第18話 八上姫
プツン
沙魚丸の中で何かが切れる音がした。
その音をきっかけに、沙魚丸の頭がぐらんぐらんと旋回を始める。
〈急に回り出して何なんですか、この人。いや、それよりも止めないと。〉
ダイフクは沙魚丸へ手を伸ばそうとし、慌てて引っ込める。
〈いけない、いけない。落ち着かなくては。〉
肉球をモミモミし、深呼吸を繰り返す。
死後の魂ならば、眷属が触れても問題ない。
魂を浄化する力を授かったダイフクであれば、なおさらのこと。
だが、今、目の前でグルグル回っているのは、特例により神界に招致された生きている魂。
この魂に触れるためには上司である月詠の許可がいる。
もしも触れたらどうなるのか・・・
一瞬、脳裏に浮かんだ疑問をダイフクは頭を振って消す。
〈私はいと尊き月詠様の眷属。ルールを破ることなどありえません。例え、緊急事態であっても!〉
ダイフクは知らない内にチッ、と大きな舌打ちをしていた。
〈この人を神界に招き、八上姫様にお任せするだけの簡単なお役目なのに、どうしてこうなるのですか。あぁ、もう、止まってくださいよぉ。〉
涙目となったダイフクの願いが通じたのか、グルグルと何周かした沙魚丸が、突然ピタリと止まった。
「あぁ、良かった、止まってくれました。」
ホッと胸をなでおろすダイフク。
一方、八上姫は完全に面白がっていた。
案内する人間に声をかけてみれば、突然、白目を向いて回り始める。
しかも、日頃、クールなイケメン猫を気取っているダイフクがおたおたしているのだ。
〈平和に慣れ切った眷属が想定外の出来事に慌てふためくのは、どこの世界でも同じなのね。〉
もっともらしいことを考える八上姫だが、目の前の光景を嬉々として楽しんでいるだけだった。
〈いけいけー、もっと回れー! あぁ、もう残念。ここが高天原なら、指笛を吹いて囃し立てるのに。〉
悔しがる八上姫だが、地球からの応援女神としての立場もある。
八上姫は上辺は大人しく微笑み、心の中だけで煽ることにした。
だが、この楽しい時間は突如、終わりを迎える。
沙魚丸がなぜかピタリと止まってしまったのだ。
〈あーあ、終わっちゃった。〉
残念、と肩をすくめる八上姫は何か妖しい視線を感じてゾクッとする。
〈何、この変質者にじとっと見られているような視線は。〉
視線の元をたどった八上姫は、チベットスナギツネのような表情の沙魚丸を見つけた。
〈ちょっと、この子、なんて顔してるのよ。〉
八上姫は我慢できずに腹をよじって笑う。
さて、肝心の沙魚丸だが、実を言うと八上姫を観た時、ひゅっと息を呑み、そのまま意識を失っていたのだ。
沙魚丸には八上姫に声をかけられてからの記憶がない。
グルグル回ったのは、八上姫の微笑みで過熱した脳を冷やそうと体が勝手に動いたためなのだが、沙魚丸は何も憶えていない。
意識を取り戻した沙魚丸は驚いた。
なんと、八上姫がこちらを見て微笑んでいるではないか。
以前の沙魚丸ならパタリと倒れていただろう。
だが、秋夜叉姫に会ったことで美人耐性を得た沙魚丸が気絶するのは一度だけだ。
しかも、八上姫を冷静に観察する余裕すら今の沙魚丸にはあるのだ。
〈秋夜叉姫様がクールな美人なら、八上姫様はキュートな美人ね。〉
無の境地でじっくりと眺めていると、なぜか八上姫が大笑いを始めた。
その時、沙魚丸の心は沸き立つ。
〈イイ! 今の笑顔、最高 絵を描きたい!!〉
ペンを持った右腕をプルプルと痙攣させるような動きをする沙魚丸にダイフクが声をかける。
「いい加減に落ち着いて下さい。」
「えっ、私のことですか。」
心外そうに尋ねる沙魚丸にダイフクはこれ見よがしに盛大なため息をついた。
