第3話 大鍬形城
車から降ろした折りたたみ自転車を組み立てると、結衣は
「よっこらしょっ」
と、サドルにまたがった。
DAFFON製ブラックファルコ
結衣のおしゃれな相棒。
今のところ、名は付けていない。
この自転車は社長の奥様からのお下がり。
しみったれてるなぁ、などと思ってはいけない。
なんと奥様の使用回数は1回だけ。
距離数にして数百メートル・・・
折りたたみ自転車で遠出する仲のいい夫婦に憧れた社長が奥様にプレゼントしたおそろいの自転車だそうだ。
夫婦の愛の絆とも言うべき自転車が、なぜ、結衣の保有するところとなっているのか。
答えは簡単である。
奥様がくれたのだ。
決して、結衣がおねだりしたのではない。
◆◆◆
ずっと前から茶利沼のサイクリングロードが走りやすいとの話を聞いていた社長。
歌劇をこよなく愛する文化人の奥様をあろうことか汗だくでペダルを踏みまくる野外活動に連れ出したのだ。
茶利沼の駐車場で自転車を組み立てた社長は奥様を先頭に颯爽とサイクリングロードを走り出す。
しかし、ものの数分で奥様は自転車を路肩に緊急停止する。
ウッキウキの社長に振り返った奥様の目はきっと吊り上がっていた。
「もう無理。帰る!」
絶叫した奥様が二度と乗らない宣言をしたのは、帰路の車中であった。
「逆風で全然進まないし、道の真ん中にカマキリがカマを持ち上げて通せんぼしてるのよ。こうやって!」
両手を持ち上げ、カマキリのポーズをする奥様に、あはは・・・、と結衣の笑顔は引きつる。
「トドメは、蛇よ、蛇。大きな蛇がにょろにょろーって草むらから出て来たの。信じられる? 乗って数分よ。それ以上乗っていたらどんな目に会うか・・・」
「それは大変でしたね・・・」
心から衷心を表す結衣に、ありがとう、と微笑んだ奥様はため息をつく。
「結衣さんがお城の虜になったってうちの人から聞いた時はね、本当に驚いたの。だって、うちの人が無理やり城好きに洗脳したかと思ったの。」
いやいや、洗脳は無いですからと苦笑いをしつつ手を振る結衣に黒い袋を差し出しながら奥様は話を続ける。
「でも、今日あなたとお話して、そうじゃないと分かって安心したわ。だから、これを上げる。」
結衣が袋を開けると、中から折りたたみ自転車が現れた。
〈こっ、これは、私が買うかどうするか悩んで悩んで、断念した自転車ではないですか!〉
結衣でも気軽に持てるほど軽量かつ変速機付きの高級機自転車が結衣の目の前にちょこんと鎮座しているのだ。
ポカーンと自転車を見ている結衣に奥様が微笑む。
「私は二度と乗らないから貰ってちょうだい。これが家にあるとね、またサイクリングに行こうって、あの人が言う日が来るに違いないわ。お城の虜になったあなたにはこれが必要なはずよ。」
「あっ、ありがとうございます。」
電動自転車をこよなく愛する奥様からプレゼントされた折りたたみ自転車は、奥様の予言通り、今では無くてはならない結衣のお城探訪の仲間である。
◆◆◆
自転車にまたがった結衣は山を見上げて、腕を組んだ。
「自転車を押して山を登るのは無理ね。社長のように担いで登山する方法もあるけど・・・」
独り言ちた結衣は、ありえないと首を横に振る。
〈無理、無理。軽いと言っても2リットルのペットボトル数本分の重さはあるもの。はい、無理です。〉
大人しくどこかしっかりと鍵をかけれる場所を探すことにした。
駐車場の端っこにある鉄パイプに愛車をU字ロックすると、大きく深呼吸し、周囲をキョロキョロとした結衣は、誰もいないわね、と呟く。
そして、腰に手を当てた結衣は、ふん、と鼻を鳴らす。
「さぁ、大鍬形城ちゃん。行くわよ。」
張り切って一歩を踏み出した結衣の目に一枚の看板が飛び込んで来た。
『熊出没注意!!』
真っ赤な背景に大口を開け両手の爪を突き立てた黒い熊が描かれ、今にも食べちゃうよと言わんばかりの看板が沙魚丸を出迎える。
バックパックから取り出した熊避け鈴を腰ベルトに結衣は取り付ける。
チリンチリーンチリーン、と結衣の前途を祝福するように可憐な音が響き渡った。
〈昨日の夜、ルートはしっかりと確かめたし、地図も取り出した。さぁ、出発だ。〉
ひんやりとした空気が山を包み、うっそうと高く生い茂った木々が日の光を遮る。
昼間にも関わらず薄暗い山道をザクッ、ザクッと軽快な音をたてて落ち葉を踏み分けて結衣は進む。
大鍬形城の大手口へと続く尾根をハァハァと息を荒げている結衣は、ようやく見つけた城の遺構を前にニヤリと笑う。
どの遺構を見ても、結衣が言うセリフは決まっている。
『うぉー、すげぇぇぇぇ。こっれはヤバい。』である。
この社長直伝のセリフを遺構に出会うたびに言いまくったため、結衣の声は山頂にある主郭に着いた時にはすっかり嗄れていた。
主郭とは、言ってみれば、お城で一番大事な場所。
満面の笑みを浮かべた沙魚丸はバサッとレジャーシートを広げた。
そう、沙魚丸は今からお昼ご飯を食べるのだ。
〈ふっふっふ。私は社長と違って、山ごはんの楽しみを知ってるのよ。〉
山ごはん上級者と豪語する結衣が持ってきたのは早起きして作ったタマゴサンドである。
ズズーッ、と音を立てて温かいコーヒーを飲む結衣はいいことを思いつく。
〈社長が山ごはんを楽しむように仕向けよう。凝り性だから、きっとフル装備で山ごはんに挑むはずよ。〉
山の上で食べる袋麵や鍋を想像し、結衣はジュルリと垂れる涎を拭う。
そんな楽しい未来を妄想し、お昼を食べ終わった結衣は、社長が気に入りそうな写真をうろちょろ動き回って撮りまくる。
そして、撮影の手を止めた結衣は木々の隙間から町を眺める。
〈そう言えば、ここの名物は今川焼だったわね。しかも、中身がずんだあん!〉
和菓子が大好きな結衣のモチベーションは一気に跳ね上がる。
帰り道に選んだのは来た道ではない。
地図でしっかりとルートを確認する。
「帰りの見どころは、井戸跡と野面積みの石垣ね。今川焼のためにもがんばるぞー。」
掛け声とともに出発した結衣は素晴らしい遺構の前でウットリしすぎて時間が無いことに慌てるものの、帰路をまあまあ順調に進んで行く。
だが、三叉路を前にして立ち止まった結衣はハタと悩む。
右の道は下って行く。
左の道は登って行く。
〈来た道を引き返すのは、ちょっとなぁ・・・〉
結衣は右に左に首を数度振る。
そして、ポケットから地図を取り出した結衣はじぃーっと見る。
〈無い、無いよね・・・〉
なぜか、地図上に三叉路が存在しないのだ。