第28話 月に千鳥
異変。
それは、源之進の甲冑だけではない。
美しかった星空が消え、明るみを帯びてきているではないか。
沙魚丸は目を疑った。
〈源之進さんの甲冑姿はササッと着替えたのね、で済むけど、夜空が終わりを告げたとなれば、話は別。まさか・・・〉
嫌な予感を振り払うようにパパっと右に左に頭を振った沙魚丸は、もはやこれまで、と観念した。
焚火は消え、人がわんさかと出立に向けて準備をしているのだ。
その瞬間、やらかしたーと言う呟きと共に沙魚丸は天を仰ぐ。
〈嘘でしょ。ちょっと目を瞑っただけのはずなのに・・・。〉
『あぁぁぁぁぁ・・・』
と嘆きの声を上げて、地面を連打したい衝動に沙魚丸は駆られた。
だが、前にいる源之進の優しい視線に気づき、慌ててすまし顔になる。
「えっと、私、話し中に寝てしまいました?」
「はい。体を揺すってもビクともされませんでしたし、小次郎も時を同じくして寝てしまいました。残念ですが、お話はまた後日にいたしましょう。」
苦笑交じりに話す源之進の声音に沙魚丸は肩を落とす。
〈話の途中で爆睡するとかレディとしてありえない。恥ずかしい・・・〉
源之進に渡された手ぬぐいで顔を拭いた沙魚丸は、ピクリと片眉を動かす。
〈待って、待って。小次郎さんも寝落ちしたのよね。と言うことは、魂の離脱と憑依が原因かもしれない。そうよ、焚火に炙られて気持ちよくなって寝ちゃうとかさぁ、子供じゃあるまいし。うん、違うわ。〉
幾らなんでも、お話し中に寝落ちするような失礼な人間じゃないわ、と沙魚丸は手ぬぐいを握りしめた。
トントンと源之進に肩を叩かれた沙魚丸は我に返る。
「すぐに出発となります。さぁ、早くお仕度をいたしましょう。」
「了解です。」
沙魚丸はサッと立ち上がる。
ここで重大な事に気がついた。
いつもの寝起きと全く違うのだ。
〈ナニコレ、頭が爽やか。体も軽い。目がパッチリ開いてるじゃない。まるで別人の体みたい。〉
あっ、別人の体だった・・・、と沙魚丸は失笑する。
グッバイ、低血圧の体。
私はこの体で必ず幸せになるわ。
そう誓ったところで、とんでもない空腹感に襲われた。
〈早くお仕度をってことだから、さっさと朝ごはんを食べないといけないわね。〉
朝からしっかり食べる派の沙魚丸は、今日の朝ごはんは何だろう、とキョロキョロして獲物を探す。
「ここでは朝食はありません。目的地に用意されておりますので、もうしばらくご辛抱ください。」
何にも言ってないのに、源之進に微笑まれてしまった。
〈そんなに腹ペコな顔してたのかしら。やんなっちゃう。〉
恥ずかしさのあまり、沙魚丸は顔をゴシゴシこすった。
そして、源之進に手伝ってもらい無事に鎧を纏った沙魚丸はすっかり興奮状態になる。
〈うぉー、かっけー。なにこれ。やばい、鼻血が出ちゃう。〉
そう、沙魚丸は博物館などで数々の鎧を見て来たが、実際に身につけるのはこれが初めてなのだ。
当然、本物の鎧に触ったことも無い。
なので、狂喜するのも仕方がない。
さらに、沙魚丸を乱舞させる要素がある。
静岡市歴史博物館にある『紅糸威腹巻』にそっくりな鎧とくれば、沙魚丸が喜びのあまり気を失いかけるのも分かるだろう。
〈さぁ、もう少しで着用も終わりだわ!〉
ウキウキの沙魚丸は声も軽やかに源之進に話しかける。
「最後は兜ですね!」
すると、わずかに顔を曇らせた源之進が
「兜はいざと言う時にかぶりましょう。今は沙魚丸様の凛々しいお顔を皆にお見せいたしましょう。」
と微笑んで答えると、私も準備をして参ります、と立ち去ってしまった。
んん?