そして、もういいです、と沙魚丸を無視して話を進める。
「申し訳ありませんが、私は次の用事がございますので、こちらで失礼いたします。」
「あら、どこに行くの。」
そそくさと背を向けたダイフクを八上姫は呼び止める。
ギギギィーっと軋むような音と共に振り返ったダイフクは泣きそうな笑顔を浮かべていた。
もう行かせてください、という声を飲み込んだダイフクは静かに答える。
「元沙魚丸様と小次郎様のお別れの儀の立ち合いを任されましたので、お二人がいる座敷へ参ります。」
えっ、と驚いた沙魚丸がダイフクに質問しようとした時、八上姫が沙魚丸の口に何かを放り込んだ。
沙魚丸が出しゃばると面倒になると考えた八上姫はお菓子で沙魚丸の口を塞いだのだ。
モグモグ
ゴックン
〈なめらか、しっとり、コクのある餡。これは因幡の白うさぎ饅頭! そうよ、松江城に行った時に食べた味。あの時、神社にも立ち寄ったわ。確か、祭神は八上姫・・・。あっ、八上姫って大国主命のお妃様じゃない!〉
沙魚丸が八上姫のことを思い出した時、八上姫はダイフクとの話を続けていた。
「でも、お別れの儀って本来は無いでしょ。」
「本来は、死後すぐの元沙魚丸様と転生前の谷沢結衣様が話し合う葬魂の儀が行われるはずだったのです。しかし、葬魂の儀が行われず、小次郎様に勘づかれるなど、異例の事態となりましたため、お別れの儀が行われることとなったのです。」
「大変ねぇ。」
他人事の様に片頬を押さえ微笑む八上姫にダイフクはキッと目を上げる。
「そもそも、八上姫様の神友でいらっしゃる秋夜叉姫様が・・・」
しかし、ダイフクが最後まで言うことはなかった。
八上姫がダイフクのほっぺをムニュムニュしはじめたのだ。
「ダイフクちゃん、あなたが月詠様の眷属と言っても、それ以上はダメよ。」
「ふぁい。みょうしゅわけごじゃいましぇん。」
首を垂れるダイフクの頭を八上姫はポンポンと叩いた。
「もういいわ。お務め頑張ってね。」
「ありがとうございます。では、沙魚丸様をよろしくお願いいたします。」
「はい。お任せされました!」
ニッコリと答えた八上姫に恭しく頭を下げたダイフクは肩の荷が下りたのか足取りも軽やかに行ってしまった。
「さて、私たちも月詠様のところへ行きましょうか。三貴神の一柱だから、とっても偉い神様なのよ。」
「私なんかがお会いしていいんですか。」
「今回は特別だから。まぁ、普通なら人間がお会いできる神様では無いわね。」
「なんだか、怖そうですね。」
「えっ、貴方に怖いなんて感情があるの!」
「どういう意味ですか。」
「あはは、ごめんなさい。秋夜叉姫から貴方のことを色々と聞いていたから。」
何かを思い出し、八上姫がクスッと笑うのを見た沙魚丸は頭を傾げる。
〈初見の女神様に抱き着いたのがまずかったのかしら・・・〉
いや、初見だろうと何だろうと神様に抱き着くことがダメなのだが、残念な沙魚丸には思いつかなかった。
うーん、と唸る沙魚丸を安心させるように、大丈夫よ、と八上姫がそっと囁く。
「月詠様はとっても苦労されているから、多少のことなら笑って許してくださるわ。」
神様が苦労? と不思議そうな表情をする沙魚丸に八上姫が声をひそめる。
「月詠様にはご令姉様とご令兄様がいらっしゃるの。でもね、ご令姉様はひきこもりで、ご令兄様は乱暴者だから、色々と大変なの。それを丸っと裏から月詠様が片付けているの。」
〈月詠様がすごいのは分かったんですが、そのご令兄は八上姫様のお父さんでは?〉
と疑問が浮かんだが、ここは異世界。
関係ないんだろう、と沙魚丸は突っ込まないことにした。