第16話 脇差
脇差を抱えて号泣する沙魚丸を前にして、源之進は困り果てていた。
傅役を拝命して以来、沙魚丸が声を上げて泣く姿など見たことがない。
〈いや、百合様に抱かれて、元気よく泣いていたっけな・・・〉
在りし日を思い出し、不意に源之進の目頭が熱くなる。
唇を噛みしめた源之進は、感傷に浸っている場合ではない、と頭を左右に振った。
『負けず嫌いで、何があっても謝らない。』
そういう沙魚丸の印象がガラガラと音を立てて崩れ去った今、傅役の経験に頼るべきではないと源之進は思った。
数多の戦場を駆け抜けて来た源之進である。
どんなに優れた戦略であろうと、柔軟性を無くせば、いつか相手に打ち破られることを体の傷が知っている。
〈我が子に頼るなど情けない話だが、乳兄弟の小次郎ならば、どうにかしてくれるだろう。〉
源之進は振り向くと、目を疑った。
そこには、茫然と立ち尽くす小次郎がいたからだ。
源之進は思わず、参ったな、と呟いた。
〈やれやれ、己の考えの浅はかさに涙が出る。乳兄弟だからこそ、小次郎が受けた衝撃は私のとは桁違いなことに考えが及ばないとは・・・。〉
「想定外のことが起きたら、冷静になる。」
と独り言ちた源之進は、非常事態を楽しむ余裕を取り戻していた。
まずは沙魚丸に泣き止んでもらおう、と口を開く。
「沙魚丸様。落ち着いて下さい。私は腹を切る気はございません。」
「か、かっ、考え直してくれましたか。」
嗚咽混じりに話す沙魚丸に、源之進は黙って懐から手拭いを取り出した。
涙と鼻水だらけでぐちゃぐちゃになった沙魚丸の顔を見た源之進の胸がじわりと熱くなる。
〈不謹慎だが、主君に心配され泣かれるなんて、私は幸せ者だな。〉
手拭いで沙魚丸の顔をふきつつ、そう言えば答えを考えていなかったな、と源之進は可笑しくなる。
源之進をじっと見つめる沙魚丸の視線を敢えて外した源之進は目を泳がせた。
「ええ、はい、そうですね。」
何とも歯切れの悪い源之進の答えに沙魚丸は、何か変だ、と思う。
〈嫌な予感がするわ。〉
こういう場合の沙魚丸の感はよく当たる。
なぜなら、自分が何かやらかしたと知っているから。
聞くの嫌だなぁ、と沙魚丸の心はすっかり逃げ腰なのだが、逃避は許されない。
「もしかして、私の勘違いですか。」
「それよりも、濡れた手拭いで顔を拭きましょう。後ほど水を持って参ります。」
沙魚丸の問いにきちんと答えることなく源之進が微笑んだことで沙魚丸は確信した。
〈うわぁ、私、やらかしたのね。でも、さっきの状況って、どう考えても切腹するでしょ。うーん、まぁ、答えは変わらないけど、一応、確認しましょうかね。次もやらかすかもしれないし・・・〉
「脇差を置いたのは、なぜですか。」
「その脇差は、沙魚丸様の御父君である春久様より、沙魚丸様の傅役に任命された時に拝領したものなのです。」
「これが・・・」
沙魚丸は脇差を矯めつ眇めつしてみるが、何の感想も浮かばない。
〈拵も凝っているように見えないわね。刀身がすごいのかしら。と言って、断りなしに刀を抜く不届き者にはなりたくないし、やらかしたのにお願いするのもなぁ。〉
唇を尖らせる沙魚丸に源之進が微笑む。
「縁と頭をご覧ください。」
どういうことかしら、と脇差を縦にして柄の上側を見た沙魚丸は金の装飾を見つけた。
「これは魚が施されているのですか。あっ、この間抜けな顔はハゼですね。」
ナニコレ、と興味津々な表情で沙魚丸は尋ねた。
「御推察の通り、ハゼを高彫で描き出した逸品でございます。沙魚丸様が立派な武将になるように願われた春久様と百合様が都の彫金師に特別に誂えさせたものなのです。」
へぇー、と感心する沙魚丸に源之進が言葉を続ける。
「その縁頭と共に刀を拝領する際、『沙魚丸をよろしくお願いいたします。』と百合様からお言葉をいただいたのですが・・・」
そう言うと、源之進がガックリと肩を落とした。
〈えっ、突然、どうしたの。〉
源之進の変わりように驚く沙魚丸は、続いて発せられる声の弱々しさに胸が張り裂けそうになる。
「私は沙魚丸様が仇討ちをされたいとは夢にも思っておりませんでした。こんな私が沙魚丸様の傅役のままでいいはずがありません。春久様亡き今、この脇差を沙魚丸様にお返しし、改めて、お側にいてもよいかお聞きしたかったのです。」
