第17話 ダイフク
はっしと睨みつけてくる小次郎。
鋭い眼差しに気圧された沙魚丸は思わず後ずさる。
〈このまま黙っているのはまずいわ。『沈黙は妖狐と認めたことと同じだ!』と言う謎理論のもと、魔物は殺されるのがセオリーだもの。〉
一刻も早く誤解を解消しよう、と沙魚丸は両手を大きく広げる。
「小次郎さん、私は妖狐に憑かれてなんかいませんよ。どこからどう見てもあなたが知っている沙魚丸です。ほら、尻尾もないですよ。」
くるりと背を向けた沙魚丸はお尻を突き出し、ぺちぺちとお尻を叩く。
本人としては大真面目にやっているのだが、小次郎としては嬲れれているとしか思えない。
年若と思って馬鹿にしているのだな、と小次郎のこめかみに青筋が浮かび上がる。
しかし、焦っている沙魚丸は小次郎が怒っていることに気づかない。
それどころか、思考は明後日に向かってしまう。
小次郎が黙り込んだので、説得成功と勘違いしてしまったのだ。
妖狐の誤解が解けてよかった、と胸をなでおろした沙魚丸の心は浮き立つ。
〈心の友と言うだけあって、私が沙魚丸君じゃないと見破るなんて素晴らしいわ。これが男の友情ってやつなのね。〉
感極まった沙魚丸はニッコリと笑った。
だが、その笑顔を向けられた小次郎は確信した。
目の前にいる沙魚丸は間違いなく妖狐に憑かれているのだ、と。
〈なんて下卑た笑い方をするのか。沙魚丸様は大口を開けて笑ったことなどないのに・・・〉
沙魚丸の真っ赤な口を見ている内に小次郎の目は眩む。
小次郎の精神は一気に恐怖に支配され、その目に映るのはいつもの沙魚丸の姿ではなくなった。
獲物を前にした妖狐が真っ赤な口を開けニタリと笑い、小次郎を食い殺そうと舌なめずりをしているように見えるのだ。
じっとりと嫌な汗が吹き出す。
千鳥ヶ淵の小天狗と称されるほどの腕前を持ち、盗賊退治でも名を馳せる小次郎は強敵を前にしても臆することなどない。
にもかかわらず、足がガクガクと震える。
〈おのれ、妖狐め。私を恐怖で狂わせる気か。〉
『沙魚丸様を救う』
その一念で小次郎は足の震えを止めた。
スゥッと息を吸い込んだ小次郎は、気迫のこもった声を轟かせる。
「黙れ、妖狐。沙魚丸様のお体を操り、あられもない姿を晒すなど不届き千万。さっさと沙魚丸様のお体から出て行け。」
しかし、調子に乗った沙魚丸に怖いものはない。
女神に平然と抱き着くことができる剛の者なのだから・・・
さっきまで小鹿の様に震えていた小次郎が雄々しく話す様子に沙魚丸はニンマリと笑う。
〈健気な少年って感じがして、とってもかわいい。妖狐って相変わらず勘違いしてるみたいだけど、なんでだろう。そうね、ここはお姉さんとして優しく接するべきよね。〉
とりあえず、理由を教えてもらおうと沙魚丸は尋ねることにする。
「私が妖狐に憑かれていると思う理由を教えてください。」
どこまでも人を小馬鹿にする妖狐め、と小次郎は呟き、刀の柄を叩いた。
「いいだろう。教えてやる。私がお側に仕えてから沙魚丸様は一度も泣いたことが無い。それなのに、あんなにも激しく泣きじゃくる醜態を取らせるとは、沙魚丸様を馬鹿にするにも程がある。」
〈ほんのちょっと泣いただけでしょ。そこまで言わなくてもいいじゃない。〉
どれほど激しく泣いたのか自覚のない沙魚丸はムウッと口を尖らせる。
「でも、源之進さんは信じてくれましたよ。」
「やかましい。涙を武器に父上を篭絡するなど、妖狐が化けたと言う玉藻前そのものではないか。御役目のため、沙魚丸様と滅多にお会いできない父上を騙せても、ずっとご一緒している私を騙せると思うな。」
激する小次郎を前に沙魚丸はスンとなる。
〈ほら、また出た。知らないことばかりで対応できません。記憶を探ればね、できるのかもしれないよ。でもね、そんな時間、無かったでしょ。〉
何も言わない沙魚丸に対して、小次郎はトドメの言葉を放つ。
「沙魚丸様が数年ぶりにお話になったと喜悦させ、さらに、女神様にお会いしたなどと歓喜させる。私たち親子を有頂天にし、心の隙を突く所業、まさに鬼畜。妖狐以外の何ものでもない。」
トドメを撃ち込まれた沙魚丸は、言葉を失った。
〈これは説得できないわ。どうしよう・・・〉
本当のことを伝えたら助けてくれるかしら、と沙魚丸は悩み始めた。
だが、だんだん気が遠くなっていく。
あれ、これは経験した気が・・・、と思った途端、沙魚丸はパタリと倒れた。
◆◆◆
目を開けてみれば、今までいた場所ではない。
キョロキョロと周囲を見渡した沙魚丸はここがどこなのかを理解した。
〈ここは神界ね。この清浄な雰囲気。間違いないわ。でも・・・〉
沙魚丸が戸惑ったのは、秋夜叉姫に呼び出された空間とは違うからだ。
大広間とも思える広い畳敷きの座敷に寝ていた沙魚丸はよっこらしょと体を起こす。
さっきまでと変わらない服装、血の跡も切られた跡も無いことに沙魚丸はホッとする。
〈どうやら、小次郎さんに殺されて神界に来たわけじゃなさそうね。〉
ちょっと周囲を探ってみようかな、と沙魚丸は立ち上がった。
「沙魚丸様」
「キャー!」
突然、背後から声をかけられた沙魚丸は悲鳴を上げて、腕を振り回す。
ボコ!
