後ろ傷は恥辱』と幼少の頃から教えられてきたのだ。
背中を見せてあたふたと逃げるぐらいなら、猛き武士として堂々と切り結び、前を向いて死ぬ。
覚悟を決めた次五郎は清々しい表情で龍禅に答える。
「かしこまりました。」
「では、両者、儀式の準備を。」
龍禅の側に控えていた老武者が沙魚丸と次五郎に告げた。
二人は龍禅に一礼して退く。
龍禅は立ち去る沙魚丸の背中にボソッと呟いた。
「若武者よ、すまんな。私にできるのはここまでだ・・・」
控え場に着いた沙魚丸が椎名家の方向を見ると、なんと全員が杯を持っているではないか。
〈ええっ、あの人たち、お酒を呑んでるの。完全にお祭り気分じゃない。〉
だが、これは沙魚丸の勘違いだった。
後で教えてもらうのだが、雨情たちが交わしていたのは水杯だった。
この世でもう二度と会うことは無いだろう、と酒の代わりに水を飲み交わしていたのだ。
そうとは知らない沙魚丸は、ムウッと頬を膨らませる。
〈あいつらぁ、私が死にそうなのに、楽しそうに呑みやがってぇ。なんて羨ましいことを。後で覚えてなさいよ。後があるかどうかしらないけど・・・、いや、絶対に生き残って、私も呑んでやる。〉
バシッ
その時、矢が的に当たった音が響いた。
沙魚丸が酒盛りに気を取られている間に、次五郎の試し打ちが始まったのだ。
それを見ていて、沙魚丸の背中に冷や汗が吹き出した。
〈何あれ。〉
沙魚丸は話が違う、と茫然とした。
女用の弓と聞いた時、なぁんだ、と沙魚丸はすっかり気を抜いてしまった。
ビュッと目にもとまらぬ速さで飛んでくる、とビビり散らかしていたのに、女性用と聞いて、放物線を描いてのんびり飛んでくると勝手に思ってしまったのだ。
この落差は痛い。
沙魚丸のキモは冷えに冷えまくる。
「小次郎さん、あれ、本当に女性用の弓なの。」
それは、と言って小次郎は言葉を呑み込んだ。
茄子旭と言えば、男勝りの弓使いで有名なのだ。
その弓も女性用と言っていい代物ではない。
〈あの弓は、恐らく、私の弓よりも強い。〉
そのことを素直に伝えれば、沙魚丸は自信を無くしてしまうだろう。
そして、しょんぼりと祭場に立つことになる。
勝負において、最初から気合で負けていてはダメなのだ。
小次郎は動揺を悟られないようニッコリと笑う。
「よく思い出してください。私たちが修行した弓は、もっと強く、もっと速かったですよ。次五郎様の愛用の弓ならば、私も払えません。ですが、あの程度ならば、沙魚丸様であれば、目をつぶっても楽勝です。」
少し言い過ぎか、とも思ったが、これで沙魚丸が自信を取り戻すなら、と自分を納得させる。
そして、そっと沙魚丸の様子を窺えば、何と言うことだろう。
ニコニコとしているではないか。
〈あぁ、単純な御方で良かった・・・〉
小次郎はホッと胸を撫でおろす。
亡き沙魚丸であれば、とてもではないがこんな簡単にいかなかっただろう、と思いながら。
さて、奇妙な自信をつけた沙魚丸は、心配そうな表情をしている源之進と目があった。
今回の『矢つかみの儀』に沙魚丸の介添を許されたのは小次郎のみ。
源之進は雨情の横でじっと見守るだけである。
大丈夫、とブイサインを送ろうとした沙魚丸は、待てよと考え直す。
〈この時代にブイサインは無いよね。〉
源之進にモーマンタイと笑顔を見せた沙魚丸は、大丈夫と胸を叩く。
それを見た源之進もニッコリと微笑んで、大きく胸を叩くのだった。
「沙魚丸様、最後のお仕度をいたしましょう。」
小次郎に再度、刀の確認をしてもらった沙魚丸は、刀を鞘に戻し、兜を被せてもらう。
「では、行ってきます。」
乾いた声で告げると、小次郎が沙魚丸の手を強く握りしめる。
「大丈夫です。必ずできます。ご武運を祈っております。」
力強く励ます小次郎の声に、沙魚丸はしっかりと頷き、定められた場所へと歩く。
沙魚丸は歩きながら小次郎が言っていたことを思い出す。
「余計なことを考えず、沙魚丸様の体に任せてください。」
〈小次郎さんに言われたでしょ。大丈夫って。〉
そして、先ほどの次五郎の弓の威力を思い出す。
もう、沙魚丸にも分かっていた。
〈儀式の名を借りて、椎名家大将の私を殺す気なのね。〉
小次郎が言っていた修行のことを必死で思い出す。
そうすれば、死ぬかもしれないなどと余計なことは考えないでいいのだから。