そうでしたか、と沙魚丸は静かに呟いた。
裏腹に心の中では激しく落ち込んでいた。
〈異世界に来て早々に突っ走るなんて、自分の馬鹿さ加減が嫌になっちゃう。私のせいで、源之進さんは心に傷を負って傅役を辞めるとまで言ってるし・・・〉
しかし、落ち込んでいる場合では無い。
目の前で打ちひしがれている源之進に立ち直ってもらわなければいけないのだ。
〈私のせいで傷ついた・・・。そう、私だからできる!〉
沙魚丸は、源之進にスッと脇差を差し出した。
何も言わない沙魚丸に源之進は困惑しつつ、差し出された脇差を受け取った。
「受け取りましたね。」
ふっふっふ、と笑った沙魚丸がビシッと源之進を指さす。
「父上亡き今、改めて私が命じます。私の傅役を続けるように。これからもその脇差で私を守って下さい。」
一瞬、ポカンとした源之進が、こらえきれずに、くっくっ、と笑い出す。
憑き物が落ちたように明るい顔となった源之進が脇差を頭上へとかざした。
「謹んで拝命いたします。」
〈よっしゃー! 一件落着!〉
心の中で雄叫びを上げた沙魚丸はペコリと頭を下げる。
「私の早とちりのせいで、すいませんでした。」
「何を申されます。私の振る舞いがいけなかったのです。それよりも、『私より先に死んだら不忠者として、末代まで祟ってやります。』と言う言葉にしびれました。」
「その言葉は本当です。絶対に守って下さい。」
「主命と言えど、守れぬ場合もあります。」
沙魚丸と源之進は顔を見合わせ、高らかに笑いあう。
そして、ひとしきり笑った源之進は小次郎の肩を軽く叩いた。
「お前にも心配をかけてすまなかったな。」
「あっ、はい。」
まだ立ち直れていない小次郎に、もう少し休んでいなさいと源之進が優しく諭す。
いい親子だなぁ、とほのぼのする沙魚丸のお腹からグーっと大きな音がきらめく夜空に響き渡った。
「申し訳ございません。沙魚丸様は何も召し上がっていませんでしたね。」
源之進の言葉に沙魚丸は黙って頷いた。
恥ずかしくて返事ができなかったのだ。
〈こんな場面でグーって何なの。沙魚丸君、ごめんなさい。あなたのイメージはたった一日で崩壊したかもしれません・・・〉
謝る沙魚丸の前に源之進が茶色い団子のような塊を置いた。
「こちらをお食べ下さい。」
〈黒いけど、アンコではないよね。〉
まったく美味しそうに見えない塊をじぃっと見つめた沙魚丸に答えが浮かんだ。
「兵糧丸ですか」
「はい。」
にっこり笑った源之進に沙魚丸も笑顔を返す。
〈これが戦国時代の食料かぁ。〉
兵糧丸を初めて見た沙魚丸は好奇心がむくむくと膨らむ。
「食べてもいいんですか。」
どうぞ、と源之進は勧める。
兵糧丸を手にしたところで、山城の本丸でお昼ご飯を一緒にした際の社長の言葉が脳裏に浮かんだ。
『働いている部下より先に食事してはいけない。』
食べたい心を押さえつけ、すました顔で沙魚丸は尋ねる。
「お二人はもう食べましたか。」
「はい。」
「では、いただきます。」
沙魚丸は兵糧丸をポイっと口に入れた。
〈うわ、何これ。〉
口の中に何とも言えない臭いが広がった。
無理です、と沙魚丸は目で源之進に訴える。
「いつもと違うことに気づかれましたか。今回の兵糧丸は常盤木家特製のものですが、いかがでしょう。」
〈いかがでしょうって、臭いし苦いし、ろくなもんじゃないと思います。それに、そんな真っ直ぐな目で見られたら、ペッて出来ないわ。〉
こうなったら一気に飲み込んでやる、と沙魚丸は決めた。
しかし、敵もさるものである。
「今日の晩飯はそれだけですから、よく噛んでお食べ下さい。噛めば空腹感がなくなりますから。」
黙って頷いた沙魚丸は、心の中で泣きながら口の中の兵糧丸をモグモグと噛みしめる。
〈まずいよぉ。私が領地を持ったら美味しい兵糧丸を作ろう。〉
沙魚丸が異世界に来て初めての目標を考えた時、源之進が立ち上がった。
「それでは、水を取って参ります。」
源之進の背中が見えなくなった時、それまで沈黙していた小次郎が俄かに立ち上がった。
そして、柄に手を掛け、沙魚丸を燃えるような瞳で睨みつけ声を荒げる。
「沙魚丸様に憑いた妖狐よ。今なら許してやるから、さっさと沙魚丸様から退散しろ。」