と一人取り残された沙魚丸は小首を傾げた。
話し相手の微妙な変化を読み取れないほど、沙魚丸は鈍感ではない。
人の顔色を伺い、相手を思いやる心がなければ、零細企業の事務員などやってられないのだから。
〈あっ、やっちゃった・・・〉
沙魚丸は兜の記憶に触れ、口にしたことを後悔した。
〈これ、龍久兄さまの甲冑だったのね。本家から追い出された沙魚丸君がこんな立派な鎧を持ってる筈が無いって、どうして気がつかなかったんだろう。〉
今、沙魚丸が着けている鎧は、兄龍久が元服する際の贈り物として祖父の椎名秀久が都の著名な甲冑師に依頼して作らせた逸品である。
もちろん、お揃いの兜もちゃんとある。
鉢は鉄黒漆塗りの三十二間筋兜で、錣は鉄黒漆塗板札を紅糸で威したもの。
黒地に紅が映え、ため息が出るほどに美しい兜である。
とは言え、兜は兜。
実用品の兜は使ってこそ価値がある。
この美しい兜を沙魚丸が着けれないのは、なぜなのか。
問題は前立てにあった。
前立てとは兜の前面に付けられた飾りである。
この兜には、金箔で施された椎名家の家紋である『月に千鳥』の前立てがついている。
龍久の実母、正室の茜御前は庶子の沙魚丸を椎名家の一員とは認めていない。
もし、認めてしまえば、実子に万が一のことがあった時、沙魚丸が椎名家の跡取りとして担ぐ者が現れることを恐れるが故に。
そのため、茜御前は頑として沙魚丸に家紋入りの兜の貸し出すのを拒んだ。
龍久がどのように言葉を尽くしても・・・
代わりとして、蔵の片隅で眠っている兜を沙魚丸に渡すように指示した。
本来であれば、この裏話を沙魚丸が知るわけがない。
だが、甲冑を渡しに千鳥ヶ淵家を訪れた小役人と源之進との会話を偶然に沙魚丸は聞いてしまった。
昔であれば、この小役人は源之進に頭を下げる立場であったのだが、今はすっかり立場が逆転していた。
いや、源之進の地位が下がったと言うべきだろう。
小役人は居丈高な態度で源之進の屋敷に乗り込むと、案内されるまでもなく上座にどっかりと座り、下座で平伏している源之進に
「小汚い屋敷ですなぁ。」
と開口一番、小役人らしく嫌味を飛ばした。
コッソリとこの様子を覗いていた沙魚丸は歯ぎしりして拳を握りしめる。
〈虎の威を借りる狐のくせに、源之進を馬鹿にしおって。叩き切ってやろうか。〉
衝動的に鯉口を切った沙魚丸だが、自分の為に源之進は耐えているのだ、と心を鎮める。
何かゴチャゴチャと恩着せがましく述べた小役人は、小者に運ばせた甲冑を更に上座に置くと、グイッと胸を反らす。
「沙魚丸様に対して、有難くも龍久様が元服時に纏われた甲冑をお貸しくださることが決まった。聞けば、源之進殿も沙魚丸様を補佐し出陣されると言う。少しでも武功をお立てになることを祈っておりますぞ。」
ウヒョヒョヒョ、と笑った小役人は言葉を付け足した。
「まぁ、沙魚丸様をお守りするのが精一杯で槍働きも難しいでしょうがな。」
そう言って、下卑た笑いを浮かべる小役人にそれまで平伏していた源之進はキッと顔を上げた。
「今回の御出征は龍久様がご病気のため、沙魚丸様が代理として大将を務めるもの。本来であれば、龍久様の弟君、桔梗丸様が大将のお役目を務めるが道理。だが、沙魚丸様が大将を務めることとなりました。秀久様ならびに茜御前様に家紋入りの兜をご用意いただけるようご進言を願いたい。」
滔々《とうとう》と述べた源之進に、突如として怒声が浴びせられた。
「黙れ。慮外者。御当主秀久様と茜御前様の御意志に異を唱えるか!」
興奮のあまり立ち上った小役人は、わなわなと体を震わせ、目を血走らせている。明らかに錯乱している様子に、これはまずい、と思った源之進は穏やかな口調で小役人に話しかける。
「まずは、落ち着かれよ。」
「儂を馬鹿にするな!」
喚くように叫んだ小役人は、手にしていた扇子を振り上げ、何と源之進の頭をしたたかに殴打したのだ。
額に血をにじませた源之進は、フウッと息を吐くと背筋をしゃんと伸ばし、小役人に向き直り、
「兜の件、おとりなしをお願いする。」
と頭を下げた。
すると、小役人は折れた扇子を源之進に投げつけ、
「茜御前様に逆らう愚か者め。儂は知らん。」
と怒鳴り、逃げるように屋敷を走り去って行った。
その後、兜と鎧をじっと見ていた源之進は兜と鎧を別々の鎧櫃にしまった後、庭で何かを断ち切るように刀を振るっていたところまでが沙魚丸の記憶に残っていた。
〈源之進さんの背中がとっても悲しそうで、これ以上、沙魚丸君も辛くて見てられなかったのよね。こんな重要なことを思い出さないなんて、私、本当に馬鹿だわ。沙魚丸君が気を遣って、あれからずっと兜のことを一言も触れなかったのに・・・。全部、台無しにしちゃった。〉
沙魚丸が落ち込んでいると、いよいよ出立の時間となった。