何か毛むくじゃらの柔らかいものに当たった感触がした。
こわごわ振り返ると、そこにはうつ伏せで獣人が倒れていた。
〈えっ、倒れてるの。もしかして、私が殴ったの?〉
「だっ、大丈夫ですか。」
「御心配いりません。全然大丈夫です。何と言うか驚きました。まさか、この私が人間の拳ごときで倒されてしまうとは・・・」
フラフラと立ち上がった声の主を見て、おぉっ、と声が漏れ出る。
何しろ、沙魚丸の目の前にはハチワレ猫がスックと立っているのだ。
さらに着物を着ているではないか。
半裃を着用し、扇子を持ったダイフクは打刀と脇差しを腰に帯びている姿は、武士そのもの。
沙魚丸はジュルリとあふれ出そうな涎を飲み込んだ。
〈この猫ちゃん、かわいい。よしよしさせてくれるかしら・・・〉
妖しく光る沙魚丸の視線を軽く受け流したハチワレ猫は、姿勢を正し、ペコリと一礼をする。
「私は、月詠様の眷属が一使、ダイフクと申します。沙魚丸様を下界から神界へお連れするよう月詠様より命じられた者でございます。」
ドヤァ、と光沢のある美しいヒゲをヒクヒクさせている姿に沙魚丸はフラフラと吸い寄せられそうになるのを必死で耐える。
〈ヤバい、ヤバい。神界で犯罪者になるわけにはいかないわ。〉
しかし、挨拶をされているのに応えないのは猫好きの名折れ。
沙魚丸もきりっと表情を作る。
「前は谷沢結衣、今は椎名沙魚丸と申します。よろしくお願いします。さっきはごめんなさい。」
ダイフク同様にペコリと頭を下げた。
「ノーダメージですから、お気になさらず。」
凛々しく答えたダイフクが、パン、と手を叩く。
すると、お女中姿の猫が座敷へ入って来て、あっという間にお茶席を準備した。
「沙魚丸様。まずはお座りください。」
着座した沙魚丸は、どうぞ、どうぞ、とダイフクに促されるままにテーブルの上に置かれた華やかな装いのエクレアに手を伸ばす。
「美味しい。」
「お気に召されましたでしょうか。」
「ええ。とっても。こんな美味しいエクレア初めて食べました。」
「ありがとうございます。今回、沙魚丸様を神界へお招きいたしましたのは、月詠様直々に沙魚丸様へお伝えしたいことがあるためなのです。」
ダイフクの深刻な表情に驚いた沙魚丸は紅茶を飲んだままコクコクと頷く。
懐中時計を取り出したダイフクは時刻を確かめると、スイっとヒゲを撫でる。
「もう間もなく、沙魚丸様を月詠様のもとへお導きになる女神様がいらっしゃいます。実は、当世界の女神様ではなく、八上姫様と申されます日本の女神様にお願いしております。」
〈八上姫様・・・。どこかのお城に行った時に聞いたような気がする。〉
どこだっけぇ、と首を傾げた沙魚丸は、思い出すためには甘いものが必要ね、と次のエクレアに手を伸ばす。
「美味しいでしょ、このエクレア。」
「はい。幾らでも食べれます。」
「ダメよ。ほどほどが一番いいのよ。」
えっ、誰、と顔を上げると、見ず知らずのとんでもない美人がニッコリと微笑んでいた。
「こんにちわ。沙魚丸君の案内役を申し付かりました八上姫です。よろしくね。」